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Access-22  作者: 橘 実里
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第二章 ボクと名前も知らない人たち

 筆が色水をかき混ぜる音だけが響きました。その音は会話に繋がらないと判断したアオイ様は部屋を出ていきましたが、振り向いてみるとソーサーやティースプーンも含めて持ち帰ってしまったようで、サイドテーブルの上にはティーカップが直に置かれているのを見て慌てて謝罪しましたが、男性はこうした扱いに慣れているのか呼び戻させてくれませんでした。

 時々ですが、アオイ様は仕事以外の細かいところで間違える事があります。あろうことかアキラ様の名前を間違えたり、天気予報も確認せずに出かけてずぶ濡れで帰ってきたり、ボクとは違う人間らしさを感じてしまい、多少は羨ましいのですが……。

 結局、水彩画が完成するのが近くなってからアキラ様を呼ぶのと一緒にアオイ様に新しくお茶を持ってきて貰いました。筆をバケツに置き、隣で見守っていたアキラ様はボクの頭を撫でると、改めて絵に顔を近付けて細かく見ているようです。

「出来たのか!」

「ボクなりに正解だと思う絵を描きました」

「どうだ、うちのユリカは!」

 逆側にいた男性に話しかけると「とても勉強になったよ。これ以上に感動した事はない」と、納得してくれました。

「だああっはっは!! お前もユリカの凄さがわかる程度には賢いか!!」

「いや、ユリカさんには敵わないね。画材道具は全部あげるから、また何か描く事があれば教えてくれると嬉しいな」

「アオイ! この絵は将来いくらになるか分からんから真空でもいい! 厳重に保管して飾っておけ!」

「あらまあ」

 同じように笑顔でもアキラ様のものは屈託がなく特別に輝いて見えます。感情を一つ見てもこれだけ種類があるならば、単にアキラ様の真似するだけではなく、いずれはボクならではの感情や表情を見つけなければいけないのかもしれません。

 男性は鞄からワニススプレーを取り出し、仕上げの行程を教えてくれました。やり方は調べれば分かるので大丈夫です。アオイ様が額縁を用意しましたが、まだスプレーをかけていないので額縁に入れる段階ではありません。ボクを相手にわざと間違えたりする必要はないですけど…。

 男性に聞くと完成までは見届けないらしく、道具を洗面台で洗い、帰宅する準備を始めました。水の勢いで絵の具が周囲へ散るので、一回だけでも絵を描くと広い範囲を掃除する必要があり、手間が多いので、再び絵を描く日が来るとしたら色々な事が落ち着いたら、という事になるでしょうか。

 玄関の先、正門の前まで男性を送ると男性は身体の向きを変えてこちらに握手を求めました。今までの柔らかな雰囲気とは違い、アキラ様にも似た男らしさを感じてしまいます。

「貴重な時間をありがとう。また会える日を楽しみにしているよ」

 握られた手は優しく、それでいて筆を握る時に近い確かな力があり、笑顔の下でどのような事を考えているのか分かる気がします。どうしてこうも豊かな表情を持っているのでしょうか。

「ボクでよければ、今度はもっと芸術について勉強してから臨みたいと思います」

「うん、それじゃあ次は彫刻か3Dにしてみようかな。立体表現ならまた違うはずなんだよ」

 彫刻は制作や掃除にどれくらいの時間が掛かるのでしょうか。単純に立体を望むのなら3Dプリンターで現像すれば一回で掃除も準備も楽に済むのですが……。

 隣で一緒に送り届けてくれているアキラ様はボクの頭を優しく撫でる、というよりは掴むと、出会った時の男性と近い柔らかな笑顔を浮かべています。これは初めての事なので驚きました。

「再び会った日にはユリカがお前に絵を教える立場になっているかもしれんがな!」

 アキラ様の冗談にも男性は快く笑ってくれました。手を振って別れる男性に対し頭を下げると、今度は最初にアキラ様の家へ来た時と違い、よそ見をせずに真っ直ぐ帰っていきました。

 一つ心残りがあるとしたら。男性からは最後まで名前を教えて貰えなかった事でしょうか。人間と同じように扱って貰えるのであれば教えられて当然のように接してもらえるべきであると思うですが、そのような日をとても遠く感じてしまいます。

 家の中へ戻ると、絵は乾燥していたので次にワニススプレーを振りかけなければいけないのですが、そうすると一日は触れられないため、画像としてその絵を取り込んでパソコンで鑑賞しました。モニターを前にして穏やかな表情を浮かべるアキラ様を見ると、芸術に触れた人間というのは皆このような顔になり、日常では見られない素敵な存在になってしまうのでしょう。

 どうにかして柔らかな表情を真似ますが、この絵を描いたボクがするのは不自然でしょうか。違和感を解消したいですが、アキラ様は絵を見てばかりなので聞いてしまうのも不自然でした。

「何度見ても興味深い絵だ」

「アキラ様への想いを込めて描きました」

「うむ、そのあたりの話は後日きちんと聞くからな。もう少しだけ掛かりそうなのだ」

 当然ながらアキラ様は天才ですから単に絵を描かせたわけでは終わらないらしいのですが、そういった話も全て事前に知らせず決めてしまうので、やはり人間と同じに扱ってくれているのではないみたいです。人見知りといった純粋な本能で距離を置いている可能性もありますが。

「ボクの絵は役に立ちますか?」

「直接は関係ないとは思うが、出来るだけ話し内容は多い方といい。今話してしまうと結果が変わる可能性もあるから言わん」

「アキラ様は天才なのでボクには待つしか出来ませんが、手伝えるのであれば言って下さい」

 そう言うと柔らかだった表情が次第に普段の素敵で皺になりそうな笑みを浮かべ、再びボクの頭を掴んでくれました。こっちのほうが見慣れているのでアキラ様らしくていいですけどね。

「今日もまだあるからな。今朝も言ったようにユリカにはこれから料理を作ってもらう予定だ。人が好む色、味、形のバランスを考えた創作料理を作れ」

「上手く作れなくても大丈夫でしょうか」

「もちろん気にしなくていい。アオイでもある程度は出来るからこれくらい出来そうだがな」

 アキラ様はモニターの画面に触れると画像を探し出し、茶色の香ばしそうな食べ物の画像が映し出されました。単色ですが乾燥しているようで、仕事中でも食べられるおやつに見えます。

「このオートミールのような物がアオイの作った料理だ。時間制限も与えず栄養バランスと味だけを考えさせたら一週間かけてこれを作った。さすがにそこまでは待てないから夜七時までの五時間以内に作れ。食材に関する知識ならいいが、料理について事前に調べるのは禁止だ」

「予算はいくらほどでしょうか」

「三万やる。料理だけじゃなく自分の使いたいように使っていいぞ。三万くらいなら減っていても気がつかないからな」

 口座を確認すると出費は多いのですが、副業での収入が安定しているので困らなそうです。同世代における平均の収入などは職に就けていない人がまず多いので当てにならないですが、それと比較すると三万円は大層な額です。

 アキラ様はその他にもカナデ様が作った料理など四枚や、同時期にスーパーコンピューターが編み出した高機能宇宙食なども教えてくれました。聞けば3Dプリンターでピザを作るのも、そうするのが宇宙食として流行ったからで、それを家庭用に改良されたのが普段アキラ様が食べているピザのようです。

 恐らくこれは料理を作る事によってネロイドがどれだけ人間社会に適応できるようになったのかを測る意味が強くあるでしょう。食は人間に限らず生き物にとって重要な要素ですから、真剣に考えているとは思いますが、組み合わせ方がいくつもあるので、栄養と味を考えるだけならばそれほど難しくはないはずです。

 問題は、人間が好みそうな色彩を考えるという点で、色彩を良く見せるためには形も整える必要がありそうですから、先程の自由に描いた絵よりも難しそうでした。大量に作ったとしてもアキラ様なら全て食べてくれそうですからそれは気にしていないのですが……。

 空っぽの冷蔵庫が空っぽである事を確認して、調理器具は新品のまま一度も使われていないのでそれを活用することに決めて、料理そのものはどうすればいいのか決めかねていますが、ボクはアキラ様のために作られた感情のあるネロイドですからアキラ様の事だけ考えればいいと思うようにしました。難しい事はより優秀なスーパーコンピューターに任せればいいのです。

 服もまた普段のアキラ様が選んでくれた衣装に着替え、傘の必要なさそうな空を確認すると、初めてネロイドとして起動した四月五日にも訪れたあの量販店へ向かいました。時間は十分にありますから急ぐ必要もなく、周囲を悠々と見渡しながら歩きます。

 地図を調べて以前にアキラ様が使った道よりも近い経路を選ぶと、その道は古く、砂っぽいコンクリートが敷き詰められていました。まるで数十年もの間、誰も手を付けていないような頼りなさがありました。すれ違う人はみな老人ばかりで、この町だけが時代から取り残されたとばかりに古い家が並んでいます。

 どう見ても空き家なのに取り壊されていないのを見ると、アキラ様がこの道を選ばなかったのは単純に嫌いだからなのでしょうか。他人の仕事を消す事にやりがいを感じているアキラ様ですから、もしかすると荒れ地を見たほうが楽しいからという理由があるかもしれませんが……。

 そのまましばらく歩いていると福祉事務所の前を通りました。さすがにそこばかりは綺麗な石畳が敷かれていて、周囲とは違う輝きがあり、掃除専用の旧型ネロイドが動いていました。

 ボクが気になってしまったのはその向かいにある中華そば屋、そしてさらに隣の店との隙間、梯子が立てかけてあれば、その下には業務用の大型ゴミ箱も置かれている生活空間と言えない狭い場所に、アキラ様と同じほどの年齢と見える男性が座り込んでいます。髪質は悪く、目はうつろですが顔立ちは整っているようで、まるでそういった演技をしているように見えますが、上着のボタンはほつれ、靴も穴が開いているので、彼にお金がないのは確かだと分かりました。

 立ち止まって遠くから見ていると、まばたきをほとんどしていません。このままにすれば、いずれ目が蒸発してしまうのではないか心配してしまうほどです。

 ボクと彼には接点がありませんし、苦しんでいても助けられるほどの甲斐性はありません。素性も確かではないですから、もしかするとここで話しかけない方が人間らしいと言えるかもしれませんが、話しかけてしまうのもまた人間らしいと思うようにしました。

 ボクが近寄ってみると、彼は顔をこちらに向けました。何かを待っているからそうしているはずで、遠くからでは寿命が尽きるのを待っているかのような悲惨さがあったのに、近くから見れば誰が来てもそうする予定だったのか、こちらを見るなり、目以外が笑いはじめました。

「あの、大丈夫ですか?」

「お前ロボットか」

 ロボットという言葉は人間とネロイドを差別する言葉であり、使って欲しくはないのですが、相手が笑っていたのでこちらも笑顔で返しました。それにしてもネロイドを前にしてロボットなんて言葉、今でも若い人が使うのに驚きましたが。

「そうですね、ロボットです」

「お前らの事は好きだぜぇ、なんも怒らないからなぁ」

 彼はこの短時間で乾いた目をさらに赤く濁らせました。紫外線によって炎症を起こしているのと、ボクと話して血流の巡りが良くなったのでしょう。

 よく分からない理由で好きと言われてしまい、なんと答えればいいか言葉を探していると、そんなことはどうでもいいのか、彼はまた虚空を眺めながら、ゆっくりと話し始めました。

「ここにいると、福祉の事務員に捕まって、仕事と住所が貰えんだ」

「完全な路上生活者ではないのですね」

「お前、俺なんかよりぜんぜん日本語上手いなあ」

 どうにも会話が成り立っているようにも思えませんが、これは彼なりの個性だと考えて話を合わせるようにしました。恐らくボクをロボットだと思っているから適当に会話をすればいいとでも思われているのかもしれません。

「あなたは日本語が母国語ではないんですか?」

「今年で三〇になるんだけどな、幼稚園ぐらいの頃に英会話教室に行かされて、おかげで変な障害だかで日本語が上手くないんだよ。だから仕方なく英会話教室の先生なんてやってたんだけどさ、東京オリンピックの後から翻訳技術が凄くなったせいで、今やどこの国に行っても外国語喋る必要ないからなぁ」

 呂律が回っているとは言えませんし、声もしゃがれている上に小さくて、聞き取れているか自信もなく、家にいるトイプードルよりも分かりあうのが難しい方です。一応は日本語ですが。

「二〇〇〇年以降の生まれで英語を勉強していた俺みたいな奴は本当にバカだったと思うよ。おかげさまで無職だけど、まさかこんなにも早く日本が変わるとは思ってなかったからな」

 彼は笑ったままこちらへ視線を移すと瞳が絶えず左右に揺れていて、この笑顔は真似したいと思いませんでした。仮病を使う機会があれば真似してみるのも面白いかもしれませんけれど……。

「いや、今まで人の代わりになる物が無かったってだけで、世界はすごい早さで変わっていたっけな。それに気がつかなかっただけか。当たりだろ」

 彼の言う通り世の中は今も成長し続けていていますが、勘違いをしているようです。例えばかつて多くの馬車が自動車に取って代わったのは確かですが、馬に社会的な立場が無くなっただけで、動物としては今もなお広く愛されていますし、長期的に見れば重労働に耐える必要がなくなったというだけで、馬にとっても人間にとってもより良い社会となっているはずです。

「ネロイドは人間の代わりではなく、共存するためにあります」

 そうは言うけどな、と彼は前置きをしました。内容が正確に伝わっているといいのですが。

「別にこうなったのは俺だけじゃないんだぜ。知り合いなんてほとんど離婚してる。共働きしてた奴も、大人しく専業で家事してた奴も離婚だ。共働きは互いに家で過ごす時間なくてすれ違い、そんな親を見た子供がぐれて養育権を押し付け合いながら離婚。専業してた奴は機械に任せっきりでする事なくて、ニート扱いされたら逆上して離婚。あと一〇年もしたら子育ても機械に任せて結婚する意味なんてなくなるんじゃねえか。そしたら生きてる意味わかんねぇな」

「ボク達の存在が人間の居場所を奪っていると言いたいのでしょうか」

「奪ってるけどよ、居場所がなくなったらロボットが俺みたいな奴らの世話してくれんだろ? 一度諦めて慣れちまえばこれ以上幸せなことはねえよ」

 話題の定まらない不思議な方ですが、そうなってしまう事も含め、責任は全て人間ではなく、ロボット側にあると考えているようです。文明に依存するとこうなってしまうのでしょうか。

「お話中申し訳ございません。意識はしっかりしているみたいですし、時間の都合がありますのでボクはこれで失礼させていただきます」

 天才であるアキラ様と違って、これが一般市民の考え方ならば、とても参考になりそうです。話せば話すほど疑問が膨れ上がりそうでしばらく話していたいのですが、そんな事ばかりしていたら怒られてしまいそうですし、失礼のないよう別れを告げたつもりですが、とたんに彼は無表情になり、しっかりと定まった瞳でこちらを見ました。

「何しに行くんだよ」

 今度は先程よりはっきりと聞こえる口調で、ストレスが混じっているように聞こえますが、その方が人間としては正常でしょう。互いに笑顔で話し合っていたわけですし、嫌われたわけでもなさそうですから、いずれボクの好奇心を満たしてくれればと思い、距離を置きました。

「あなたの居場所をお返しします」

 彼はまた目以外が心地よさそうに笑っていました。ゴミ置き場に座り込む姿も人間に適した姿なのかもしれません。

 歩きながらまた、彼の事を考え続けました。ボクは人間に近い感情を持っていると言われて今までアキラ様の手伝いをしていましたが、彼のように理不尽で、自分勝手で、本能で自分を弁護した事はなく、ああいった我が儘もいずれ真似すればアキラ様に褒めて貰えるのでしょう。

 量販店に近づくほど幅広い年齢層の女性が買い物に来ている姿が見えました。とはいえ老女は買い物袋を持つのでさえ苦労している人が多く、資産に余裕のある方は配送で頼むため店に来ることもないようで、似たような理由でネロイドを持つ家庭が店まで買いにくる事もなく、多くの女

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