第110話 一緒に行かせてください
怖い、と思いました。
それは今までにアルヴィ様に感じたことのない感情で、わたしは困惑することしかできません。
アルヴィ様は笑顔で、見た目だけはいつもと変わりありません。
イヴァン様に穏やかに話しかけ、イヴァン様のお母様が眠っている寝室へと向かいます。わたしもその後を追ったのですが、きっと、イヴァン様はアルヴィ様の様子には気づかなかったでしょう。
アルヴィ様が纏う気配が、何だかとても――とても。
ああ、これは殺意だ、と気づきました。
怒りを超えた感情。
何だか……アルヴィ様らしくない?
いいえ。
――君は僕の何を知っている?
アルヴィ様は確かにそうおっしゃいました。
――上辺だけを見ているんじゃないかな?
上辺?
見た目?
今、わたしの目の前にいる方が――アルヴィ様の本当の姿なんだ。
いつも穏やかに笑っているアルヴィ様も、アルヴィ様の一部なのかもしれない。
でも違う。
心の中に、深い――闇のような感情を抱えている姿が本当のアルヴィ様。
「これで大丈夫だ」
アルヴィ様はイヴァン様のお母様――エメリン様の額から手を離すと、そっと微笑んで見せました。
ベッドに眠ったままのエメリン様は、最初はとても生きているとは思えないくらい酷い顔色でした。
土気色を通り越したものがあるとしたら、まさに彼女のことだと思えるくらいに。
恐らく、鏡に生気を奪いつくされたというか――生きている感じが全くそこにはありませんでした。かろうじて彼女の胸は上下していて、それだけが彼女の命が尽きていないことを教えてくれていました。
でも、アルヴィ様が使った魔術の呪文の影響は、急激な変化として現れました。
エメリン様の頬に赤みが差し、大きく胸が上下し始めます。ぱさついていた髪すらも、艶やかさを取り戻しているようです。
そして、唐突に彼女は目を開き、がばりとベッドから起き上がりました。
「ちょっと! わたし、寝てた!?」
と、慌てたようにベッドの脇に立っていたイヴァン様に噛みつくかのような勢いで叫び、その直後には我に返ったかのように息を詰めて辺りを見回します。「……どうしたの、何かあった?」
イヴァン様はエメリン様の手を掴み、ベッドの脇に膝をついて安堵を含む息を吐いていました。その背後には、グレアムが驚いたような表情で立ち尽くしています。
「よかった、目が覚めて」
イヴァン様はどこか泣きそうな表情で小さく囁きます。
その横顔は、酷く幼く見えました。
「……あの、大丈夫ですか?」
そこで、グレアムがエメリン様に向かって恐る恐る言うと、彼女は乱れた髪の毛を乱暴に手で掻き上げ、目を細めました。
「何があったのか覚えてないんだけど。何が大丈夫だっていうの?」
エメリン様はそう言って、アルヴィ様の存在に気づいたようで首を傾げて見せました。「誰、この美形」
「あなた様の命を救ってくれた魔術師様です」
グレアムがそう言いながら、アルヴィ様に視線を投げました。
すると、どこか疲れたような、気だるげな様子のアルヴィ様が薄く微笑んでいるのがわたしの眼にも映ります。
そこで、アルヴィ様が使ったのは生気を分け与える魔術なのだ、とわたしは唐突に気づきました。
だから、アルヴィ様の顔色が少しだけ優れない。
「命を救ってくれた?」
エメリン様は胡散臭そうにアルヴィ様を見つめてから、イヴァン様に視線を戻します。相変わらずその場に膝をついたままの彼。その彼の頭を撫でつつ、エメリン様は苦笑します。
「何だかよく解らないけど、わたしが死ぬわけないでしょう? 健康にだけは自信あるし、勝手に殺さないでくれる?」
「死にそうだったんだよ。こいつのせいで」
イヴァン様がそこで例の鏡を取り出し、毛布の上――エメリン様の膝の上に投げるようにして置くと、彼女の顔色が変わりました。
「ちょっと! 何でこれがここにあるの!? わたし、売っぱらってきた――もとい、処分したはずなのに!」
「困ったものですね」
そう言ったのはアルヴィ様です。
静かで、平坦な声。
それはエメリン様の混乱をとめるだけの力はなかったようでした。彼女はさらに大きな声で続けます。
「そうよ、大体、それがこの屋敷にあるからいけないんでしょ!? 絶対、危険なやつ! そいつさえなければ、これ以上おかしなことは起こらない!」
「落ち着いて。鏡は浄化しましたからもう大丈夫です」
アルヴィ様がそう言った直後、鏡からも静かな声が上がりました。
「ご迷惑をおかけしました」
そこで、明らかにぎょっとしたように、エメリン様の動きが止まります。
眉根をぎゅっと寄せ、胡乱そうに鏡を見下ろし、脅しつけるかのように低く言うのです。
「下手に出てわたしを騙そうっていうの? あなたが何もかもの元凶でしょう? 魔術師なんかいなくても、わたしだって解るわよ。あなたがやったこと! 人間を次々に殺そうと――」
「それは否定できませんが――」
「あああ! そういうこと!? わたしのことも殺そうとしたってこと!? あんたね、一体わたしに何を」
エメリン様が鏡を掴み、ベッドから降りたところでアルヴィ様が額に手を置きながらため息をこぼしました。
「内輪揉めは後にしていただけませんか」
「内輪揉め?」
エメリン様がアルヴィ様を睨みつけてさらに叫びました。「そうよ、これは内輪揉め! 魔術師だか何だか知らないけど、あなたは部外者でしょ? 余計なことを言わないで!」
「ちょっと、母さん」
さすがに慌てたようなイヴァン様の声と、この騒ぎを聞きつけ、お屋敷の使用人たちが集まってくる気配も廊下に――。
「とにかく、申し訳ないが僕は急いでる」
そこでアルヴィ様は笑みを消し、この場の空気を凍らせるくらいの冷ややかさで続けました。「その鏡が引き起こした問題は、僕が責任をもって片づけるつもりだ。ただ、その前にあなたの息子を殺人者にしようとした魔物の存在が気にかかる」
「息子……って」
エメリン様がそこで目を細め、イヴァン様に視線を投げました。「……あなた、何かやったの?」
「……それは」
イヴァン様が目をそらします。
「あなたの息子さんは、僕に助けを求めた」
アルヴィ様が少しだけ声音を和らげました。「魔物が住むというリーアの森にやってきて、僕に仕事の依頼をした。依頼内容は、なくなった鏡を探すこと」
「ちょっと」
「黙って」
アルヴィ様はエメリン様の言葉を遮ります。「リーアの森で、彼は魔物に会ったようだ。そして、どうやら何か言われたようだね」
「……はい」
イヴァン様は視線を床に落としたまま頷いて見せました。「魔物とは思えませんでした。精霊とか、そういうものだとばかり――」
そこで、エメリン様の手の中にあった鏡が輝きを放ちました。
エメリン様は驚いたように息を呑みましたが、その光が小さな像を描き始めたのを見て、表情を引き締めました。
『悪は正さなくてはならない』
そう言ったのは、わたしも見覚えのある魔物――シュタインでした。
鏡が映し出した映像は、どうやら過去の光景のようでした。
エメリン様の手のひらの上に広がる、小さな世界。
暗い森の中に、真っ白な光を放つ人間ではない存在。それは確かに、精霊と呼んでもおかしくないくらい、美しい光を放っていたのです。
彼は穏やかで、美しく、その声はとても魅惑的でした。
困惑するイヴァン様がリーアの森の真ん中で、不安から後ずさっているというのに、シュタインはゆっくりと彼に近づいて囁きます。
『正義とは何か、君は理解しているはずだ。諸悪の根源を絶やすことで、間違いを正せることも理解している』
「あなたは……何者ですか」
イヴァン様は震える声で尋ねます。
すると、シュタインは優しく微笑みました。
『私が何者か、それは重要ではない。ただ、君が抱えている問題を知っているだけだ』
「問題……?」
『君の祖父だ。彼は善良な人間ではない』
「ちょっと……」
そこで、エメリン様の頬から血の気が失せました。「殺人者にしようとしたって言った?」
「母さん」
イヴァン様の顔色も優れなくなっていき。
そして。
「彼は善良な人間を悪の道に引きずり落とすことが趣味のようでね」
アルヴィ様が笑いながらそう言いました。
でもきっと、この場にいる全員が気づいただろうと思います。
アルヴィ様は笑っていらっしゃいますが、それは本当の笑みではないということ。
どこか凄惨な雰囲気を漂わせたアルヴィ様は、続けて言いました。
「それが解っているから、僕は彼を森の奥にいるように言った。人間に関わるなと言った。そして彼も、それを受け入れた」
「それなのに……」
エメリン様は困惑したように首を横に振りました。「何でイヴァンと一緒にいるの?」
「そうだよね」
アルヴィ様は頷きました。「彼は僕の言葉を無視して、僕のテリトリーとも言える場所で、余計なことをしたんだ。そんなあいつをね、僕は許せないわけだよ」
「アルヴィ様」
何だかとても不安になり、わたしはアルヴィ様の名前を呼びました。
でも、彼の視線がこちらに向くことはありませんでした。
「申し訳ないが、先にあいつの問題を片づけてこようと思う。こちらの館の主の件は、後で必ず何とかする。どうせ、あの主は当分は起きてこないだろうし、万が一、目が覚めたとしてももう無害だ」
「え?」
エメリン様が意味が解らないといった様子でアルヴィ様を見つめます。
そこで、アルヴィ様はわたしを見ないままで言葉を続けました。
「ミアはここに残りなさい。僕はすぐに戻ってくるようにするから」
――ダメだ。
何だか直感的にそう思いました。
今のアルヴィ様を一人にするのは危険な気がして仕方なかったのです。
だから、わたしは必死に返しました。
「お願いします。一緒に行かせてください」




