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ご主人様と呼ばせてください!  作者: こま猫


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第109話 あいつは生かしてはおけない

「鏡」

 歩きながら、アルヴィ様が胸元から小さな鏡を取り出して囁きました。「君の力で、過去を見せてもらえるだろうか」

 すると、その小さな鏡は小さく返します。

「お見せしましょう」

 その声はぼんやりとして、空気に溶け込むような響きをしていました。

 浄化された鏡は、清廉な気配と魔力を放っています。乱暴な口調で叫んでいた時とは様子が違いすぎて、全くの別人――いえ、別鏡? としか思えません。

 そして、ゆらりと不思議な陽炎のような光が鏡から放たれます。

 それはとても綺麗な輝き。


「……気づかなかった」

 アルヴィ様は少しだけその鏡に視線を落とした後、悔し気に舌打ちします。それは珍しい感情の流れに思えました。

「どうかなさったんですか?」

 わたしがそう問いかけると、アルヴィ様は一瞬だけ我に返ったように表情を和らげましたが、すぐに緊張したような目つきでわたしを見つめてきます。

「ちょっと急ぐよ」

「え?」

 わたしが眉を顰めた瞬間、アルヴィ様は乱暴にわたしを抱き上げました。

 あああああ、憧れのお姫様抱っこというやつ――と感激する暇もなく、わたしたちの身体の周りには風の精霊と思われる渦が取り巻き、身体が宙に持ち上がったかと思えば周りの光景は一変していました。


 先ほどいた大通りではなく、見覚えのあるお屋敷の中庭。

 一体何が起きているのか、とぽかんとしていると、わたしはその場に下ろされて我に返ります。

 そして、アルヴィ様がそのお屋敷――ベルナルド家の建物へと歩いていく背中を見て、その後を追いました。


 ――厭な予感がする。


 アルヴィ様が先ほどそう言った通り、何となく変な気配がそのお屋敷の中から伝わってきていました。

 しかしそれは本当に微かなもので、よくアルヴィ様は気づかれたなあ、と感心してしまうほどささやかな空気の揺らぎです。


「失敬」

 アルヴィ様はお屋敷の扉を開け、使用人たちがこちらに気づいて近寄ってこようとするのを手で押しとどめ、そのままお屋敷の階段を上がっていこうとします。

 そう、確かに異様な気配は二階から感じられます。

 背中をちりちりと焦がそうとするような、微妙な焦燥感と一緒に芽生えるのは、急がなければ何かよからぬことが起こる、という予感。

 しかし、こちらの様子に驚いたのか、慌てたような使用人たちの声が廊下に響き渡りました。

「お待ちください!」

「お館様はもうお休みですので、どうか」

 そんな声を聞きつけたのか、見覚えのある男性が廊下に姿を見せました。

 グレアムです。

 困惑したように彼はわたしたちを見て、階段を上がろうとしたアルヴィ様の肩に慌てて手をかけました。

「申し訳ありません。お館様にはこちらから声をかけますので、階下でお待ちください」

 そう言ったグレアムを見ようともせず、アルヴィ様は低く囁きます。

「一緒にきてくれないか。命の危険があり、一刻を争う」

「え?」


 誰の命の危険か、とグレアムは問いかけたかったのだろうと思います。

 しかし、それを口にする前に彼はアルヴィ様の先に立つようにして階段を駆けあがっていきました。唐突に、何かを感じたかのような動き。

 わたしもその後を追って二階へと走ると、背後で他の使用人たちも追ってきているのを感じました。


「コーデリア、人払いをしてくれ」

 アルヴィ様の声がそう響くと、コーデリア様の気配が動きます。

 わたしたちと一緒に行動していた彼女は、素早い動きで使用人たちの前に立ち塞がったようでした。

 ようでした、というのはわたしもそれを見ていたわけじゃなかったのです。

 ただ、気配でそう解るだけ。


 アルヴィ様とグレアムの後に続いて、わたしも二階にある部屋に入ります。そして、その光景を目にしました。


 ――どういうこと?

 瞬時に理解することができず、わたしは息を呑みます。


 そこは寝室のようでした。

 お館様と呼ばれる、このお屋敷の主人である老人。彼はその部屋の奥にあるベッドに横たわっていました。

 そして、その傍らにはイヴァン様が立ち尽くしています。

 赤く染まった短剣を右手に持ち、虚ろな輝きを放つ双眸をこちらに向けて、そっと首を傾げて見せます。その動きは、どことなく人形じみて見えました。


 ――血?

 短剣から滴り落ちる赤。

 そして、僅かに香る厭な匂い。


 老人の胸元は赤く染まっていて。じわじわとそれは老人の服を侵食していって。

 その短剣はたった今、引き抜かれたかのように――。


 いいえ。

 そうなのだ。

 イヴァン様が、このお屋敷の主を手にかけたのだ。そうとしか言えない状況が目の前にあったのです。


 そして彼は――嗤いました。


「もう少しだったのに」


 それはイヴァン様の唇から発せられた声であったのに、彼の声ではありませんでした。

 曖昧に響く、人間とは違う声。

 確かにそれはわたしにも聞き覚えのあるもので。


「イヴァン様……、何てことを」

 茫然と呟くグレアムの声は掠れていて、どうしたらいいのか解らないと言いたげでもあり、泣きそうな響きでもありました。


「どういうことだ」

 詰問口調でそう言ったアルヴィ様でしたが、目の前にいたイヴァン様はそこで短剣を手から落とし、その場に膝をついて頼りなく崩れ落ちます。

 彼は床に手をつき、大きく息を吐いてからのろのろと視線をこちらに向けました。


「……祖父のせいで何もかもが」

 そう言った声は紛れもなくイヴァン様のもの。

 そして、さっきまで漂っていた厭な気配は消え失せていることに気づかされるのです。

 もう、いない。

 さっきまで確かにイヴァン様の身体の中にいた、『あれ』はもういない。

「確かに……憎いと思ったのは間違いないけど。祖父さえいなければ、と何度も思ったけど。でも、これは……何ですか」

 彼は怯えたようにアルヴィ様を見つめ、その後で血に濡れた自分の手を見下ろして顔を歪めます。その目に浮かんでいるのは恐怖の色。

「これは……これは」

「イヴァン様」

 グレアムが彼のすぐそばに歩み寄り、震える手で彼の肩に手を置くと、イヴァン様は身体を震わせてその手を振り払いました。

「違う! これは違う! こんなこと、するつもりじゃなかった!」

「解ってる」

 すぐにアルヴィ様が頷いて見せます。

「殺すつもりは……なかった」

 青ざめたイヴァン様の頬。力なく囁く彼。

「ああ。運がいいことに、まだ生きてる」

 アルヴィ様はベッドに近寄り、魔術の呪文の詠唱を始めました。部屋中を縦横無尽に走る呪文の文字列の光。

 そして、その文字列がベッドの上へ収束していくかのように集まり、光が消えます。すると、死んだように見えていた老人の身体が僅かに震えました。

 土気色の唇から吐き出されたのは、赤黒い血と呼吸。苦痛によるものと思われる呻き声。

「生きて……る?」

 イヴァン様が立ち上がろうとしてよろめきます。それをグレアムが補助するように支えると、イヴァン様は重ねて尋ねました。

「生きてますか? 本当に?」

「ああ、間違いなく生きているし、意地でも助けるよ」

 アルヴィ様はどことなく苦し気に頷きました。「あいつの気配を見逃したのは、僕のミスだ」

「あいつ?」

「君に奴の種を植え付けられていたら、いくらなんでも気づくはずだ。そこまで僕は無能ではないと思ってる。だから、今回はカサンドラにした方法じゃないんだ」

「え?」


「シュタイン……?」

 わたしはぼんやりとそう呟いていました。

 さっきの声。

 明らかにイヴァン様の声じゃなくて――。あれは確かに。


「ああ、面倒だ」

 そこでアルヴィ様は深いため息をこぼしました。「とにかく、こいつの命は助ける。君の母親も死なせはしない。また魔力の使い過ぎで眠ることになったとしても、君の一族に関わること全部、僕が上手くまとめてやろう」

「え?」

 アルヴィ様の手の先で、老人の喉から落ち着いた呼吸が繰り返されるようになると、少しだけ辺りに漂う緊迫感が揺らいだような気がしました。

 この館の主人はどうやら、アルヴィ様の魔術で一命を取り留めたのか、少しずつ頬の色も赤みを帯びてきています。でも、眠りから覚める気配はありませんでした。疲れ切ったように深い眠りについているようで。


「君の立場も、君の母上の立場も、何もかも良い方向へ持っていくし、君が憎んでやまないこのクソジジイの頭の中もいじってやろう。大丈夫、クソジジイから好々爺に変化させることだってできる」

「え? え?」

 イヴァン様が困惑したように声を上げ、その隣でグレアムが眉をしかめ、アルヴィ様の肩の上でルークが呆れたように一声鳴きました。

「ご主人、無理すんなし」

「鏡も取り返してきたし、何も問題はない。そうとも、上手くやってみせる」

 と、そこでアルヴィ様は服のポケットに入れておいた小さな鏡をイヴァン様に押し付けます。目を白黒させつつそれを受け取ったイヴァン様は、途方に暮れたように鏡を見下ろしました。


 ――そして。

「ただし、あいつは生かしてはおけない。シュタインは僕が殺す」

 自分に言い聞かせるようにそう言ったアルヴィ様は、少しだけ目を細めて笑いました。

 それは、今までわたしが見たことのない笑みの形でした。

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