第二章 ボクとお絵かき
この家はアキラ様に相応しい立派な家と言えますが、中には家具すらも置いていない質素な部屋というのもありました。どのような用途でその部屋を使うのか今まで分かりませんでしたが、どうやらこうした場合に使うようで、アキラ様が扉を開けると中央にはイーゼルとパネルが置いてあり、その後ろに男性が座ると思われる椅子とサイドテーブルがありました。
「こんな家を一人で使っているのかい?」
一人という事はやはり優しそうな男性もボクをモノとして見ているだと知りました。ネロイドを人間と数える風習は世間にはないようです。落ち着きのない男性は質素な部屋であっても隅々まで見渡し、床や天井を見ただけでも唸っているので、虫でもいるのかなと心配で視線を追ってしまいます。
「今時おれのようなハッカーやエンジニアは少数でやるのだ。面倒な手続きも必要ないからな」
アキラ様が椅子を指差すと男性は手に持っていた木の鞄をサイドテーブルに置き、よそ見をしながらそれを開きました。中には水彩道具と色鉛筆、クレヨンなど幼少期でも扱える画材が詰め込んであり、そのどれもが綺麗に保管されています。
「法的な事もパソコンが自動でやってくれるのかい? いいねぇ、コンピューターに詳しい人は」
男性は口ずさむようにして言いながら一枚の紙とパネルをクリップで挟みました。絵を描く事こそ難しいと思いますが。
「同じ事ばかりしているから情報に疎くなる。インチキな弁護士に頼むより、おれに土下座すれば安く済むぞ」
「迷うなあ」
「ま、奴らも近いうちに失業するだろうから金を恵んでやるのも慈善事業として成り立つがな」
「弁護士も大変だねぇ」
二人の会話に張り合いはないようです。アキラ様からすれば話したいのだと見えますが男性は道具を慈しんでいました。
「ということでおれは奴らの仕事を無くす為の研究で忙しい。あとは任せたぞ」
「あれ、見ていかないのかい?」
「非常に気になるが…、お前がいるなら大丈夫であろう。ユリカが描き終わるまで部屋に戻る」
「また仕事かな?」
「世の中にはおれのような天才にしか出来ない仕事というのがあるからな。芸術の分野は変態を信用したほうがいい」
身をゆっくりと翻したアキラ様は部屋から出ていきました。いつもの態度が鳴りを潜めたのは何を感じたのでしょうか。
このような場に置かれて気を遣う事も出来ないボクは、男性の顔を見ると無言でイーゼルの前に立つよう促されました。画材に加えて椅子と机しかない部屋では普段よりも暗く感じましたが、照明はいつもと同じだけの明るさを保っています。
「すっかり任されちゃったね。実はどうするか決めてないんだ」
白色のパレットを指でなぞり、他は目に入っていないように見えます。穏やかな顔なのに真剣なあまり立ち入れません。
「色についての認識はあるよね?」
声の迫力が増して先ほどまでの口ずさむような声は消えました。このような情緒を理解しようと吸い込まれていきます。
「はい、用意された全ての色が正確に分かると思います」
「じゃあ色の配合も分かるかな」
「それも分かるのですが、その前にボクが絵画を正確に理解しているとは思えません」
単純に表現のひとつとするならば言葉と同じですが、一冊の図書とは比べられない価値を持つ事がある絵画にどのような表現を求められているのかを知る事は、人間の表現を技術面で超えるのに必要な解釈だと思います。人間と人工知能の交流においても、言語という誤解を招く機会が多い表現に頼るのはどちらにとっても非常に不本意な古い文化でしょうからね。そのどちらに対しても絵を理解するというのは必要な事だと思います。
「うぅん、困ったな」
男性は左手の爪先で頬をかきました。その爪先に皮脂がついたのを気にしてか、スーツが皺になるのも構わず拭います。
「例えば黒は光を反射しないで周囲の色を際立たせる刺激的な色とされているけど、僕はそれを辞書的な表現だと思っている。夜中に部屋で寝る時なんて枕元で何か光ったら怖くて寝られないし、黒だけが安心出来る色で他は刺激が強過ぎる色なんだ」
「色を自分なりに解釈する事が重要なのでしょうか」
今の答えを聞いて男性は水彩用具を取り出しました。指先でそっと持つように、それなのに神経質で十分な力強さです。
「うん、伝わっているね。それじゃあ赤は君にとってどういう色になるかな?」
「例えるなら……、天使の色をしています」
「続けて」
折り畳み出来る四角いバケツにペットボトルの水を注ぎ、筆を六本その中へ入れ、取っ手には筆を拭くための布を置きました。
たまに動きが止まったりしているのは考える事に集中しているからでしょう。それぐらいは同時に出来ないのでしょうか。
「赤というのは原色のうち、最も波長の長い色です。現代で一番に重要な色であり、人間が何より頼りにしている色です」
赤色を神様に例える事も出来ましたが、反発がありそうなので止めておきました。ボクの信仰する対象は神様ではなくアキラ様ですから、関係ないといえば関係ないのですけれどね。
「天使が赤だとしたら、君は何色だろう?」
「難しいです。赤ではありません」
「そうだな。僕でも自分の色というのは難しい」
男性の考えている難しさとボクのものとでは恐らく一致してはいないでしょう。ボクという存在は資源が許す限りいくつも作る事が出来ますし、不可視の姿となるのも可能ですから、例えるなら鉛筆の下書きであり、明確な色ではありません。
「質問を間違ってしまったようだ。君にはアキラ君がいるだろう。彼は君にとってどのような色なのかな?」
男性はパレットと絵の具セットの箱をイーゼルに付属したテーブルに乗せました。傷はありますが古くはないようです。
「アキラ様の色ですか…」
あの素敵な笑顔を真似ながらアキラ様を思い浮かべました。丁寧に検討してみましたがどうやら一色しか相当しません。
「黄色です」
「それは何故かな?」
「ピザの色です」
何かを思い浮かべるように上を向いた男性は唸りました。色をボクなりに解釈したつもりですが納得がいかないらしく、しばらく天井を睨むとやがて諦めたようで、三色の絵の具を箱から取り出してパレットに伸ばすと優しく筆で広げました。
「どう手伝えばいいのか分かった気がするよ。まずは黄色いアキラ君を一枚の紙で表現するとしたらどうするか考えよう。場所は右上かな、左下かな。形は三角だったり円だったり、色々な可能性があるよね。君が表現したいまま形にしてみて」
男性から渡された筆はペンのように持つと揺らいでしまうほど軽く、心細いものでした。二番目に太い筆のようですけれど……。
筆の先についた絵の具は垂れてしまうような心配もなく、重さも感じさせません。考える時間を取っても乾く事もなく、適切な量の絵の具を渡されたのだとは思いますが、それすらも疑ってしまうほどアキラ様を表現するのに迷いがあります。
右とはなんでしょうか。左とはなんでしょうか。上は天井がありますし、重力によって床へ落下しますが、左右に違いがあるなんて考えた事がありません。横書きの文章は左から書きはじめたり、右利きの人に合わせて物を配置する事はありますが。
ボクの思うアキラ様の素敵なところとは、金魚のように膨れ上がったお腹や、しばらく残っているうなじの吹き出物や、それ以外にも沢山ありますが第一にあの輝かしい笑顔であり、ピザにだって劣らない黄色くて大きい太陽と例えられます。
力をあまり込め過ぎないよう、ゆっくりと筆の先を中央より上に置き、そこから円を描きました。中の空白も塗り潰し、真っ白な紙に現れた円はボクとアキラ様を示す関係そのものに見え、未完成なのにも関わらず満足に笑ってしまいました。
「こうでしょうか」
筆を返すと男性はバケツの中で筆を振り、パレットに置きました。絵の具の箱をボクに差し出し、また笑顔になります。
「うん、いい円だと思うけどアキラ君はただの円じゃないよね。周りにいくつも色を持っている。それを表現してみよう」
何を求められたのかは分かりますが、それが芸術なのか迷いました。曖昧な表現に人工知能が介入していいでしょうか。
「考えさせて下さい」
もしもボクがアキラ様を表現するならばこれで完成しています。そこに情報を加えるとしたら膨大な量を付け加える必要がある……はずなのですがまだ半月の付き合いですし、外出を頻繁に行うような方ではないので、そうでもなさそうでした。
全ての絵の具をパレットの上に伸ばすと白色を筆で取り、アキラ様の下に小さ目の円を描きました。一見すると白い紙に白色を塗ったので何も意味がないように見えてしまうかもしれませんが、これはボクであり、軽い潔癖のような行動です。
そして次々と思い当たる人物や対象を色のついた同じ大きさの円で表現し、そのたびに筆を洗う行為を繰り返しました。
次にそれぞれの関係を線で結び、まるで相関図か樹形図のような絵が出来たところで、またそこから八方に色を塗ります。
言うなればこれは絵というよりもグラフであり、表現が人間にとっては個性的な芸術に見えるというだけの代物ですが、ボクにはそれが限界でした。それでも出来るだけ芸術へ近づけるよう計算を繰り返して長い時間を使い、描き続けました。
時折アオイ様がお茶を届けてくれました。男性はそれに口をつけるため椅子に留まったり、ふとこちらへ近づいたりしています。どうやら飲み干すまでじっとしている事は出来ないようで、ボクの隣に立ち、絵を見ようとしている時間が長くありました。
再びアオイ様が部屋に来たのは三十分経過した頃で、男性はティーカップの柄を握ったまま距離を置いて観察しています。
「温かいお茶を用意しました」
「ごめんよ。もう冷めていたんだね」
背後で冷えたはずのお茶を慌てながらすする音が聞こえました。手伝いたいですが、振り向くほどの事ではありません。
「君も確かアキラ君が作ったネロイドだったよね」
「はい、アオイと申します」
「君にはあれが何の絵だか分かるかな」
「絵画には詳しくありませんが、もしかしたらアキラ様を表現しているのでしょうか」
「やっぱりそう見えるんだね」
「違いましたか?」
「いや、僕にはさっぱり分からないんだよ。物心ついた頃から絵を描いているけどこんなことは初めてだ」
「とても上手に描いていると思いますけど…」
「人間は何もない場所から創造しているように思われているけど実際は色々な事に影響を受けている。ネロイドとは違ってね」
「もしかしたら、ネロイドには人間と別の感性があるのかも知れませんよ」
アオイ様が言った一言に男性はしばらく黙ってしまいました。どうやらアオイ様は、その言葉が人間とネロイドが決して分かりあう事はないのだという意味にしか聞こえないのに気が付いていないようで、相変わらず微笑んでいるようでした。