第111話 赤い夜がやってきます
「悪いけど」
ふと、アルヴィ様は少しだけその雰囲気を和らげてわたしを見つめました。
わたしを気遣うような気配。不安を感じているわたしに気づいたのでしょう、怒りという感情を抱えながらも、いつもの笑顔に似た形をその唇に作ります。
「君に気をかけている余裕はないんだ。ここが厭なら、師匠の家にいるといい」
「いいえ」
わたしは思わず自分の服の胸元を掴み、言葉を探しました。「もし、あの……シュタインとお戦いになるのなら、わたしもお手伝いできることが」
「ないよ」
「え、でも!」
さらにわたしの指先に力が入りました。その手首を、アルヴィ様がいつになく乱暴に掴んで引き寄せました。
「君は何もできない。自覚はないのかい?」
アルヴィ様の声が耳元で響いて、彼がわたしに屈みこんでいることに気づきます。
彼の顔がわたしの右の耳に寄せられていて、その表情を見ることはできません。
でもどこか、意地悪な響きを持って次の言葉は発せられました。
「自分が足手まといだと思わない?」
「それは……そうかもしれませんが」
思わず唇を噛んで俯きますが、ここで引いてはいけないと心に決めて顔を上げました。「でも、わたしには浄化の力があるとおっしゃいましたよね! シュタインが魔物であるなら、きっとわたしでもお役に立てます!」
「言うのう、娘」
背後からコーデリア様の声。すかさず「ミアです」と突っ込みを入れていると、ルークの声も遠くから飛んできました。
「頑張れにゃ、カッティングボード! 叩かれても刻まれてもへこたれない、硬い板のようになれ!」
「一言余計です!」
くわっ、と目を見開いてルークの方へ目をやると、ベッドの上で寝そべって毛づくろいしている彼の姿がありました。
こんな状況でくつろぎすぎ!
「……単純に邪魔なんだけどね」
アルヴィ様がそこで呆れたように身体を引き、肩を竦めました。
さっきまで確かにあった不機嫌さは少しだけ消え、困惑している感情の動きが感じられます。
邪魔と言われてしまうとちょっとつらいのですが、でも――。
やっぱり、どうしてもアルヴィ様だけを見送ることはできません。
「そこまで言うならおいで。でも、厭なものを見せるかもしれないことだけは理解しておいて」
「はい」
「僕が君のことを守れないかもしれないことも理解できる?」
「はい!」
わたしは拳を握りしめて頷きました。「わたしにはコーデリア様がいらっしゃいますから!」
「それはそれで複雑だな」
くくく、とアルヴィ様が笑って、この場の空気が和らぎます。「いや、それでいいのかもしれない。正直、君の僕に対する信頼が……」
その後のアルヴィ様の言葉は、彼の唇の中に消えて聞こえませんでした。
――信頼が?
それ、前もおっしゃっていたような……。
「急ごう」
アルヴィ様はベルナルド家の後処理は保留にしたまま、お屋敷を出ました。
完全な闇ではなく、月明かりで妙に明るく感じる空の下。
イヴァン様は毒気を抜かれたように表情がなくなっていましたが、安堵したのでしょう、ぎこちないながらもわたしたちを礼儀正しく見送ってくれました。
きっと、取り戻してきた正常な状態の鏡はベルナルド家の役に立つはずです。
わたしも、アルヴィ様のお役に立たなくては!
そんなことを考えつつ、ベルナルド家の門を出た時でした。
「一緒に――連れていってくださいませんか」
そう言って、アルヴィ様の前に立った小さな影があります。それは路地でずっと待っていたのかもしれない、と思えるくらい、前兆は何も感じさせませんでした。だから、わたしは思わずびっくりして小さな声を上げます。
小さな影はフードを被っていてその顔は見えませんでしたが、気配でそれが誰なのか気づかされます。
「クリスタル、どうした」
アルヴィ様がその影の前で足をとめます。
「リーアの森に帰られるんですよね? ぜひ、わたしも同行させていただきたいのです」
彼女は軋む腕を上げ、そのままフードをまくり上げて美しい顔を見せました。
「僕は理由を聞いているんだけどね」
「リーアの森には、願いを叶えてくれる魔物がいると聞きます」
クリスタルは透き通った目でアルヴィ様を見上げました。
そして同時に、この場にいる全員に奇妙な緊張感が走ったのも気づいたでしょう。
願いを叶えてくれる魔物。
それは。
「シュタインのことかな?」
アルヴィ様が静かに問いかけます。すると、クリスタルが微かに頷いて見せました。
「確か、そんな名前だったかと思います。わたしはどうしても願いを叶えたいのです」
「……それは師匠に頼むべきだ。大抵の願いなら聞いてくれるだろう?」
「訊きましたが、ご主人様にもできないことがあると言われました」
そのクリスタルの返事に、アルヴィ様が目を細めます。
「君の願いは何だい?」
その問いに、クリスタルは少しだけ怯んだように後ずさりました。ただ、表情は全く変わらないまま。
「リーアの森の魔物は、とても強大な力を持っていると聞きました。だからわたしを……人間にしてくれるかと期待したいのです」
「それは……確かに無謀な願いだね。ほとんどの魔術師ができるとは思えない魔術だし、もちろんあの師匠でも無理だと思う。せいぜい治癒魔術で精一杯だ」
「はい。だから、人間の魔術師ではなく魔物に」
「願いを叶えてもらいたい、と? そこまでして人間になりたいかい?」
アルヴィ様が低く訊きます。すると、クリスタルは微かに頷いて続けました。
「はい。この身体では死ぬことができないのなら、身体を変えればいいのだと思います」
「奇妙な願いだね。君は今のままなら限りなく不死なのに、死ぬために人間になりたいとは」
「奇妙でしょうか」
「ああ。奇妙でもあるし、やらないほうがいい」
「どうしてですか?」
「彼は願いを叶える代わりに、代償を欲するだろう。それは、君にとって一番不幸になる道だ」
「代償ですか」
クリスタルは僅かに目を伏せ、何事か考えこむ様子を見せました。「今より不幸になったとしても、もし人間になれるのならば後悔はしません」
「不幸?」
アルヴィ様が軽く彼女の肩を叩き、笑います。「師匠のそばにいることがそんなに不幸?」
「それは」
クリスタルはさらに声を顰め、小さく言いました。「……何だか、とても苦しくて」
「苦しい?」
「ご主人様と……新しい方を見ているのが、こんなにつらいなんて思ってもみませんでした」
新しい方?
リンジーのこと?
リンジーと……グランヴィール様が一緒にいることが。
苦しいのだ、と。
わたしは思わず、息を呑んで彼女の次の言葉を待ちました。
彼女は少しだけ身体を軋ませ、細い肩を震わせます。それはとても人間的な動きだと思えます。
「ご主人様は……誰にでも優しいですし、それは当然なことですが。でも……遠いのです。わたしにとっては、ご主人様は人間で……わたしはただの人形ですから。偽物だから、わたしはダメなんです。だから、少しでも近くにいきたくて」
混乱したような彼女の声が響くと、アルヴィ様はため息をこぼしました。
「君の願いは解った。でも、ただ一つだけ言っておく。人形である君を人間として造り変える。それはおそらく、シュタインでもできないことだと思う。彼は確かに力のある魔物だけれど、物質を造り変えて命あるものへ変化させることができるほど強くはないだろう」
「……できない?」
「ああ。何故なら、彼は魔物であって神ではない。それができるほど力を持っていたとしたら、シュタインはリーアの森の奥で大人しくはしていないだろうしね」
「でも」
クリスタルが顔を上げて叫びました。「でも、赤い夜がやってきます! あの森に住む全ての魔物が、この世界のあらゆるものを破壊できる力を持ち、死者さえも蘇ると言われている夜です!」
「……何?」
「そうなったら、シュタインという魔物ももっと強大な力を持って、わたしの願いを叶えてくれるのではないですか!?」
「赤い夜?」
アルヴィ様はそこで天を仰ぎました。
わたしもその視線の先を追って空を見上げ、息を呑みました。
いつもより大きく見える月がそこにありました。
だから奇妙なまでに辺りが明るかったのだと気づかされます。
月が大きくて、そして――赤みを帯びていて。
「そう、なのか」
そう囁いたアルヴィ様の声は、酷く遠く聞こえました。




