第102話 そう呼べと言われた?
「信用できるのか」
その部屋に入って、その老人が最初に口にした言葉はそれでした。
お金持ちといった雰囲気を纏わりつかせた彼の髪の毛は真っ白で、皺だらけの顔からかなりの高齢だと解ります。
彼は長く伸ばした白髪を後ろで一つに束ね、痩せた身体は高価だと一目で解る豪奢な織物の服を身に着けていました。いかにも、『神眼の一族』の長と言って納得できる人だと思います。
ただ、痩せこけた頬と落ち窪んだ目が不健康そうというか、少しだけ病的にすら思えました。
――何だか、ちょっと怖い。
そう思ってしまうような人です。
彼はその部屋の奥にあるベッドの脇に置いた椅子に座り、こちらを見つめて不機嫌そうに眉根を寄せました。
その周りには、側近の人たちが静かに控えていて、不安げにイヴァン様とその老人の表情を交互に窺っています。
何とも重々しい空気でした。
「彼はこの王都で、とても高名な魔術師です」
イヴァン様は静かにそう言葉を返しましたが、そこに含まれた嫌悪にも似た感情は隠しきれていませんでした。それは相手にも伝わっているようで、老人の目に剣呑な光が灯ります。
「とはいえ、その者が依頼を失敗すれば、その者をここに連れてきたお主の責任にもなる。それは理解の上じゃな?」
「もちろんです」
「お主を育ててやった恩を返してもらう。解っておるな?」
「はい。充分、理解しております」
イヴァン様の瞳には、挑むような輝きがありました。
でも、その老人の持つ瞳の強さには敵わない。
「ならばよい。目的を果たし、結果として示してもらおうではないか」
彼はそう言ってから、アルヴィ様の後ろにいたわたしに目をとめ、苦々しく続けました。「あまり信用できるような輩ではなさそうじゃがな」
わたしが今、ルークの肉体に入っている状態だったら、間違いなく威嚇の声を上げていたかもしれません。
「見た目で判断されるのは早計ですね」
ふと、アルヴィ様は穏やかに口を開きました。
その声はとても優しく響き、辺りの空気さえも和らぐような気がします。
「何?」
そこで、老人の冷ややかな目がアルヴィ様に向けられました。
「我々魔術師という生き物は、魔術の腕の良し悪しだけで判断されがちです。しかし、それだけではこの王都でのし上がることは不可能です。僕が名前を売れたのも、色々と切り札を隠し持ってこそ、ですね。神の眼を持つベルナルド家の長であるあなた様でしたら、それを簡単に見抜いてしまわれると思ったのですが、残念です」
「何だと?」
その老人は、思わず椅子から立ち上がろうとしたのかもしれません。しかし、その痩せた足に力が入らかかったのか、椅子の上で震えただけでした。
「あなた様が信用ならないとおっしゃった、その子は結構……危険でしてね」
アルヴィ様は唇だけで笑い、そっとわたしの方へ視線を投げました。「ミア、コーデリアを借りるよ」
――え? コーデリア様が何?
わたしが困惑して首を傾げようとした瞬間に、わたしの腕に巻き付いていたコーデリア様の腕輪が形を変えてその場に現れました。
それも、巨大な蛇の姿で。
瞬時にして、その部屋に悲鳴が上がりました。
ベルナルド家に仕える使用人たちが、恐怖のあまりその場から逃げ出そうとしましたが、運悪くというかなんというか、コーデリア様の体躯が逃げ道を塞いでいます。それに気づいた人々は、さらに恐慌に陥ったようでした。
「と、まあ、彼女はそういう使い魔を操るくらいの魔術師でして」
正に阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられそうなこの部屋に、アルヴィ様だけがのほほんとした様子で立っていて。
「あ、あの、コーデリア様」
わたしはどうしたらいいのか解らず、コーデリア様のひんやりとした鱗を撫でているだけです。
「空気を読むのが遅いぞ、娘」
コーデリア様は巨大な頭をわたしの顔のそばに寄せ、笑うように息を吐き出します。
「空気……」
うー、と唸りつつ彼女の美しい双眸を見つめ返します。
そして、自分の背後でイヴァン様が茫然と呟いているのも聞こえました。
「やっぱり、噂は真実でしたね」
――と。
「まあね」
アルヴィ様も苦笑しつつそれを認めます。「彼女を放っておくと、一つの国くらい亡ぼせるかもしれないからね。手元に置いておくほうが利口だよ」
そんなことを言っていると、コーデリア様の肉体が小さくなり、いつもの女性の肉体へと変わります。そして、わたしのすぐ横に立って微笑んで見せた後、老人に鋭い視線を向けました。
「主を愚弄されるのは苛立つぞ、言葉を慎むがよいわ」
「主だと?」
老人が驚いたようにコーデリア様を見つめ、その後でわたしに視線を投げます。「……その、小娘がか」
「二度は言わぬぞ、人間」
と、コーデリア様の瞳に凶暴な輝きが灯ったことに気づき、わたしが慌てて彼女の腕を掴んで引き寄せます。
「あの、わたしは大丈夫ですから、その!」
「どうやらこの館の主と会話していると、依頼が進まないようだ」
アルヴィ様がそこで、イヴァン様に話しかけます。「では、案内してもらえるかな? 問題の書斎を見てみたいのだけど」
「え、ああ……はい」
我に返ったようにイヴァン様がそこで息を呑み、小さく笑います。
気づけば、辺りの空気も少しだけ落ち着いていました。
怯えたような表情の使用人たちは、できるだけわたしたちから遠いところで遠巻きにしてこちらを見ていましたが、逃げ出す必要はなさそうだと気づいたのかもしれません。
そして、こんな状況でもアルヴィ様に穏やかに会話をしているイヴァン様に、少しだけ複雑そうな目を向けていました。驚きだったのか、それとも感嘆だったのか。でも、悪い空気ではありませんでした。
「君のお祖父様とやらは、僕の好きなタイプの人間ではないね」
イヴァン様に促されるままに、わたしたちは廊下へと出ます。アルヴィ様とわたし、コーデリア様。
そして、前を歩くイヴァン様にアルヴィ様は小さく話しかけています。
「でも、これで心置きなく報酬を吹っ掛けることができそうだ」
「どうぞ、それは大歓迎です」
イヴァン様はこちらを振り向かずに言いましたが、その声には若干の笑い声が混じっていました。「お館様の驚く顔を見たのは久しぶりで、気分がいいです」
「お館様、ね」
アルヴィ様の声に、微妙な響きが現れました。
どうしたのだろう、とわたしがアルヴィ様の顔を見あげていると、その視線に気づいたのでしょう、彼もわたしを見下ろして微笑みます。
「……気にはなっていたんだ」
「何が、でしょうか」
わたしが首を傾げると、アルヴィ様はまた顔を上げてイヴァン様の背中を見つめます。
そしてわたしは、背後の足音の方へと目をやります。そこには、イヴァン様と一緒にこのお屋敷の門の鍵を開けてくれた年配の男性がいます。
「君は、自分の兄のことを義兄と呼んだね」
アルヴィ様がそう言って、イヴァン様が困惑したように足をとめます。
必然的に、この場を歩く全員が廊下で立ち止まることになりました。
「それが、どうかしましたか」
イヴァン様がアルヴィ様に問い返し、アルヴィ様は苦笑しつつ言葉を続けました。
「普通、義兄というのは血のつながらない兄のことではないかな? 君と……お亡くなった兄とやらは、血のつながりはなかった?」
「……半分だけは……つながっています」
「ならば、義兄と呼ぶのは違うんじゃないかな。兄、でいい」
「……いいえ」
そこで、イヴァン様が少しだけ唇を噛み、苦し気に言葉を続けます。「この屋敷では……僕の立場は限りなく低いのですから」
「つまりそれは、君がお祖父様のことをお館様と呼ぶように、そう呼べと言われたから?」
イヴァン様はそのアルヴィ様の質問に言葉が詰まったようで、居心地悪そうな表情で顔をそらしてしまいました。
だから、解ってしまったのです。
そう呼べと、言われたのだ、と。
「失礼ながら」
急に、わたしたちの後についてきた使用人の男性が口を開きました。「イヴァン様はこの屋敷の正当な跡取りでいらっしゃいます。我々使用人も、イヴァン様のことは」
「いいよ、グレアム」
イヴァン様は少しだけ苦し気に息を吐いてから続けました。「お館様の言う通り、僕の母は義兄の母よりも格下の家の出だ。差別されるのは慣れているし、それに……正当な跡取りというのは義兄のことだ。僕はただの代用品にしかなれない」
すると、その男性――グレアムという男性は若干傷ついたように眉根を寄せました。
そうして気を付けて彼を観察してみると、グレアムという彼にはイヴァン様を気遣うような、優し気な雰囲気があるのです。
「他人との付き合いというのは、血のつながりだけじゃない。僕はそう思う」
やがて、アルヴィ様がイヴァン様に優しくそう言いました。「血のつながりに執着しすぎれば、他の大切なものを見失う」
「血のつながりに……?」
イヴァン様はそこで表情を引き締め、少しだけアルヴィ様を睨んで見せました。「むしろ、そんなものはなくていいと思っているのが自分です。そんなつながりを断ち切るためにここにいるんです」
「そうかな」
「そうです」
「それならいいけど」
アルヴィ様がそう言うと、イヴァン様はそれで話は終わりと言いたげに身を翻し、廊下を足早に歩いていきます。
「……君も苦労するね」
複雑そうにその背中を見つめるグレアムに、アルヴィ様が苦笑交じりにそう声をかけると、彼は眉根を寄せたまま頷きました。その肩を叩き、さらにアルヴィ様は続けます。
「これも何かの縁だしね、彼が暴走しないように見張ってみるよ」
「……ありがとうございます」
「ミアも、何か気づいたことがあったら教えて?」
「え、あ、はい」
急に話を振られて、わたしは一瞬だけ反応が遅れました。
アルヴィ様はわたしの肩も軽く叩いた後、イヴァン様を追って歩き始めました。




