第103話 君は違和感を覚えない?
「この部屋の中央辺りで、母は倒れていました」
イヴァン様はわたしたちを書斎に招き入れると、沈痛な面持ちでそう小さく言いました。
書斎はそれほど広いとは言えませんでした。
壁一面の本棚と、窓の近くに大きな机とがっちりとした椅子。不要な装飾などはない、必要なものだけが揃った、居心地の良さそうな落ち着いた雰囲気の部屋です。
大きな窓はそのままバルコニーと続いているようでしたが、今は床へと届きそうなカーテンが引かれていて外の光景は見えませんでした。
「カーテンを開けてもいいかな?」
アルヴィ様は辺りを一瞥した後、窓際へ近づいてイヴァン様へと視線を向けます。
「どうぞ」
イヴァン様は本棚のそばに立ったまま、短く応えます。
「ミアもおいで」
ふと、アルヴィ様がわたしにそう声をかけてきて、少しだけ困惑しつつも嬉しく思いました。アルヴィ様と一緒に行動できるって、本当に素晴らしいことじゃないでしょうか。
――ああ、ちょっとだけ自慢したい。
アルヴィ様にほんのちょっとでも、必要とされていると感じること。
本当に、自慢したい。
でも、その頃にはコーデリア様は目の前の出来事に興味を失ってしまったようで、またわたしの腕に絡みつく腕輪へと姿を変えてしまっていました。
もうちょっと、そばにいてくれてもいいのに、なんて思ったのは内緒です。
カーテンを開けると、巨大な窓が目の前に現れます。そして、中庭が見えるバルコニーの存在。
アルヴィ様はその窓の鍵を開け、バルコニーの方へ進みます。柵に手をかけて中庭を見下ろすと、その肩に乗っているルークも下を覗き込んで小さく言います。
「広い庭だにゃ」
「そうだね」
アルヴィ様もその言葉に頷き、小さく言いました。
「塀は高いけど、侵入できないとは言い難い」
「……泥棒が、ですか」
わたしはアルヴィ様の隣に立って、その視線の先を追いました。
広い中庭、そしてその向こう側にはこのお屋敷の裏門へと続いているだろう細い道が見えました。鬱蒼と茂る植木と、お屋敷を取り囲む塀の存在も。
この書斎は二階にあります。
石造りの壁には、手をかけて登ってくるのにちょうど良さそうな突起も見えました。
「運動神経がいい人なら、登ってこれますよね」
そう言いながら、裏門はどうなのだろうと考えます。表門は鍵がかけられていたのだから、きっと裏門も同じだろうと思います。でも、そこをどうにかして突破できれば、ここまで入り込める。
「逆もまたしかり」
ふと、アルヴィ様が笑いながらそう言って、わたしは思わず彼の横顔を見上げました。
「君の母君について訊いてもいいかな」
アルヴィ様は突然、部屋の中へとそう声をかけました。
イヴァン様はわたしたちから随分と離れた場所に立っていましたから、これまでのわたしたちの会話は聞こえていなかったでしょう。
イヴァン様のすぐそばには、気づかわし気な表情のグレアムも立っていて、こちらの様子を窺っています。
「母の……何をお聞きになりたいのでしょうか」
イヴァン様は強張った表情でそう訊いてきます。
「君の母上が暴漢に襲われたとして、抵抗した様子はあっただろうか」
「……それは解りかねます」
イヴァン様の眉根が寄せられ、苦し気な息も吐かれました。「ただ、この書斎は荒らされた様子はありませんでした。まあ、見ての通り、本がたくさんあるだけで金目の物はありません」
「そう。なくなったものは――鏡だけ、かな」
「おそらくは」
「書斎以外の場所も、荒らされた様子はなかった?」
「……はい」
「書斎の窓以外から、夜盗が侵入できたルートは考えられないかい? ただ偶然、君の母君がここで読書をしようとしていて、病で倒れたという予測はできないだろうか? 鏡の盗難が別の夜に起きた可能性は?」
「鏡は毎日、昼の間は祖父や僕が目の届く場所にあります。別の夜の盗難はないでしょう。それと、一階の戸締りは使用人によってしっかりとされています。交代で屋敷内の夜回りもしていますし、もし一階のどこかから侵入しようとした人間がいれば、見回りの使用人によって気づかれたはずです」
「じゃあ、二階は?」
「……一階よりは警備は手薄です」
「それでも、見回りの使用人の誰かが夜盗の手引きをしたら、この会話は無意味だよね」
「失礼ですが」
そこでイヴァン様の声に刺々しい響きが混じりました。「当家の使用人は全員、信用できると断言できます」
「そう?」
「はい」
力強い声のイヴァン様と、穏やかな表情のアルヴィ様の視線が絡み合うのが解りました。
とても緊張感のある空気。
でも、アルヴィ様はそれを気にした様子など見せません。
「ところで」
そこで急に、アルヴィ様が何か気づいたように話を変えます。「君はどうやら疲れているようだね。帰ってきてから、ゆっくり休んだかい?」
「え?」
虚を突かれたようにイヴァン様が息を呑みました。そして、疲れたような、呆れたような微笑を浮かべて見せます。
「それどころではありませんから。母の容体が気になって、休むどころではありませんし」
「なるほど」
アルヴィ様がバルコニーの柵にもたれかかりながら、そっと首を傾げて見せます。「そういえば、君がリーアの森にやってきたのは、馬に乗って、ということだったよね。それも母君の馬だったとか?」
「ええ、まあ。母の趣味は乗馬で、大切に手入れしている馬がいます」
「健康的な趣味だね」
「それが何か?」
「いや」
アルヴィ様はそこで笑みを消し、少しだけ沈黙して何か考え込んだようでした。そして、イヴァン様にこう続けます。
「ごめん。君はきっと、母君の看病に戻りたいだろうね? 屋敷内のことについて色々話を聞くなら、そこの男性に頼むことにしたいんだけど、いいかな」
「グレアムに、ですか」
少しだけイヴァン様は困ったようにグレアムを見やり、グレアムもまた困惑した表情でイヴァン様を見つめ返しました。
でも、グレアムは静かに頷いて口を開きます。
「私で解ることでしたら、ご説明致します」
イヴァン様が書斎を出ていくのを見守りながら、わたしはこれはイヴァン様をここから追い出す口実だったのだろうかと考えていました。
それはどうやら、わたしの考えすぎではなかったようです。
「ごめんね、ちょっと色々と立ち入ったことを聞きたいものだから」
アルヴィ様が笑顔でグレアムにそう言うと、グレアムも緊張した様子でこちらを見つめてきます。
「立ち入った、とは」
「いや、何となくだけど。彼の母上は乗馬が趣味だといったよね。でも、普通の貴族の娘という立場の人々は、そういった趣味の女性は少ないだろう?」
「そうかも……しれませんね」
グレアムはぎこちなく頷きます。
「何というかね、活発な女性だったのだろうかと思ったんだよ」
「……それは否定できません」
「ああ、やっぱりね」
そこでアルヴィ様は書斎の中に戻り、部屋の中央に立って辺りを見回しました。「何かと僕もね、身分の高い人々と関わることが多くてね。そういった立場の女性は、屋敷の中にこもって遊べる趣味を見つけるのが主だったと思って意外だったんだよ。読書に刺繍、楽器演奏に歌……そんな感じなのが一般的だろう?」
「確かに、世の中の女性はそうなのでしょう」
グレアムは少しだけ表情を和らげて頷きます。「でも、エメリン様は少し……活発すぎるというか」
「問題児?」
「いいえ!」
グレアムが慌てて両手を軽く上げ、悪いイメージを払拭すべく言葉を探しました。「最近の女性なら、珍しいことではないと思います。エメリン様はお屋敷に引きこもるよりも、世の中のことに興味を持つ方でしたし、新しいことは何でも受け入れる方でした。乗馬は健康にいいのだとおっしゃって、中庭を馬の蹄で荒らすのは少々困ったものでしたが、それでも……女性として魅力的な方ですよ」
「うん、僕もそういう女性の方が好きだけどね」
そこで一瞬だけ、アルヴィ様が言葉を区切りました。
そして、無邪気なまでの微笑を浮かべて続けるのです。
「そんな活発な女性が、夜盗に襲われて抵抗もできず、ここに倒れていた。それに君は違和感を覚えない?」
「……どういう意味でしょうか」
グレアムの表情が瞬時にして引き締まり、鋭い視線が返ってきます。「何かお疑いですか?」
「乗馬が趣味の健康的な肉体を持つ女性なら、夜盗に襲われたとしたら多少なりとも反撃するだろうと思ったんだよ。いや、それ以前に――女性だったとしても、あのバルコニーから降りられるんじゃないかと思う」
「それは暗に……」
グレアムの瞳が冷えました。「夜盗の手引きをしたのがエメリン様だとおっしゃっているわけですね」




