第五章 ボクと激怒
作業中、ユウリ様から異常を知らせる呼び出しはありませんでした。安静にしているのだと安心していましたが、どうしても気になって様子を見てみると、先程の姿勢のままです。
「まだ起きているのですか?」
ボクが声を掛けても、アキラ様はタブレットから視線を動かそうとはしてくれませんでした。それどころか顔を渋くし、余計に前のめりで画面を見始め、意固地になって動こうとしません。
使用人としても信用されないなら、いつになればボクとアキラ様は家族になれるのでしょう。身体を労りながら手伝い、そして喜んでくれるだけでいいですが、それでも太郎様とカナデ様のような関係に憧れてしまいます。
「興奮して横になっても休める気がせん。身体が寝るなと言っているのだろう」
アキラ様の体調状態を無線で確認すると、確かに興奮しています。それでも点滴の中にも身体が落ち着けるようにする薬剤を含んでいますから寝られる程度です。
寝顔など一日のうちで偶然見かける程度しかないですが、不眠症というわけでもないはずで、寝たくないから寝ないようです。まるで不眠不休のロボットに憧れ、人間らしさを忘れています。
「アキラ様の代わりに、動物を実験に使う訳にもいきませんよね」
「扱う知識が高度過ぎて今のままで機能するか不安がある。野生の猿を捕まえる訳にもいかん」
優しいアキラ様の事ですから、動物を犠牲にしたくないので言っているのかも知れませんが、仕事だからと言って使う可能性もあります。どちらにしても辞めるつもりはないのでしょう……。
ボク程度には、どのように考えてもアキラ様が休んでくれる手段を見つける事が出来ません。もしカナデ様だったなら、もっと優秀な人工知能であったなら、説得してくれるのでしょうか。
「……あの、アキラ様。ボクの不束なお願いを聞いてください」
ただボクは諦められるほど賢くもないのです。アキラ様のためならなんだってしたいです。
「もう、これ以上は辞めたり出来ないでしょうか?」
アキラ様はようやくこちらを向いてくれましたが、その表情を見てどのように考えるべきか分かりませんでした。無表情に近いですが、こちらの動きを見逃すまいとの真剣さを感じます。
「何を辞めにするのだ?」
「仕事と実験と、二つです。不摂生も含んでいいのかもしれません」
少し待ってみてもアキラ様が何も言い返そうとしなかったので、近寄ろうと前に進みました。
点滴が切れそうですがアオイ様は取り換えていなかったようで、新しいのと取り換えました。
そうしている間も顔を見られていて、あの笑顔や、表情を失ってしまったようで不気味です。点滴を取り換えている間、どちらからも口を開く事はなく、理想的なほど大人しくしています。
「この点滴は今朝アキラ様が注文した物です。もしかしたら太郎様がベッドと共に使っていたかもしれない点滴でもあります。先程、アキラ様はリスクを思いつかないと言っていましたが、本当は気が付いていたはずでしょう。それでも止められないから言わなかったのだと思います。だとしたら第三者であるボクが言わなければなりません」
話している間は失礼のないようにその目を見ていました。点滴が落ちているのを確認すると、アキラ様の事を想い、ボクの服には可視出来る汚れがついていないのを見て、もう一度向き直りました。
「それに、人間の能力を底上げする研究が単なる悪あがきであるとアキラ様も言っていました。ボクはアキラ様の為に作られたのですから、ご自身が犠牲になってまで続ける無駄な悪あがきを止めなければいけません。だから、止めさせてください。これから寿命に至るまで暮らしていくお金はあります。これ以上は研究をやめて幸せに暮らしましょう。もう誰も得をしません」
こちらをじっと見たままです。ボクがどれだけ話しても、表情ひとつ変えられませんでした。
点滴の落ちる音が鮮明に聞こえてしまいます。まばたきの音さえ拾えてしまえそうでした。
ここで次の言葉を告げたとしても、返事を諦めて部屋を出たとしても、今になってから謝罪をしても、取り返しのつかない失礼なのであれば、今後の為にもこの場で返事を頂きたいです。
「ユリカよ」
そんなボクの気持ちが通じたのか、アキラ様はようやく動いてくれました。ですが、なぜか点滴を腕から針ごと引き抜き、患部に血だまりが噴き出しましたが気にする様子はありません。
「することがないのか?」
点滴スタンドが倒れ、先程までアキラ様と繋がれていた点滴管と針が飛び、血が舞いました。その一端は布団やカーペットだけに収まらず、ボクの衣装にまで小さな赤い点を残しています。
「アキラ様?」
腕から溢れる血を確認しようとアキラ様の元へ歩み寄り、屈んでその腕を見ようとしました。ですが屈んだところでアキラ様に突き飛ばされてしまい、逆らえないまま壁にぶつかりました。
ムスっとしたままで、腕から垂れる血を気にする様子もなく、部屋の外へと出ていきました。床に血の跡を残しながら、ボクはどうにか止血したいのですが、足を止める様子はありません。
ボクにはどこも故障がないのを確かめながら、アキラ様の後ろ姿を追って部屋の外へ出ると、その素足で踏み鳴らし、リビングへと向かいました。窓の外を見ると、真っ暗になっています。
そしてテーブルの椅子を持ち上げました。古いながらアキラ様が座れるほど頑丈な椅子です。
ボクにはどうするのか見当もつきませんでしたが、窓際へと歩み寄り、その椅子を窓ガラスへと力を込めて叩きつけました。ですがいくら腕力があり、アンティークのガラスといえども、フィルムが張られていますから一度では割れなかったのですが、二度や三度とぶつけています。
その衝撃でガラスにはひびが蜘蛛の巣状に広がり、窓枠の木が支えきれず折れかけています。それでも何度となくぶつけるものですから、血は腕全体へと広がり、乾く暇が見当たりません。
アキラ様が椅子を叩きつけるたび、音は高い物も混じり始め、とうとう窓ごと破壊しました。細かいガラスの破片が周囲へ飛び散り、リビングの照明を反射して夜の帳へと消えていきます。
窓の外に椅子を投げ捨てると、アキラ様はこちらを振り向きました。その顔は充血していて、指先から血を床へ落とし、今までに見たことのない表情ですが、とても凛々しくて素敵でした。
「掃除しとけ。おれの部屋に入ってくるな」
それだけ伝えると返事を待たずに自室へ戻ろうとしています。ボクの横を通り過ぎる時にも、目を見つめようとしていたのですが、アキラ様がこちらを向いてくれる事はありませんでした。