第116話 ごめんね、ミア
赤い夜。
風に揺れるかのように、いいえ、穏やかな水の中で揺れるかのように、ヴァイオレット様の赤い髪の毛がたなびいています。
限りなく白い肌と、整った顔立ち。綺麗なだけじゃなくて、その表情が、仕草が、とても魅力的――。
その美しい人が、鮮やかに微笑んでアルヴィ様の顔を覗き込みました。
「……」
彼女は何かおっしゃったようでしたが、わたしには何も聞こえませんでした。
でも、アルヴィ様には聞こえたようで。
「それは当然だろう」
そう彼が言葉を返した瞬間、ヴァイオレット様が白くて細い腕を軽く上げて。
照れたような表情で、アルヴィ様を殴りつけました。
ただ、その手は見事にアルヴィ様の肉体をすり抜け、殴るどころか触ることもできず、ヴァイオレット様がそこで笑みを消して眉根を寄せました。
「君が相変わらずで嬉しいよ。その……」
アルヴィ様の声は、今までわたしが聞いたことのない甘さを含んでいます。
それは当然のこと。
誰よりも好きな人に会えたのだから。
そして、それからのアルヴィ様の声はどこか遠くに響いているようで、わたしの心がそれを理解することを拒否している感じがしました。
聞いてはいけないこと。
お二人を邪魔してはいけないこと。
やっぱり、わたしはここについてきてはいけなかったんだ。
そんな気がして。
わたしは思わず二人から目をそらすと、隣にいたコーデリア様に少しだけ身体を寄せました。
「前に言ったじゃろ?」
コーデリア様が苦笑交じりにわたしの耳元で囁いてきました。「お主はあの男から離れた方が幸せになれると」
「……そんなこともありましたね」
わたしはぎこちなく笑います。
唇を噛んで俯くと、自分の足元が目に入りました。
何だか、自分がここに立っていることすら実感がない感じ。
色々これまでのことを思い出してみても、自分の情けなさが露呈するだけしかなくて、無性に笑いだしたくなりました。
アルヴィ様と一緒にいて、最初はただ嬉しかったし幸せだった。
でも、色々悩むことも増えてきた。
好きになっちゃいけないとか、気持ちを誤魔化そうとか、一緒にいればいるほどアルヴィ様に対する想いは複雑化していって、いつだってふらふらしていて。
こんな曖昧な感情に振り回されるだけのわたしは、一体何なのだろうとも思います。
「本当に……離れたら幸せになれますか」
わたしはコーデリア様に自分の頭を押し付け、小さく問いかけます。「自分がよく解りません。考えれば考えるほど、解らなくなるんです。わたしの幸せって何なんでしょうか。アルヴィ様はヴァイオレット様と一緒にいることが一番の幸せでしょうか。でも……わたしは」
アルヴィ様に死んで欲しくない。
このまま一緒にいたい。
でもきっと、引き留めたら……わたしはアルヴィ様に嫌われる。
憎まれる。
ヴァイオレット様だけを愛されているのだから……それは当然のことで。
アルヴィ様の気持ちを尊重したいなら、引き留めてはいけないわけで。
「……アルヴィ様がいなくなっても、コーデリア様はわたしと一緒にいてくれますか」
――泣いちゃダメだ。
わたしはコーデリア様に顔を見られないように、彼女の腕に縋り付いて俯きました。
ああでも、俯いたら涙がこぼれてしまいそう。
「コーデリア様は優しいから、もし……そうなったら慰めてくれますよね?」
冗談めかしてそう言っても、自分の声が震えているのが自分でも解ります。
「妾はそれほど優しくはないがの、まあ、努力はしてやろう」
「優しいじゃないですかー。もうー! 大好きー」
えへへ、と笑いながら、できるだけ自然に見えるように自分の目元を手で拭いました。すると、宙を浮きながらこの様子を見てじたばたしていたルークがわたしの頭の上に飛び乗ってきました。
「何いってんだ! おい! カッティングボード!」
「そろそろ殴りますよ? ちゃんと名前で呼んでください」
「殴ってもいいから、ご主人をとめろにゃ!」
「とめられます?」
わたしはルークを頭から引きはがすと、胸に抱きこんでアルヴィ様とヴァイオレット様の様子を見せました。
楽し気に何か話し込んでいる二人。
それはとても幸せそうで。
「ご主人は今も、悪夢にうなされてるにゃ。うなされてる時は、この俺様が噛んで起こしてやるけどにゃ、最近は随分よくなってきてる! やっと普通に笑うこともできるようになったし、もうそろそろ過去は過去として認められるんじゃないかって思ってたのに!」
ルークがわたしの腕の中から逃げようと暴れます。そしてわたしは自分の腕にさらに力を込め、押さえつけました。
「でも、それは苦しんでいらした……ということですよね。いいえ、今も苦しんでいらっしゃる」
「だからにゃんだ! だからって向こう側にいこうなんざ、こんなん、逃げだろ! 駄目だろ!」
「ダメ……ですか」
「あったり前にゃー!」
ルークがさらにじたばたと暴れ、さらにはわたしの指をがぶがぶと噛み始めました。「ご主人がいなくにゃったら、俺様はどうしたらいいんだ! 主と認めたいのは、ご主人だけなんだぞ!」
我々がこんなことを言い合っている間も、アルヴィ様はこちらに背中を向けたままヴァイオレット様と何事か会話をしていました。
アルヴィ様の声だけが、途切れ途切れになりつつも聞こえます。
「殿下の件は、まあ、何とかなったと思う。随分、気にされていたけどね」
――殿下?
「もう、関わりたくないよ。それに、お互いのためにもなる。僕が殿下のそばにいれば、否が応にも君のことを思い出すだろうし」
――何のことを話されているんだろう。
でも、これはわたしたちには関係のない会話。
きっとそう。
「だから、僕もいない方がいい。そう……思わないか」
アルヴィ様がそう言った途端、ヴァイオレット様の笑みが消えました。
その切れ長の目が細められ、不機嫌そうに唇が歪みます。
そして何か一言二言、おっしゃったようでした。
「思わないにゃー!」
そこで、あまりにも唐突に響いたのはルークの叫び声。
暴れまくって、わたしの腕にもひっかき傷を残しつつ、彼はわたしの腕の中ら抜け出していました。そのまま、凄まじい勢いでアルヴィ様のそばに飛んでいくと、彼の服の裾に鋭い牙を食い込ませつつ必死に言うのです。
「ほすじん! ほのほへさまをのほしていふなんへふゆさな」
「何を言っているのか全く解らないんだけど」
苦笑しつつ、アルヴィ様がルークを抱き寄せました。アルヴィ様はそこで、いつになく念入りにルークを撫でているようでした。
――お別れの前だから?
わたしはまた、目の奥が熱くなるような感覚に襲われました。
「……ルーク」
アルヴィ様は少しだけ静かになったルークを見下ろして優しく微笑みました。「ラウールのところにいけば、君のことは引き受けてくれると思う」
「聞こえないにゃ」
「聞こえてるだろう」
「聞きたくないにゃ」
「そう」
アルヴィ様の声はどこまでも優しくて。
ルークの声は泣きそうで。
「ミア」
アルヴィ様がわたしの名前を呼ぶものですから、思わずわたしはコーデリア様の腕に顔を埋めました。
聞こえない。
聞きたくない。
そう言えたら楽だったでしょう。
でも。
「君のことは、コーデリアに任せようと思う。大丈夫だよね?」
……大丈夫です。
そう、言えたらよかったのに。
いいえ、言わなきゃ。
どんなに厭だと思っても。どんなに苦しくても。
「任せるがよい」
コーデリア様はどことなく冷ややかな口調で続けました。「大切にしてやろう。これは妾の非常食じゃからの」
わたしはそこで、コーデリア様を見上げました。
冷徹な横顔。
でも、わたしを見下ろしてくれるコーデリア様の表情は、少しだけ優しい。
「……そうですね」
だからわたしも、そう応えました。
もう、いいかな。
非常食でも。
だって、コーデリア様だもの。
わたしがコーデリア様に縋り付いたまま俯いていると、微かな足音が聞こえました。
地面に落ちた視線の先に、アルヴィ様の靴の爪先。
そして、いきなりわたしの目の前にルークを差し出してきたアルヴィ様は、小さく囁きました。
「……ごめんね、ミア」
ずるいよ。
そんな、優しい声で。
当たり前かのように。
これでお別れにしようなんて。
わたしは唇を噛んだまま、無言でルークを抱き寄せました。
ルークが何か叫んでいるのが『見え』ました。わたしの腕の中からまた逃げ出そうとしている。でも、何を言っているのかわたしの耳には入ってこない。
別れたくない。
ルークの様子からそれが解ります。
わたしだって。
わたしだって!
本当は、お別れなんて厭なんだ!
我慢していたはずの涙は、呆気なく頬を伝い落ちました。




