第二章 ボクとスーツの人
家に住み着いてから半月を過ぎたある朝、アキラ様が珍しく部屋を出て浴室へと向かうところでした。お風呂はおとといに入ったばかりだというのに、洋服を用意しておくようアオイ様に伝え、どたばたと足音を立てながら慌て気味でいます。
「アオイよ、今日は一日ユリカを借りるぞ」
「はい、わかってます」
ボクは防音設備の整った一室からその様子を眺め、トイプードルのしつけを任されていました。しつけと言っても本格的なものではなく、動物と触れ合う事で人工知能がどのように考えるかを主に検証するものなので、ブリーダーとしての適性を調べているのではありません。こげ茶色で毛むくじゃらのトイプードルは人間からすれば可愛いとの事ですが、ボクからしてみると人間との違いがありすぎてどのように理解すればいいのか悩んでいます。とはいえこれも実験に含まれますし、遠くから眺めているだけではアキラ様を困らせてしまいますから、アキラ様が太郎様やカナデ様と接するときのように笑顔で接しつつ、ボクが他の事を任されている間も生活できるようエサやりを定期的に行う機械を作ってみたり、トイプードルと似た人形を買い与えてみたりして、どのように接すれば会話の通じない動物達と仲良くなれるのかを確かめていました。
今は膝の上で尾を振りながらボクに飛びついてきているのでここを動くわけにもいきませんが、外出とあれば準備をしなければいけません。座ったままアキラ様のいる浴室のスピーカーへと接続し、服を脱いでるところに声をかけました。
「外出の準備をした方がよろしいでしょうか」
「いや、うちに来る予定だ。それが終わったら外出してもらうがな」
今日はトイプードルと触れ合う日ではないようです。ボクが立ち上がると、彼は期待した目でこちらを見上げてきます。
「分かりました。来客があるなら今のうちに掃除しておきますね」
「それはアオイに任せていい。ユリカは着替えたら茶と菓子の用意でもしながらおれの話を聞け」
こげ茶色の彼は部屋から出るボクを見ておすわりをしました。何かを期待したであろう彼とは笑顔で別れを告げました。
「いいか、これから来る奴はデザイナーだ。ユリカにはそいつと絵を描いてもらう」
「絵、ですか?」
風呂場にカメラは付いていないのですが、反響した音を拾う事は出来ました。シャワーなどの音に交じって聞き取りづらいので改装して欲しいです。
「人間相手の心理テストで絵を用いる事はよくあるが、お前は人工知能だ。人間に近づくとどのような絵を描くのか興味を持つ者が多い。何かを参考にして書いたらもちろん駄目だぞ。思った物を思った色と線で表現する事に意味があるからな」
「お手伝いしたいのは山々ですが、とても難しいと思います……。絵と認知される程度に描くのは簡単ですが、それがボクの描いた作品であるとの説得力を持つかは難しいです。アキラ様は単純に絵の完成を望んでいるのではなく、個性が発揮された絵を描かせたいのでしょうけれど、期待過剰だと思います」
「無理なら無理で面白いのだ。上手く描けたら成功ではないぞ。どのような結果になるか知りたいだけだから安心しろ」
「はい……、がんばります」
ウォーキングクローゼットに入ると衣装をハンガーにかけ、エアロランドリーに仕舞いました。スイッチを入れると空気で洗浄してくれるため型崩れも起きず、ボクは汗をかかないのでアルコールで消毒する程度にしか身体も汚れていません。
絵を描くという事なので着替えの衣装にはアフタヌーンドレスを選びました。袖口の狭い物の方が不便はないでしょう。
「それを踏まえて午後には創作料理を作ってもらう予定だ。味と見た目のバランスを考えた結果どうなるのか立体的な表現力を見るのが目的だ。おれはあいつが来るまでに身体を洗っておく。あいつの菓子は賞味期限が近い物だけでいいからな」
賞味期限が近いもの、ということは気を利かせてケーキなどを用意しておくべきなのでしょう。今から注文して配達が間に合うのでしょうか。
それと、創作料理も絵画と同じ理由で難しいかと思います。ボクが作ってこそ意味がある料理を期待されている気がしますから。
冷蔵庫を開けてみるとショートケーキが皿の上に蓋をされた状態で冷やされていました。お茶の用意は茶葉を湿気させないため缶の中にありますが、お湯やティーポットとミルクなどは温めてあり、砂糖はノンカロリーと揃えて置いています。
どれもアオイ様が済ませてくれたのでしょう。お礼を告げるといつものように人から好かれるための笑顔をくれました。することもないので玄関先に立ち、来客を待つことにしました。人間とは違い、疲れないので姿勢をきちんと正します。
待ち合わせの三分前になり、一人の男性が石垣に沿ってゆっくりと歩き、ぼんやりと家を見上げながらこちらへ向かってきました。男性は千鳥格子のスーツを着て、グレー色で自己主張のあまりないスーツの上下を揃え、目を細めて人当りの良い笑顔をしています。
片手には黒色の木製カバンを持ち、長年愛用しているのか、歩くたびに持ち手のきしむ音が遠くからでも聞こえました。細長い身体でネクタイは着用しておらず、茶色い革靴だけが不相応に磨かれていて、どこか抜けて見えてもこだわりを感じます。
途中で足を止めたり家とは逆の方角を向いてみたりして、五〇mの距離に三分を使い、到着したのはまさに時刻が丁度を迎えてからです。男性が近づくのを確認すると頭を下げ、アキラ様の人当たりの良さを真似て素敵な笑顔を披露しました。
「お待ちしておりました」
男性は建物を見ていた時より少しだけ明るい笑顔を向けてくれました。人を見る目のないボクでもマイペースと分かります。
「君が新しいネロイドかい。相変わらず人間みたいだね」
「アキラ様からはユリカと呼ばれています。今日は絵について教えてくださるとお聞きしています」
「そんな固くならないでいいよ。どの程度まで人間に近いのかは知らないけど緊張してたら自然な絵は描けないからね」
「とてもお優しいんですね」
ボクが作られてから間もそれほどないですが、この男性のように気を使ってくれる方はまだいませんでした。いえ、アキラ様がデリカシーに疎いという事ではなく、ボクに対して心を開いているとも言えますし、仕方ないと理解してはいるのです。
「……参ったな、ははは」
男性は褒められても笑顔を変えず、照れているようにも見えませんがあまり慣れていないためか返事に困っていました。笑って誤魔化そうとしているので脈絡もなく家へ案内すると、今度は立ち止まらず周囲を見渡しながら付いてきています。
玄関を開けるとアキラ様が出迎えてくれました。お風呂へ入ったのにTシャツを着ていて、それは正装なのでしょうか。
「久しぶりだな変態! ユリカもあまり近づきすぎるなよ!」
玄関が閉まるのも待たず大声で招き入れ、男性はたじろいで見えました。勢いに負けて調子を崩されるのだと思います。
「とてもお優しい方ですよ?」
「見た目だけで信用するな! こいつはデッサン用と称して小さい女の子のネロイドをおれに作らせた変態だからな!」
「いやだなぁ。法律に引っかかる使い方はしてないよ」
男性は参考にしたくなるような笑顔を相変わらず浮かべ、鞄を持っていない方の指で頬を掻きました。このような笑い方も覚えておいたら何かの役に立つのかなと見ていると、通常と比べ力が抜けていて人間らしい笑い方なのかもしれません。
二人の会話は笑い話に聞こえますがボクには理解できませんでした。二人でとても高度な会話をしているのでしょうか。
「小さい女の子のネロイドをデッサンすると変態なのですか?」
やはりといいますか、男性は笑いました。ところが理由は分からないのですが、今度はアキラ様がたじろいで見えます。
「それはまあ、その……。ええい、今のは無しだ! 忘れろ!」
アキラ様は天才ですから時々難しい事を言うのです。きっと天才ゆえ異性を意識し過ぎているのではないかと思います。