第101話 道に迷っただけ
「ベルナルド家までの案内はクリスタルにさせよう」
アルヴィ様が肩の上に乗ったルークを撫でまわしていると、リンジーとの会話が終わったらしいグランヴィール様がこちらに歩み寄ってきました。
それを聞いたクリスタルが、一瞬だけ首を傾げました。
「頼めるかな?」
グランヴィール様が彼女に向かってそう言葉を続けると、クリスタルは礼儀正しく頭を下げて言います。
「かしこまりました」
「案内が終わったら、何か買い物をしておいで。その子に言われて、欲しいものができただろう?」
グランヴィール様はクリスタルの手に小さな布袋を渡しました。どうやら、その中にはお金が入っているようで、クリスタルはそれを少しだけ見つめた後、小さく頷きます。
すると、大きな手が彼女の頭を軽く撫で、クリスタルの気配が和らぎました。
でも。
その直後、グランヴィール様がリンジーに顔を向けて微笑みかけて。
「さて、新しい弟子に部屋を与えよう。おいで」
と声をかけた後、少しだけクリスタルの気配が揺らいだのも解りました。
それは不安に似た感情だと思いました。
「じゃあ、こちらはこちらで動こうか。時間は有限だ」
アルヴィ様がクリスタルの肩を軽く叩き、小さく微笑みます。そして、その穏やかな視線はわたしにも向けられました。
「食器を選ぶ時間がなくなるかもしれないからね」
「いや、あの」
わたしは思わず言いました。「それは別に急がなくても大丈夫ですが」
「クリスタルも早くここに帰ってきたいだろうし」
「ああ……」
わたしはそこで深く頷きました。「解りました。急ぎましょう」
「お気遣いなく」
そこで、クリスタルが平坦な声を上げました。
わたしとアルヴィ様の視線が同時に彼女に向きましたが、クリスタルはただそこに静かに立っているだけです。
「……気にしてるんじゃないのかい?」
アルヴィ様の声は限りなく小さく、我々にだけ聞こえる程度の響きになりました。
「何をですか」
クリスタルの声も、アルヴィ様のそれを真似て潜められました。
「君と師匠の付き合いは長い。十年以上になる。だから、そう簡単に新人の弟子がそれにとって代わることができるとは思えないけれど」
「……それでも、彼女は人間です。わたしは人間ではなく、ただの」
「しかし、君はほとんど人間と変わらないだろう」
「それでも、偽物です」
「偽物?」
「生命体としては」
「そうかな」
「お話はここまでにしましょう。案内しますから、どうぞこちらへ」
クリスタルは静かにアルヴィ様の言葉を遮り、先に立って歩き出しました。
アルヴィ様は少しだけ困ったように天を仰いだ後、そっとわたしに顔を向けました。
「素直じゃないんだよ、彼女は」
「……はい」
――それは何となく解ります。
そして彼女は、とても複雑にできている。
それこそ、人間のように。
わたしたちが外に出ると、クリスタルはこちらを振り返りもせずに大通りへと向かって歩いていきました。彼女は玄関を出る前に、黒いマントを被ってしまいましたので、人形であるどころか性別すら誰にも解らないであろう格好になっています。
その後をついて歩いていきながら、わたしは辺りを見回しました。
さすがに王都の街は、裏通りであろうと人の姿が消えることはありません。
大通りに出てしまえば、あまりにも人の行き来が多く、気を付けていないとクリスタルの背中を見失ってしまいそうになりました。
それでも必死に彼女の後をついていくと、やがて大通りからそれて人気の少ない裏道へと入ることになりました。
「なるほどね」
唐突に、アルヴィ様が苦笑交じりの声を上げました。
その声に気づいたクリスタルが、一瞬だけ視線をこちらに向けましたが、その足がとまることはありませんでした。
「何が『なるほど』なんですか?」
わたしが数歩前を歩くアルヴィ様に声をかけると、肩を竦めつつこちらを振り向いて見せました。
「何も変な気配はないと思ってね」
「変な気配?」
「神眼の一族とやらが住む場所は、何とも平和な雰囲気だと思わないか」
「え?」
そして、クリスタルが足をとめた時、わたしたちの目の前には巨大な鉄の門がありました。武骨なまでにがっちりとした鉄柵。
大きなお屋敷を取り巻く高い塀。
いかにも、いわくつきといった感じの、物々しい雰囲気のお屋敷がそこにはありました。
でも確かに、アルヴィ様のおっしゃる通りなのかもしれません。
リーアの森などは、アルヴィ様のお屋敷のそば以外は奇妙な雰囲気が漂う場所だと思います。魔物がいてもおかしくないと感じるくらい、背中に奇妙な感覚が生まれます。
でもここには、『そういう』気配はありませんでした。
「……鏡、だと言ってましたよね」
わたしはそう口にしてから気づきました。
そうです。
――力を持っているのは、小さな鏡なんです。
イヴァン様がそう言っていたはずです。
「そうだね。特別な力を持つのは鏡」
アルヴィ様は意味深に笑い、わたしを見つめました。「もし、その鏡がこの屋敷にあるのだとしたら?」
「あるのだとしたら……」
わたしは眉を顰めました。
もし、そうなのだとしたら。
「……変な気配がないというのはおかしい、でしょうか」
「そうだね」
アルヴィ様はそこでわたしの肩を叩き、小さく頷いて見せます。「つまり、誰かに盗まれたというのは間違いではないと思う。屋敷の人間が鏡を盗み、屋敷のどこかに隠したというわけではない。少なくとも、この屋敷の中には存在しない。そういうことだ」
「書斎……。書斎の窓の鍵が開いていたということは」
――盗んだ誰かが、そこから逃げた。
そして、この広い庭を通り、高い塀を乗り越えた?
わたしは改めてその塀を見上げました。塀の上には、明らかに泥棒除けと思われる鉄の槍のようなものが無数に取り付けられているというのに。
わたしたちが門の前でそんなことを話していると、僅かに風が揺らいだような気がしました。
わたしが鉄柵の向こう側にあるお屋敷の玄関の方へと視線を投げると、そこには見覚えのある姿がありました。
大きな玄関の扉を開け、姿を見せたのはイヴァン様です。そのお屋敷の使用人と思われる一人の男性もそばにいました。
「お待ちしていました」
イヴァン様は鉄の門まで駆け寄ってくると、こちらに頭を下げてきます。
その後をついてやってきたもう一人の男性――白髪頭の年配の男性は服のポケットから鍵束を取り出すと、門の鍵穴に合う一本を選び出し、ゆっくりと鍵を開けました。
つまり、この門には鍵がかけられているということですよね。
わたしは男性の手を見つめながらそう考え、低く唸りました。
「無事に帰れたようで何よりだよ」
アルヴィ様がイヴァン様にそういうと、一瞬だけ彼の表情が曇ったような気がします。そして、アルヴィ様もそれに気づいて眉を顰めました。
「無事、ではなかった?」
「いいえ」
イヴァン様は強張った表情でぎこちなく首を横に振りました。だから、それが嘘なのだと否応なく気づかされます。
「では何があったんだい?」
アルヴィ様が重ねて訊くと、イヴァン様はあきらめたようにため息をこぼしました。
「……ただ、森で道に迷っただけです」
「ああ、なるほど」
アルヴィ様はそこで苦笑しました。「あの森は色々危険だからね、そのくらいで済んでよかったと言わざるを得ない」
「ええ、そうですね」
イヴァン様は苦々しい表情で頷いた後、わたしたちを門の中へと招き入れました。
「案内をありがとう、クリスタル」
そこでアルヴィ様は門の外で立っている小さな少女へと声をかけました。「用事が終わったら、また少しだけ師匠のところに寄らせてもらうよ」
「かしこまりました」
クリスタルは礼儀正しく頭を下げ、その場で踵を返してしまいます。その素っ気なさ過ぎる様子に、アルヴィ様はまた小さく笑いました。
そして、年配の男性がまた鍵を閉める音を背後に聞きつつ、わたしたちはイヴァン様に促されるままにお屋敷の玄関へと向かいます。
「とにかく、祖父に会っていただけますか。多少……気が立っているので、ご迷惑をおかけするかもしれませんが」
歩きながら、イヴァン様が硬い口調でそう言いました。
「大丈夫だよ」
彼の言葉にアルヴィ様は明るく笑みを返し、その後で小さく続けました。「迷惑をかけられたら、報酬を吹っ掛けるつもりではあるけれども」
――それはアルヴィ様らしいと言えば『らしい』のですが。
わたしは思わず笑いだしそうになるのを我慢して、そして。
少しだけ不安になりました。
――道に迷った?
イヴァン様の言葉。道に迷ったのはリーアの森へくる時だけじゃなくて、ここへ帰る時も?
でも、そんな不安は心の奥に飲み込みつつ、ベルナルド家のお屋敷の中へと足を踏み入れたのです。




