大友義統 勝って終える
◇◇
慶長一八年(一六一三年)夏――
日本から遠く離れたルソンという島で、やせ細った初老の男が目をぎょろっと動かした。
無精ひげを蓄えた顔は頬骨が突き出し、乾いた唇は色が薄い。
あきらかに栄養が足りていないのは、一目見れば誰の目にも明らかだ。
しかし飢餓に苦しむ人が放つ、死相がただよう悲壮感は、彼からは感じられない。
むしろ生きている喜びすら感じるのだから不思議なものである。
彼は大友義統。
かつては豊後国の大大名まで登りつめた彼も、一昨年の戦に敗れたのちに命からがら逃げ伸びた先が、異国の地のルソンだったのである。
そんな彼は一年以上も前から取り組んでいることがあった。
それが今日、この瞬間に終わりを告げようとしていたのだった。
「できた……! はははっ! できたぞぉぉぉ!!」
彼は手にしていた筆をおろすと、今までしたため続けた書を手に取った。
そしてもはや骨と皮だけになった体を飛び跳ねさせて喜んだのである。
するとそこに呂宋助左衛門という商人が、にこやかな表情でやってきた。
「お呼びでしょうか、義統様。おや? そのようにお喜びになられて、いかがしたのです?」
「おお! 助左衛門殿! ちょうど良い時にきた。 いやはや、めでたいことがあってな。つい、喜びを表に出してしまったのだ」
そう言って彼は、自身が書き溜めてきた書を助左衛門の前に差し出した。
それはとても分厚く、両手で持ってもずしりと重い。
助左衛門は大作とも言える書に目を丸くしてたずねた。
「これはいったい何が書かれているのでしょう?」
「大友家が興ってから、わしの代に至るまでのことを書き連ねてみたのだ」
興味を持った助左衛門が、書に目を走らせると、そこには確かに大友家の勃興から衰退にいたるまでが、事細かに記されていたのだった。
「ふむふむ、これは素晴らしい!」
彼が思わず舌を巻くと、義統は満足そうに腕を組みながら頷いていた。
すると、書から目を離した助左衛門は、最も気になることをたずねたのだった。
「義統様は、なぜこのような書をお作りになられたのでしょうか?」
助左衛門の問いかけに、少しだけ考え込んだ義統は、先ほどまでとは打って変わって、真剣な表情で答えた。
「名門を潰してしまう者が取るべき責任だと思ったからだ」
「責任ですか……」
「ああ……細々でもお家が続けば、当主や家族らがお家のことを語り継ぐであろうが、潰れてしまったお家のことは、誰も語り継いでくれぬからな。だからこうして『書』にして、後世に大友家をとどめるようにしたのだ」
「なるほど。そうでしたか」
「名付けて『大友家文書録』としておこうか」
「ふむ、良いお名前ですね」
助左衛門は、素直に「たいした御方だ」と、感心していた。
一時的とは言え、九州で一大勢力を築いた大名であり、しかも代々続く名門家出身なのだ。
戦に敗れ、異国で乞食同然の暮らしをしていれば、どんな者でも卑屈になってしまうのは仕方のないことだと思っていた。
実際に、彼の家臣と名乗った女性が、ここまで彼を連れてきた時には、助左衛門は「危険視」して追い返そうとした。
それは大酒食らいの挙句に自暴自棄となって、地元の民たちといざこざを起こされたら、同じ日本人として、彼も何らかの被害をこうむると考えたからだ。
しかし、義統は彼の予想を『良い意味で』裏切った。
生活は質素で酒も飲まず、言葉も習慣も違う地元民たちと積極的に交流し、決しておごらずによく笑って生活していたのだ。
――全てを失ったら、逆に毎日が楽しくて仕方ない!
いつしかそんな風に話してくれたのが、とても印象的だった。
そんな彼であったが、『お家』のことと真剣に向き合い、自分なりの責任の取り方を考えて実行していたなんて、思いもよらなかった。
助左衛門は、書に向かって一礼すると、丁寧な手つきでそれを義統へ返そうとした。
しかし、義統はそれを拒んだ。
「それをお主に託したい」
「わたしに?」
「いや……正確に言えば、お主のもとで働いている吉岡杏に託してはもらえんか」
「杏殿に……」
吉岡杏こそが、義統をここまで連れてきた張本人だ。
今は義統が不自由なく暮らせるようにと、貿易商を営む助左衛門のもとで奉公して、義統の生活費にあてていた。
義統の妾でないにも関わらず、なぜここまで彼の面倒を見るのかと問えば、
――途中で投げ出すのが性分に合わないだけです!
と、笑顔で返してくるのだ。
しかもそれは彼女だけではない。
義統と共にルソンに渡ってきたのは二十人ほどで、全員が同じように助左衛門の世話になっていた。
彼らもまた怠けず、よく働き、よく笑っていた。
――なんとも不思議な主従だ。
と、助左衛門は毎日不思議に思いながら、彼らと共に働いていたのだった。
さて、義統はなぜ杏に『大友家文書録』を託そうとしているのだろうか。
助左衛門がそれをただす前に、義統はその理由を話し始めた。
「あやつには『帰る場所』があると言っておった。そこで、お主の口から、あやつに暇を出して欲しいのだ」
「わたしの口からでしょうか? なぜ義統様の口から言い渡さないのですか?」
「俺が言っても絶対に聞かぬからだ。それに俺にはもうできぬから……」
「それはどういう意味でしょう?」
義統は、助左衛門の問いには答えずに、風呂敷に包んだ小さな荷物を背負うと、港の方角に向かった。
その様子を見た助左衛門は、義統がどこかへ旅立っていくのを直感した。
「いったいどこへ行かれるのでしょう? まさか、海の向こう側ではございますまいな!?」
すると義統は彼に背を向けたまま、低い声で答えたのだった。
「俺は、夫や子を失い、畑も失った多くの日本人の女たちが、奴隷として売られていく様子を、目の前で見てきた。実際に、俺の家臣が奴隷を売っていたのを見て見ぬふりをしたこともある。だからよ……人生の最後くらい、己の心の中の正義ってやつに従って動いてみたい、そう思ったのよ」
「心の中の正義ですか」
「ああ、まあこれも吉岡杏の受け売りなんだがな。彼女いわく『忠義』というやつらしい」
助左衛門は言葉を失ってしまった。
なぜなら彼も異国相手に商売をする人間だ。
いわゆる『奴隷貿易』について、「知らぬ」と言えば嘘になろう。
この頃は江戸幕府による貿易の締めつけが強化されたために、だいぶ下火にはなってきたが、義統の父宗麟の頃などは、戦が起こるたびに多くの捕虜が奴隷として売られていったのを、よく知っていた。
義統は売られていった日本人たちを取り戻すために異国へ渡るつもりなのだろう。
それは命の危険が伴うし、失敗する可能性の方が成功するよりも遥かに高い。
義統はそれを知っているからこそ、杏や家臣たちに黙って出ていくつもりなのかもしれない。
そこまでして彼はなぜ行動を起こすと決意したのか、何でも合理的に考えるくせが身についている助左衛門には、全く理解できなかった。
すると義統が彼の疑問に答えるように続けた。
「俺はな。人生の大半を『負け』で過ごしてきた。『勝ち』ばっかりだった、父宗麟や、泰巌とは大きな開きがあるのだ。しかしよぉ。よくよく考えてみれば、父も泰巌も、最後の最後は『負け』で、人生を終えたんだよ」
確かにそれは彼の言う通りだった。
彼の父、大友宗麟は、彼の代で九州の覇者と言われるまでに『勝ち』続けてきたものの、最期は島津軍が押し寄せてくる中にあって、『負け』続けたまま無念の死を遂げた。
そして泰巌も最期は『負けて』戦死したのだ。
「だからよ。俺は『勝って』人生を終えたいのだ」
「しかし、義統様が動かれたところで、奴隷を返してもらえるとは思えません。もしそうなれば、結局は『負け』で終わってしまうのではありませんか?」
「ははっ! それは違うぞ、助左衛門殿」
「ふむ……わたしにはまだ分かりません。なぜ結果が悪くても『勝ち』となるのでしょうか?」
「ははっ! そうだな……簡単に言えば、最期に『笑顔』でいられれば『勝ち』ってことだ」
「なるほど。それなら合点がいきます」
しかし、異国相手に奴隷を奪い返す旅は、長くて険しいものとなるのは目に見えている。
それでも彼は『笑顔』でいられるのだろうか……。
助左衛門は口にはできなかったが、半信半疑のままだった。
すると義統は振り返った。
それは眩しいくらいの笑顔であった。
「やりたいことをやっている時が、『笑顔』になれるってもんだ。ただ、それだけなんだよ。では、あとのことは頼んだぞ!」
彼はそう言い残すと、再び助左衛門に背を向けて港の方へ駆けていった。
助左衛門は深々と頭を下げながら、彼を見送った。
――分かりやすいのか、難しいのか、最後までよく分からぬ御方でした。
そう心の中で苦笑いをもらすと、彼に託された分厚い書を、ぎゅっと強く握った。
そしてにこやかな顔のまま、吉岡杏らが働いている方へと足を向けたのだった。
◇◇
これよりわずか一カ月後に、大友義統を乗せた船が海上から姿を消したという報せが助左衛門の耳に届いてきた。
『沈んだのか』それとも『沈められた』のか、それは定かではないが、はっきりしているのは、乗組員は誰一人として生存者がいないという残酷な事実であった。
享年五五。史実よりも二年だけ長生きしたことになる。
結局彼が人生最後の目標とした『日本人奴隷の解放』は残念ながらかなわなかった。
それでも彼は後悔などしていないだろう。
そして、死の間際に、きっと笑顔のまま天を仰いでつぶやいただろう。
――ここで死ぬというのも、俺らしくていいじゃねえか。
と……。そのように助左衛門には思えてならなかった。
そして時を同じくして、一通の書状が届けられた。
それは、義統が残した『大友家文書録』が、正式に江戸城の書庫に納められたということを報せるためのものだった。
彼はあらためてほっと胸をなでおろすと、最後に書状の送り主の名に目を向けた。
「大谷吉治の妻、杏より……ですか」
助左衛門は、胸がほのかに暖かくなるのを感じると、常夏のルソンの青空を見上げて、笑顔を浮かべた。
「さてと、今日も働きましょうか!」
そう呟いた後、力強い足取りで仕事場へと向かっていったのだった――
御一読いただきまして、まことにありがとうございます。
『大友家文書録』は史実でも大友義統が残したものとされております。
また史実における大友家は、断絶の危機を迎えながらも、様々な人々の尽力によって、幕府の旗本として家名を残すことになるのです。
さて、いよいよ次回が最終話。
『明石全登』です。
実はラストシーンは、本編の書き出しから心に決めていたものです。
最後に、2月5日より幕末を舞台にした新作を公開する予定です。
是非、こちらもお楽しみいただければと存じます。
今後もよろしくお願いいたします。