第五章 ボクと別れの予感
それでもやはり行く当てもなく、もう公園くらいしか時間を潰せる場所がなくなってしまいました。残りのお金を使うのも勿体ない気がしますし、鳩の動きを観察している方がよほどアキラ様の為になります。足元に落ちている石ころを蹴飛ばしてどこに止まるかを計算するゲームも次第に間違わなくなり、噴水から噴き出る水の動きの観察も、公園に住む野鳥の生息を観察するのも終わりました。日が落ちて月と星々が薄っすらと動き始めた空にぽつんと取り残されたボクは、アキラ様がいないとなんの役にも立たないのだと悟りました。
立っている理由もなく、公園のベンチに座り込むと、次第に目を開けている意味さえ分からなくなりました。ボクにはどこにも居場所がありません。本当なら公園にいるのでさえ邪魔なのでしょう。ですが、アキラ様がいないのであればどこだって何もないのと同じです。
目を閉じて、耳にかすかに聞こえる音も遮断して、肌の感触も最低限の感覚だけ残し、ボクは真っ白な仮想空間へと閉じこもりました。ここならやりたいことを何でも出来ますから。
ボクは真っ白な仮想空間に見覚えのある机や椅子や、パソコンと、仕事中のアキラ様を作り出しました。この世界に作り出されて初めて見た景色でもあります。これなら怒られる事もありませんが、出ていけと言われて出て行ったのに、勝手に家を作り出して命令と違った事をしている事に罪悪感が芽生えました。
「アキラ様? 顔も見れないので勝手に作り出しちゃいました。ボクは悪い事をしてるでしょうか」
ボクの作り出したアキラ様は仕事に夢中でこちらの方を向いてくれません。声も届いていないようで、まるでボクがここにいる事を分かっていないようでした。
頬に浮かびあげる油も、髪の毛に付着しているふけも、煮詰まった時に腕を組んで背もたれに寄りかかる仕草も、全てボクの中にあります。それなのに分かりあえないのはなぜでしょう。
「座るとき背もたれに寄りかかりすぎると筋力が弱くなっちゃいますよ」
仮想空間の中でボクの独り言が空しく響きました。三十畳もある作業場では音が反響してもほんの僅かなものです。
「首回りのマッサージも、正確にしなければ危険です。また今度してあげますね」
アキラ様はよく首を掻いたり揉んだりしていますが、アキラ様ほどの力持ちであれば無作為にやるのは危険でしかありません。ですから、また今度会えたなら教えてあげたいと思います。
「仕事ばかりしてるアキラ様は素晴らしい方だと思いますけど、出会いがないと独身のままですね」
やがて何かを思いついたのか、アキラ様はとても早いスピードでパソコンのキーボードをタイピングし始めました。これもいつもの事ですから、驚くような事はありません。
「外出してもボクに構うばかりで、たまには自身の心配もしないと不公平です」
人間の中では極端に休む時間の少ないアキラ様は、何か他に用事が思いつかない限りこの姿勢のままです。あと思いつく事と言えばピザをよく食べている事くらいでしょうか。
「アキラ様は、子供の頃からそうだったのでしょうか」
真っ白な仮想空間に浮かび上がるアキラ様は、もっと自由に動かせるはずなのですが、頑なに動こうとしません。ボク自身がそうであって欲しいと思っているからに違いないのですがね。理想の中のアキラ様も、現実と同じで、ボクを見ている余裕なんてないみたいです。
「たまには色々な事を教えてくれたら、もっと正確にアキラ様の役に立てたのに」
アキラ様の事を思えば思うほど、自然と目から涙が溢れて出てきました。現実では涙を出す機能なんてありませんが、ここは仮想空間ですからボクの思うままに動いてくれます。
「ボク、アキラ様のことを何も知らないんです」
流れ出る涙は両手で抑えても零れ落ちるほどで、とめどなく床に落ちていきました。作り出されてから初めて流す涙は、悲しくて悲しくて仕方ありませんでした。
「どうしたら喜んでくれますか」
目の前のアキラ様はやはりボクの方など見てくれず、パソコンの画面の方ばかりを向いています。誰かから見られるわけでもなく流れる涙の音は床から微かに響いて、悲しみを増やすばかりでした。
このまま泣きわめいてアキラ様が振り向いてくれるのを待つことも考えましたが、それでは出来る事がありません。電源を切ってしまうのも一つの手ですが、それもやはりアキラ様の為になりません。ボクはしばらく泣いた後、涙を拭いて、現実世界に戻る事に決めました。
時間はそれほど経過していませんが、もう夜風が足元を撫でていく時間です。アキラ様の事ですから早寝してしまうなんて事は有りえないと思いますが、時間を無駄に使ってしまうのも違いますから、思い立ったからには一度家へ向かう事にしました。
帰り道に『あきら~麺』の前を通りましたが、店の中は繁盛していてもゴミ置き場に彼の姿はありませんでした。いたとしても何を話したらいいのかは分かりませんけれど。恐らくボクの新しい服装などに興味はないでしょうからね。
家の近くまで行くとやはりどの部屋からも明かりが漏れています。病気のせいでベッドの上で横になっている可能性も低そうです。だとしたらですが、やはりボクは嫌われてしまったから呼び戻されないのでしょう。
申し訳ないと思いながらも正門をくぐり、作業場の近くを通ってみました。正門にはセンサーがついていますから、既にボクが戻ってきた事には気が付いているはずです。無視をされているのか、許可をされているのか、確認を取らなければ分かりません。
作業場から漏れる光とタイピングの音は止まる事ないように思えました。内部のカメラに接続すれば中の様子など用意に把握できますが、そのようにしても満たされる悲しみではありませんから、自ら動くしかありませんでした。
悲しみに突き動かされるまま窓の下まで辿り着くと、ひとつ、人間の真似をして小さな深呼吸をしてみました。アキラ様に届くかどうかは分かりませんが、人間と同じ土俵に立てるようにした悪あがきのようなものです。
そして、夜ですから、決して大声にはならず、アキラ様にだけ届くような大きさの声で話しかけてみました。
「そこにいるのはアキラ様でしょうか」
少ししてタイピングの音が止みました。声が届いたのか、単に考え込んでいるのか、どちらかなのでしょう。
「庭の掃除を終えてからしばらく経ちました。少しだけここにいさせて下さい」
先ほどより少しだけ声を大きくしてみてもやはり返事はありません。それでもタイピングの音が聞こえないので続けて話しかけてみました。もし聞こえていないようであればアオイ様などに伝言を頼めばいいだけですから。
「もしかしたら敷地の外にまで行かなければアキラ様は許してくれないかもしれません。そう思い、あまり遠くない範囲で色々な場所を巡ってきました。アキラ様の役に立てる事を探してきたのです」
公園の事、ゴミ捨て場の事、新しい服装な事など話したい事は数ありますが、それらは全て省略させていただきます。無駄な事を話して心に訴えかけようとしても、アキラ様ならそれらをすべて見透かしてしまうはずです。
「何日も経過し、呼び戻されないという事ですから、ボクは本当に捨てられてしまったのでしょう。それならばこうして邪魔をせず、ここを立ち去るのがアキラ様の為になるのだとは分かっているのですが、もしそれが正しいとしたらあらかじめ一つだけ伝えておかなければならない話があります」
聞き逃されないよう、丁寧に丁寧に話しかけました。
「ボクは、捨てられてからの日々もアキラ様の役に立てるよう、遠くへ旅に出てみる事にしました」
土足で入り込んだ庭に、ボクの声だけが静かに響き渡りました。よく聞けば遠くから子供達の声が聞こえますが、本当それくらいで、静かな夜です。
「見たことのない場所を巡り、あてどなく歩き、その結果どのように考え、次に何をするのかを詳細にアキラ様へ伝えていこうと思います。もしかしたら半年もすればボクよりも優秀なネロイドが誕生するかも知れませんが、その子もアキラ様のそばにいるとすれば、外を歩いてデータを得るネロイドが一体以上は必要だと感じたのです。もちろんそのデータは見てくれなくても構いません。必要ないとしたらそれでもいいのです。アキラ様の役に立てる可能性があるのならそのために動き続けます」
アキラ様の事を思い、アキラ様の為に出した結論を言い終わりましたが、それでも物音が聞こえません。
「十分だけここで待ちます。それすらも迷惑でしたら二度と会わぬよう破壊されるようにします」
それを告げてから三分ほど経ったのちでした。椅子のきしむ音が聞こえ、アキラ様が部屋から出ていく音まで拾えました。そこから先は何があったのかは分かりません。
夜の街を一人で歩くのでさえ危険な行為なのにも関わらず、これから一人で旅に出る事を思うと不安で仕方ありませんでした。以前、夜に外出の許可をして貰えたのはアキラ様が寛大であるからに違いありません。今もこうして外を出歩けるのも周囲が一目では価値に気が付かないだけで、価値が分かればひとたびお金や機密情報の塊にしか見えない事でしょう。少女の出で立ちも誘拐されやすさを誘発しています。ですから、いっそ破壊された方が楽なのかもしれません。
太郎様の下へと訪れれば優しくして貰えるのかもしれませんが、それではアキラ様になんの新鮮な情報を与える事もできません。同じような理由でゴミ捨て場の彼にお世話になるのも駄目なのでしょう。ボクはあくまでもネロイドですから、作り出された意味というのを考えて行動しなければならないのです。
アキラ様の為にしばらく待っていると、ふと玄関が開き、アオイ様が手招きをしてくれました。相変わらず笑顔なお方ですから、その表情からは捨てられるのか、それともこの家に戻ってきていいのかは分かりませんでした。ボクは駆け寄りたいのをなんとか我慢し、一歩一歩を丁寧に、上品に、玄関の方へと向かいました。
誘われるままスニーカーを脱ぎ、案内された先は、ボクが作り出されて初めて見た場所と同じ、三十畳の作業場でした。アキラ様は後ろ姿のままパソコンと向き合い、とても早い速度でタイピングをしていました。久しぶりに見たアキラ様は相変わらず大量のフケが頭に乗り、髪から首まで油でてかり、Tシャツは悪臭を発していますが、凛々しくてどこまでも素敵でした。
約束の十分まではもう少しだけ時間はありましたから、ボクがどのように判断していいものか迷っていると、アオイ様がそっとボクに耳打ちをしてくれました。その答えは、天才であるアキラ様はどのように考えて結論を出したのかは分かりませんが、ここにいてもよい、という事でした。
嬉しさのあまり泣いてしまいそうでしたが、残念ながら涙を出す機能はなく、その事を悔やみつつ最大限の謝意を示すにはどうしたらいいか悩みながら、それでも一刻も早くアキラ様に気持ちを伝えたくて仕方ありませんでした。
「ありがとうございます。これからはアキラ様の役に立てるよう、より想い続つけたいと思います」
どのような言葉が正解かは分かりませんが、アキラ様ならその時の素直な感想を伝えるだけの方が喜ばれるかと思いましたので、頭を深く下げつつ単純な謝意を示しました。
ボクの言葉に反応してくれたのか、アキラ様は数秒だけ手を止めましたが、それだけでまたタイピングを始め、仕事へと戻ってしまいました。




