第115話 君に会いたかったんだ
わたしたちはアルヴィ様の後を追って歩いていました。
異形のものが、頭上を、そしてわたしたちの左右をすり抜けていきます。それは影のようなものだと最初は思っていましたが、時間が経つにつれて実体化していくようでした。
なぜなら、彼らの足音が少しずつ聞こえてくるようになったからです。重みを持って歩く存在。
彼らは幽霊なのか、魔物なのか。
巨大な獣のような姿をしたものが、地面を揺らしながら歩いていると思えば、美しい少女が肌も露な格好で空を飛ぶ。
元は人間らしき男性が、明らかに死者と思われる変色した身体でのろのろと歩く。
人間の姿はしているものの、巨大すぎて見上げなければいけないようなものもいます。
一部分を見れば、恐怖そのものの光景。
でも、まるで精霊のような美しい存在もいました。
それはまるで、夢の中の出来事のようでした。
アルヴィ様の足取りはゆっくりでした。
こちらを振り返ることもせず、魔力の強くなる方向へと向かうだけ。
きっと、そこがアルヴィ様の目的地。
死者の世界へと続く門がある場所。
「……カッティングボード、これからどうするつもりにゃ」
ルークがわたしの左肩の上で小さく囁いてきます。さすがに指輪を咥え続けるのは面倒になったのか、無理やりそれをわたしに押し付けた後での会話です。
「俺様たちで、ご主人をとめられると思うか?」
「……解りません」
指輪の存在を持て余しつつも恐る恐る手のひらの中に閉じ込め、わたしも囁き声で返しました。「あなたはどうするつもりですか?」
「むー……」
ルークは本当に困ったと言いたげに唸り続けました。
異形の者たちがほとんど実体化し、わたしたちのことを無視して左右をすり抜けていく際に、凄まじい風圧がやってくるようになってきました。
それが厭になったようで、コーデリア様がわたしたちの周りに見えない壁を作ってくださいました。防御壁のようなものでしょうか。
風圧が消え、少しだけ森のざわめきも遠く感じられるようになります。
でも、前を歩くアルヴィ様の周りにはその壁がないので、嵐の中を歩いているような姿が目の前にあるような状況です。
アルヴィ様に興味がないと言ったコーデリア様ですから、彼を壁で守る必要がないと思ったのでしょうか。
「……やっぱり、アルヴィ様は『あちら側』に行ってしまわれるんでしょうか」
わたしは隣を歩くコーデリア様に問いかけます。
返事はなくてもいいと思っていました。
きっと、返ってくる言葉は予想ができたから。
だから、質問を変えました。
「もし、人間が死者の世界へと行ってしまったら、死んで……しまいますよね?」
「当然じゃな」
コーデリア様の言葉はあっさりとしたものでした。「肉体ごと行くのであれば、死体も残らん」
「そう、ですか」
唇を噛んで俯くと、少しだけコーデリア様の視線を受けるのを感じました。
自分はどうしたいのだろう、と思います。
アルヴィ様をとめたい。
死者の世界になんて行ってもらいたくない。
死ぬなんて駄目。
でもそれはわたしの上っ面だけの感情なのかも。
わたしは偶然にもアルヴィ様のおそばに置いてもらえることになって、本当に嬉しかったのです。
ずっと憧れていた、綺麗な方。
そう、最初は確かに憧れだったかもしれない。
でも、こうして一緒に生活してみて思ったこと。
アルヴィ様は確かに優しいし、魔術師としてもとても強い。
頭はいいのかもしれないけど、どちらかというとずる賢いとも言える。
仕事の依頼で困った人を助ける時には、笑顔で嘘をついて相手を丸め込むのがとても上手。
つまり、やり手なんです。
でも。
アルヴィ様の熾烈な過去も知りました。
誰よりも大切な女性を失った方。
リーアの森に住んでいるのは、死者の世界の門が開くのを待っていたから。開くかどうかも解らない、不確定なおとぎ話のようなものを信じたアルヴィ様。
信じずにいられなかったのかもしれない。
そうすることで、生きてこられた?
ある意味、不器用な方。
コーデリア様はアルヴィ様を死体のようなものだと言いました。
きっと、その通りなんだと思う。
アルヴィ様の心はもうとっくに亡くなっていて、心臓が動いているだけの生活だったのかもしれない。
そのアルヴィ様が、ずっと会いたいと思っていたヴァイオレット様に会えたら。たとえ相手が死者であったとしても、もし会えたのなら。
一緒にいたいと思うのは当然のことなのだ。
わたしがアルヴィ様と一緒にいたいと思う感情よりもずっと強く、激しく、それを求めているのならば。
それをとめるのは……どうなのだろう。
アルヴィ様の幸せが、もしもこの世界にないのならば。
引き留めるのは罪なのではないだろうか。
でも、やっぱり。
わたしはアルヴィ様が好きで。
誰よりも好きで。
優しい笑顔とか。
相手を騙すときに使う作り笑顔とかも好きで。
わたしが作った食事を食べてくれて、笑顔で「美味しい」と言ってくれるだけで幸せになれたりする。
部屋の掃除が苦手で、とんでもないお屋敷に住んでいらしたけど、それを片づけて過ごしやすい環境にした自分が自慢だった。
でもこれって、自己満足だよね。わたしが勝手にやったこと。
アルヴィ様にとってわたしは、ただの使用人。魔術師と弟子と呼ぶのもおこがましいくらいの関係。
でも、わたしは充分幸せだった。
そう、充分じゃない?
このままアルヴィ様のそばに置いて欲しいと願うこと。
アルヴィ様に生きていて欲しいと願うこと。
これって、アルヴィ様にとっては迷惑なことなのかもしれない。
ただのお荷物なのかもしれない。
だから、独り立ちして欲しいと思っていたのかもしれないし――。
わたしは。
アルヴィ様を引き留めるだけの……理由にはなれない。
「やべえ、そろそろだぞ」
肩の上でルークが身体を震わせています。
顔を上げて前を見ると、いつの間にか異世界の中に迷いこんだような光景が目の前にありました。
コーデリア様の壁を通り越して轟くような、苦痛に満ちた悲鳴や、呪詛にも似た叫び声。
魔物らしき者たちが蠢き、空を裂くかのような咆哮を上げています。
門から這いずるように出てきた死者たちは、やがて立ち上がり、空を見上げます。そして、まるで目的地があると言わんばかりに大地を蹴って空へと浮かび上がるのです。まるで、翼があるかのように彼らは空を飛び、どこか遠くへとその姿を消していき――。
「彼らはどこにいくのでしょうか」
わたしが空を見上げつつ呟くと、コーデリア様が小さく笑いました。
「復讐でもしにいくのではないか。この世界に恨みを残した者たちが、門が開いたチャンスを逃すはずはないじゃろうな」
「……復讐?」
「今夜は荒れそうじゃの」
「放っておいてもよろしいのでしょうか?」
「赤い夜の影響は朝には終わる。門が閉じれば奴らも消え去るものじゃ」
「夜明けまで……まだ遠いです」
「ならば我々だけで戻るか? 浄化の魔術を覚えたのなら、お主は役に立てるはずじゃがのう」
静かに、それでいてからかうように紡がれた彼女の言葉。
本当ならば、リーアの森に一番近い村――わたしの両親が住んでいるノルティーダの様子を見にいきたくなるのが当然なのかもしれません。
万が一にでも死者たちが村を襲ったりして、何か問題が起きていたら大変だと思います。
でも、わたしは首を横に振ることしかできませんでした。
そして。
いつしか、アルヴィ様の足がとまっていて。
巨大な黒々した穴が、目の前に広がっていることに気づきます。
それは今までに見たものの中で、最も異質で最も恐ろしい気配を放っていました。
人間が思いつくものをさらに超えた、恐怖そのもの。
その穴から次々と這い出る者たちが、様々な声を上げていて。そこには終わりというものが存在していないようでした。
――どうしよう、怖い。
自然と、わたしはコーデリア様の服を掴んでしがみつくような格好になっていました。
手足が震えて、言葉も出てこない。
コーデリア様がそんなわたしの頭を撫でて、小さく笑った気配がしました。
アルヴィ様はしばらくの間、その穴――巨大な死者の世界の門を見つめたまま立ち尽くしていました。
無限に続くと思われた、死者たちの行進。それがだんだん減ってきて、魔力の膨大な放出はそのままでしたが、死者たちの声が静かになった頃。
異形の者たちが門から這い出ることよりも、限りなく人間に近い『何か』が姿を見せることが多くなっていき――。
「ヴァイオレット」
アルヴィ様が少しだけ不安そうにその名前を呼びました。
コーデリア様の服を掴んでいるわたしの手にも力が入ります。
門から出てきた死者たちは、アルヴィ様の横をするりと通り抜け、どこかに行ってしまいます。多分それは、アルヴィ様が求めた彼女ではなくて。
アルヴィ様は門をじっと見つめたまま、もう一度その名前を呼びました。
「ヴァイオレット?」
すると。
あまりにも唐突に、その門の中央から姿を見せた影がアルヴィ様に気づいたようで、人間とは思えない動きで素早く彼の前に立ちました。
最初は靄がかかったようにそこにいた影は、あっという間にその姿を鮮明にしていきました。
その顔を、わたしは知っています。
アルヴィ様のお屋敷の二階にあった絵。その姿のまま。
アルヴィ様よりもずっと若い姿のままで。
彼女は笑いました。
「ずっと、君に会いたかったんだ」
そんな掠れた声が辺りに響きました。
アルヴィ様の顔はわたしの位置からは見えませんでした。でも、その声に含まれた歓喜の感情はあまりにも強い。
わたしの心臓が激しく痛みました。




