大野治徳 奉公とは②
◇◇
慶長一七年(一六一二年)六月二日――
大野治徳は、豊臣秀頼と千姫らに連れられて京の街までやって来た。
そして賑やかな街の中にあって、凛としたたたずまいのとある寺院に入っていったのである。
そこで待ち受けていたのは、一人の老母だった。
老母といっても血色がよく、にかっと笑うその顔は威勢のよさを表している。
彼女は高台院、太閤秀吉の正室で、今はここでのんびりとした余生を過ごしていた。
彼女は張りのある大きな声で、治徳らを出迎えた。
「ようきたのう! まっさかお主らだけでここまでこれるようになるとは……長生きしとると嬉しいことに出くわすものよのう!」
「おばばさまぁぁ!!」
千姫が高台院の大きなお腹に向かって勢いよく飛びこむと、彼女はしっかりとそれを受け止めた。
そして千姫の頭を優しくなでながら、嬉しそうに話しかけたのだった。
「お千や! ようきた! 秀頼殿とは仲良くやっとるか?」
「はいっ! おばばさま! 秀頼さまは千にいつも優しくしてくれます!」
「そうか、そうか! しっかし気を抜いたらいかんよ。秀頼殿は太閤の血をひいとるからのう。その血が騒げば、おなご遊びがひどくてかなわんから」
「ちょっと! な、なにをおっしゃいますか! 高台院様!」
顔を真っ赤にしてむくれている秀頼に対して、大きな声で笑う高台院。
しかし彼女は、一人浮かぬ顔をしている治徳を見つけて話しかけた。
「なにをあんたは若いのに年寄りみたいな顔しとる?」
彼女のちくりととげを刺すような言葉に、ドキリと胸を高鳴らせた治徳であったが、
「べ、別に……なんでもございません」
と、顔をそむけてばつが悪そうに答えた。
高台院はそんな彼の様子を見て、目を細めたものの、それ以上の言及はせずに、全員に向かって声をかけた。
「今日は中でお菓子とお茶を用意してあるからのう! たんまりお食べ!」
「わあぁぁい! おばばさまぁ! 大好きじゃ!」
高台院の言葉に、喜びを爆発させた千姫は、旅の疲れも感じさせずに、奥にある高台院の屋敷の方へと駆け出す。
すると重成、氏久そしてレジーナの三人も同時に駆け出した。
いつもの治徳なら我先にと先頭を行くところだが、彼の反応は鈍い。
秀頼は高台院と顔を合わせると、
「いくぞ! 治徳!」
と、彼の手を強引につかんで、前を行く四人を追いかけはじめたのだった。
◇◇
「おいひい! おいひいです! おばばさまぁ!」
頬いっぱいにお菓子をほおばりながら、とろけるような笑顔を見せている千姫。
そんな彼女に対して、高台院は笑みを浮かべながらたしなめた。
「これこれ、口の中に食べ物をいれたままお話ししてはなりませんぞ」
「ふわぁい!」
千姫だけでなく、みな笑顔で菓子を口に運んでいる。
しかし治徳だけは一口も手をつけずに、ただお茶をすすっているだけであった。
――はぁ……なんで俺はこんなところに連れてこられたのだろう……。
そんな疑問が彼の脳裏を埋め尽くしており、とても菓子を堪能しようなどという気にはなれなかったからだ。
そしてしばらく経った後、みなでお茶を飲みながらまどろんでいる中、秀頼がすくっと立ち上がった。
「かわやへ行ってくる。治徳、ついてまいれ!」
「はい? なんで俺が……?」
「いいから! これは命令だぞ!」
秀頼からそう言われてしまったら、彼もついていかざるを得ない。
渋々立ち上がった彼は、大股で先を行く秀頼の背中を、とぼとぼとついていったのだった。
……が、どうも様子がおかしい。
かわやは中庭のすぐ先にあるはずなのだが、秀頼は庭には出ようとはせずに、屋敷の廊下をずんずんと進んでいく。
「秀頼様!? いったいどこへ向かっているのか?」
「お主の体の中の『毒』を出す『かわや』に決まっておろう!」
「はぁ!? いったいなんのこと……」
そう彼が言いかけた時だった。
目に飛び込んできたものに、彼はぴたりと足を止めたのだった。
それは……。
彼の父、大野治長の姿だった――
「ち、父上……くっ! いくら秀頼様でも『騙し打ち』はきたねえぞ!」
顔を真っ赤にして、来た道を戻ろうとする治徳。
しかし秀頼は彼の右腕をがっちりと掴んで離さなかった。
「逃げるでない! 治徳!」
「逃げる!? 俺が何から『逃げて』いるというのだよ!」
治徳がそういきり立つと、秀頼は彼の腕を離して、彼の真正面に立った。
そして強い眼光で治徳を見つめる。
治徳もまた秀頼に対して、食ってかからんばかりに睨みつけた。
しばらくしずかな睨みあいが続くと、秀頼の方から口を開いた。
「お主は怖いのであろう」
「はぁぁ!? なんで俺が怖がらねばならんのだ!?」
「なぜか……そんなの決まっておる! 『奉公できないのではないか』と思いこんでいるからだろうが!」
秀頼が迷いもせずに核心をつく言葉を発したため、治徳はわずかにたじろいだ。
すると秀頼はその隙をついてたたみかけた。
「左手一本が動かぬ程度で『奉公』を怖がるとは、それでも貴様は武士か! 誇り高き大野家の嫡男と胸を張れるか、この大馬鹿者め!!」
秀頼の言葉に圧倒される治徳は言葉を失ってしまった。
今まで徳川家康や秀忠といった稀代の英傑たちに食らいつくようにして修羅場を渡り歩いてきた秀頼と、武芸の稽古だけに時間を注いできた治徳とでは、もはや雲泥の差とも言えるほどの格の違いができていたのであった。
そして秀頼は、側にいる治長に対して、「襖を開けよ!」と短く命じた。
――スパンッ!
乾いた音と共に勢いよく開けられた襖の先で、治徳を待っていたのは……。
多くの人々が『笑顔』で働いている光景だった――
しかしよくよく見れば、みな片手を失ったり、足が不自由であったり、中には目が見えぬ者もいるようだ。
だが人々はみな『笑顔』のまま、互いの手となり足となり目となって、様々な内職に取り組んでいた。
――ややっ! あそこにおられるのは秀頼様じゃ!
――おおっ! 秀頼様がこられた!!
――それに治長様もおられるぞ!
――治長様じゃぁ!
みなが一斉に姿勢をただすと、秀頼が笑顔になって声をあげた。
「みなのもの! 実に御苦労! 今日はおばば様より菓子が振舞われるからのう! 楽しみにまっておれ!」
――ワアァァァッ!
と、一斉に湧きあがる一同。
そんな彼らに対して、治長が口を開いた。
「では各々、引き続きぬかりなく仕事に精を出すのだぞ!」
――はいっ! 治長様!!
そう威勢のよい返事をすると、再び仕事に取り組みだす。
みな自分ができる作業に精を出し、『奉公』できる喜びを顔いっぱいに出している。
治徳は彼らの様子を見て、ますます困惑してしまった。
そんな彼に対して、秀頼が穏やかな口調で声をかけた。
「彼らはみな、戦場で傷ついたり、不慮の事故で何らかの不自由をこうむってしまった者たちじゃ。彼らのことをここにいる治長が、ひとりひとりあらためて、彼らができる『奉公』をあてがっているのだ」
秀頼の言葉に治徳が治長の方に顔を向けた。
すると治長が口を開いた。
「みな最初は自らの身に降りかかった不幸を嘆き、哀しみ、そして見えぬ将来に不安を覚えていた者たちばかりだ。お主のように理不尽な運命に憤りを隠せぬ者も少なくはない」
いつにない重い口調の父の姿に、治徳は目を大きく見開いた。
それは『父』ではなく『豊臣家重臣』として彼と面向かっている大野治長という男に気圧されてしまったからに他ならない。
治長はゆっくりと、まるで親鳥がひな鳥に食べ物を噛んでからふくませるように聞かせた。
「そのような者たちにも等しく『奉公』と『生きる』喜びを与えるのが父の役割である。今まで槍働きしか頭になかったお前には理解できぬかもしれぬが、これもまた豊臣家を守るために必要なこと。なぜならここにおられる秀頼様の『夢』は、全ての人々を笑顔にすることなのだからな」
治徳は、今までの彼の人生で得た『価値観』を粉々に破壊されるような、かつてない衝撃を覚えていた。
彼は、『武士たる者は槍と刀で当主を御守りするのが務めである』とばかり考えていたからだ。
しかし秀頼も、そして父も彼とは全く異なる『価値観』を持っていた。
――槍を持てねば、残った手で筆を持て! 書を持て! 槍以外でも奉公の道は山ほどあるのだ! それを忘れてはならん!
という父の言葉が今さらになって彼の壊れた心に沁み渡っていった。
そしてなおも戸惑う彼に、父は救いの手を差し伸べるような優しい言葉をかけたのだった。
「いいか、治徳。『奉公』とは笑顔でせねば『心』がはいらん。『心』がはいってなければ、それは『穴』となる。『穴』はいつしか綻びを生み、綻びはいつか崩壊を招く。父の役目は『穴』を作らぬようにみなを笑顔で『奉公』させること。ついては、お前が笑顔で『奉公』できる道を、この父に探らせてはくれまいか。秀頼様も、そして城内の者たちもみな、お前の笑顔が見たいのだ」
治長の言葉は、生きる道しるべを見失って、真っ暗闇の中にあった彼の心を照らす光となった。
自然と彼の瞳からは涙がこぼれ落ちてくる。
それでも彼は嗚咽だけは漏らさなかった。
たったそれだけが、彼に残された最後の意地だったのかもしれない。
そして彼はその場でひざまずくと、床に額をこすりつけるようにしながら、父に対して深々と頭を下げたのだった。
「どうか……どうか、よろしくお願いいたします……俺にも『奉公』の道を御示しくだされ」
彼の様子を見て、ちらりと顔を合わせた秀頼と治長。
小さく頷き合うと、秀頼が透き通った声で告げたのだった。
「大野治徳! お主を大野修理治長の補佐役に任じる! 以上!」
秀頼の言葉に急いで顔を上げる治徳。
目を丸くした彼は、ニコリと笑いかける秀頼の視線の動きに合わせるようにして、父の方へと視線を向けた。
治長もまた優しい笑顔となると、治徳に穏やかな口調で言った。
「俺は少々厳しいぞ。治徳、覚悟しておけ」
その言葉が彼の耳に届いた瞬間……。
――ウワアアアアアアアアア!!
と、治徳はまるで赤子のように大声で泣き始めた。
涙、鼻水、よだれ、声。それら全てが彼の顔から出ていくと、みるみるうちに彼の中に巣食っていた『毒』は抜けていった。
――ありがとうございます! 父上!
恥ずかしくて言葉に出せない想いを、ありったけの泣き声にこめると、治長は何度もうなずいて、彼の背中をそっとなで続けた。
いつの間にか、幼馴染の面々や高台院も彼の側に集まってきている。
いつも彼なら「武士の涙は他人に見せるものじゃねえ」と強がっていたところであろうが、人目もはばからずに彼は号泣し続けた。
「おやまあ、でっかい赤ん坊だなぁ」
と、高台院が笑顔を見せると、ひょいっと前に出てきた千姫が華の刺繍があしらわれた小さな布地を彼の目の前に差し出した。
「これ! 使って!」
それを震えた手で受け取ると、
――チィィィィィン!!
と、大きな音を立てて鼻をかんだ治徳。
それを見て千姫がぷくりと頬を膨らませた。
「もうっ! 治徳! お行儀が悪い! 千のお気に入りの布地がだいなしではありませんか!」
すると彼女の様子を見た重成が、腹を抱えて笑い始めた。
「あはははっ! 治徳に『お行儀』を求めてはなりませんぞ! むしろ『行儀が悪いのが武士』とかぬかしている男ですから!」
「ううっ……えぐっ……おいっ……! いつ俺がそんなことを言ったよ!」
「いつも言ってた」
「待て待て! 氏久まで! 父上と秀頼様の前で恥をかかせるな!」
「あははっ! だったら普段から恥じぬ行動を心掛ければよいではないか!」
「おいっ! てめえぇぇぇ!! 人が大人しくしてりゃあ、調子に乗りやがってぇぇ!!」
「治徳も重成もやめよ! なんでお主らはいつも喧嘩ばかりなのだ?」
「……秀頼様のおっしゃる通り。さすが、秀頼様」
「ちょっと、レジーナ! 近い、近い!」
「秀頼さまぁぁぁ!! また鼻の下を伸ばしてぇぇぇ!!」
「待て待て待て! なんでお約束の展開になるんだよぉぉ!」
一目散にその場から逃げ出す秀頼を先頭に、全員が風のようにその場から走り去っていく。
残された高台院と治長は、彼らの元気な様子を目を細めて見つめていた。
そして彼らの背中が小さくなったところで高台院が、治長に話しかけた。
「治長。忘れちゃならんぞ。笑顔からしか笑顔は生まれんことを」
「はい。こたびは、息子のことで多大なる尽力をたまわり、まことにありがとうございました」
「はははっ! 堅い男よのう! お主は若い頃の佐吉によう似とる。佐吉もよう『道』を間違えておったわ」
「石田様と比べていただくなんて、もったいなきことです」
「はははっ! なにはともあれ、礼を言う相手が違うであろう」
「はい!」
思いの外明るい治長の返事に、高台院は笑顔になった。
そして念を押すように言ったのだった。
「礼を言うべき相手は、秀頼公。そして、自分の殻を自分で破った、お主の息子じゃ。感謝せないかんよ。あの子たちは、豊臣の未来を担うのだから」
木陰の覆い屋敷の奥にあって、ちらちらと木漏れ日が地面を照らしている。
「まあ! 今年は暑い夏になりそうだのう!」
という高台院の声は、治長が今まで聞いた中で最も弾んだものだった――
『太閤を継ぐ者 大坂の陣後、それぞれのストーリー』
大野治徳 奉公
完
御一読いただきまして、まことにありがとうございました。
次回は『真田昌幸』になります。
どうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。
書籍版の方も何卒よろしくお願いいたします。