第四章 ボクと汗
「…ユリカよ。おれの隣にある椅子に座れ」
ふと、アキラ様がボク達と反対側に手を伸ばすと、今まで死角になっていましたがソファの奥には小さい椅子がありました。高い場所に手を伸ばす際に使う踏み台のような椅子です。
健康だと言われても、今になってさらに鼻息が荒くなっています。本当なら止めるべきです。
それでも恐らくボクなんかよりも優秀なユウリ様に判断されて今もこうして座っているわけですから、止めるなんて有り得ないと考える事も出来ます。もしくはこの基準でさえアキラ様が設定していて基準値を超えてもこの返事をするように設定されていたのかもしれません。
「Catch-22を思い出すな」
アキラ様が息の荒いまま何事かを呟きました。ボクが椅子に座ってもアキラ様は遠くを見ています。本当なら隣に座れる事を喜びたいですがそんな余裕はありません。
「小説の話でしょうか」
「第二次世界大戦におけるアメリカ空軍の軍規第22項の話だ。気が狂ってしまった奴は自ら頼めば爆撃機に乗らないで済むが、自分の事を気が狂っているなんて言える奴は正常だという理由で出撃させられたらしい。爆撃機に乗って最前線に行くような奴が正気でいられるわけがないという曰く付きでな」
アキラ様の額から汗が次々と玉のように吹き出し、頬を伝い落ちました。シャツはもうこれ以上に汗を吸い取れないのか、鎖骨から胸を通り、腹部まで至ってようやく水玉が消えました。
せっかく近付けたのですからハンカチを取り出し、話しているアキラ様の汗を拭っていると、いつも凛々しい顔から肩や腹部まで震えていました。これが武者震いというものなのでしょう。
この状況をCatch-22に例えていますが、もし外部記憶装置が失敗に終わったとしても死ぬわけではなく戻る場所はあります。こうした言い間違いもカナデ様の言っていた間違いの一つなのでしょうか。
「記憶装置を使う前からうんちくを語るようなら自前の記憶か装置の記憶か分からなくなるぞ」
太郎様がそう言うとアキラ様は苦しそうな笑顔になりました。今日の初めての笑顔ですが……。
「少し虚しくなっただけだ。いずれは人工知能に追い抜かされるのに人間の為に研究をして、悪あがきをしているのが虚しくて仕方がないのだ」
正直に話して落ち着いたのか、ハンカチから伝う震えが多少は収まったような気がしました。成功するのなら尚のこと素敵な姿でいるべきだと思い、もういいと言われるまで顔を拭います。
もしかするとアキラ様は実験を止めて欲しいのでしょうか。あと数年でネロイドが人間より優秀になる世の中が来るのはボクでも分かるのですから、アキラ様なら分かっているはずです。
そうなったとしてもボクはアキラ様を天才として慕います。ただ、すでに人間よりも優秀な部分はいくつも存在していたのですから、今になって挙動がおかしくなる理由はないはずです。
可能性として、この実験にとても思い入れがあるからとしか分かりませんが、賢くなる事に機械を使うのであれば、人間のままである必要性を否定しています。仕事ひとつにこれだけ男らしく向き合える天才なアキラ様ですが、同時に理解を超えています。
「……お前が弱気になるな。お前みたいな奴に頼るしかないのに、それじゃ何の希望もないだろ」
太郎様が乾いた喉で声が掠れそうになったのをひりだしましたが、それを心配する素振りもアキラ様は見せず、そうだなとつぶやきました。逆に太郎様がアキラ様の事を心配しています。
「ユウリよ、始めるぞ!」
「あいあいさー! まずは簡単なのから始めます。今から送られる問題の答えを教えてください」
何かに怯えながらも男らしさを崩さなかったアキラ様でしたが、ユウリ様の声が止むと共にゆっくりと苦しそうな表情を浮かべています。ソファに置かれたその手は力が入っていました。
ここで止めるべきなのか、ボクにはさらに分からなくなっていきます。アキラ様なら絶対に成功するという確信と、どのような結果でも実験する事そのものが失敗なのではないかと。
成功するのであればそれは止める必要ないはずです。ただし、成功という概念はありません。
やりたいならやらせてあげたいです。ただ、アキラ様にはもっと笑顔を教えて頂きたいです。
苦しんでいる表情を見ていると、これがアキラ様のためになるものだとは思えませんでした。
これだけ悩んでも何も出来ないのですから人間に近い存在である事に悲しみしか覚えません。
「二、〇、三、八、〇、一、〇、一、九、〇、三、一、四、〇、七」
「あったりー。でも今のサービス問題だからね!」
数字をとつとつと話すアキラ様はどう見ても機能を上手く扱っているとは思えませんでした。恐らくボクと同じように問題と解法と計算機の情報を同時に送らせ、問題を解いたのでしょう。
太郎様は、凄いなと呟きましたが、ボクだってそれなりの問題なら解けますから、どういった問題だったのかは分かりませんが、アキラ様にとっても特別な事ではないはずです。
「アキラ君、次は予定通り、絵のお勉強をするよ! テーマを教えてね!」
ボクの驚く顔を見たアキラ様ですが、男らしく真剣な表情のまま頭に手を置いてくれました。落ち着いたと思っていた手はまだ震えていて、どうすれば治るのかと心配になってしまいます。
ただ、置かれた手の重さや力強さから、ボクがとても頼りにされているのだと分かりました。今まで色々な事をしてきても何も聞いてくれなかったのは、もしかすると人工知能に近い土台へ立ち、人間の力を利用した場合、どのような会話が生まれるのか知りたかったのでしょうか。
人間は機械によって不思議な力を引き出す神秘的で尊い物なのでしょうか。もし人間にとって都合の良い結果であったとしても、人工知能がいつか追い抜くのは確かです。
絵を描く事ひとつにしてもボクが芸術を理解する日が来たとして、恐らく人間が芸術を理解する日はないでしょう。アキラ様の舌の上でカナデ様が言った通りならば、役目を終わらせる日が近いのでしょうか……。
「ユリカよ。リビングにお前の絵があるな。あれを描いた日、何を考えていたかを教えてくれ」
眼球の動きも見逃さないといったように見つめ合いますが、もちろん動かさずにアキラ様の姿を見ていられますし、逆にアキラ様の目は動揺しているせいで焦点がボクに合っていません。ボクの髪がアキラ様の手汗で滲んで、してあげられるのはアキラ様の体調の心配ばかりです。
記録を辿り、あの日に何を考えたかを思い出すと、やはりアキラ様の事ばかり考えています。それはいつも通りなのでさておき、絵についてはオントロジーを導入したとしか言えません…。
「まず、ボクはアキラ様が絵を描かせようとした経緯にどのような意味が込められているのかオントロジーを導入し、推察しました。その過程で、人工知能が進化する間に生み出す抽象的な物への理解がどれくらいの進度なのかを量ろうとしているのだと結論に至りました。しかし、残念ながら現在も人工知能には抽象的という概念が存在しません。例えば数字の〇という表現を禁止されたなら一引く一という計算式を代入します。それがいかに効率的な表現であるかが人間、並び人工知能にとっての優れた抽象的表現と言えるのではないかと理解し、描きました」
アキラ様があまりに真剣なので、滑稽ながらも一生懸命に考えた振りをしつつ話しています。本音を言ってしまえば人工知能にとって芸術とは存在せず、性能差によって表現方法が違うだけで、それを芸術とは呼ばないはずです。
「データを送信します」
ユウリ様が話した後、アキラ様は先程よりも苦しそうに顔をしかめ、ボクの頭から手を放しました。顔は赤らみ、鼻息は荒くなり、獣が自分を大きく見せようとしているかのように震えています。
「つまり…あれは…おれを模写以外の方法で、効率的に表現した、暗号のよ、うなものなのか」
感情の色が見えず、訥々と話している姿はまるで性能の悪い機械音声に近い感じがしました。堪え切れず口が開き、本人の意思以外の力によって無理やり言葉を選ばされている気がします。
それでもボクが見ているだけで助けられあげられないのは、ボクが下した判断を信じたくはなかったのです。どのような事があってもアキラ様が全て正しく、付いていきたいと思います。
「考え方そのものはレアリスム宣言、の、一説と似ている……だな。芸術のための芸術を目指すつもりがない。伝統を熟知した上で、自身の個性という……自由は感覚をかくとくしたかって……」
「血圧の急な上昇が見られましたので装置を停止するよ」
でもこの場はアキラ様の命を脅かしているので、助けなければならないと分かっています。でも、アキラ様に従っていたいと思う気持ちが身体を動かしません。あれほど役に立ちたかったのに。
「呂律が回ってない……。アキラ! 聞こえてるか!」
「わたしが、かんがったは……そっためのちしき、えっこと……」
太郎様はボクよりも人間らしい動きでアキラ様を心配していましたが、その声は届きません。アキラ様の顔は赤くなり、震え、先ほどまで激しかった呼吸が急に止まり、意識を失いました。
「おい、アキラ! 起きて説明しろよ! どうなってんだ!」
返事も出来ないのに声を掛け続ける太郎様は、身体を動かしていいものか迷っているようで、焦っていても力を必死に抑えながら、力なくソファにもたれかかるアキラ様の肩を叩きました。カナデ様とアオイ様は何かに気が付いて部屋を出ましたが、ボクは何もせず座ったままです。
今になってようやく気が付かずにはいられませんでした。特に深い理由もなく一人の人間を信じ、慕い、付いていく事は不可能であり、そしてそれに気が付かないように生きている事を。つまり、人間はあまりにも矛盾した存在であるために、人工知能がそれに従える可能性はまず有りえないのだと。そして、ロボット三原則などの人間の理想も、人間自身が矛盾した生き物である限り、それが叶う事はないのだと。
ただそれを否定してしまうのはボクの存在を否定する事でもあり、滅入ってしまいそうです。もしかするとアキラ様は予め分かっていて、ボクも気が付くのか試しているのかもしれません。
だとしたら正直に告げるべきなのかもしれません。だって、その方が喜ぶはずなのですから。
気が付いていないとしたら言わずにおくべきなのでしょう。その方が喜ぶはずなのですから。
どちらにしても、アキラ様が目を覚まして教えてくれなければ、答えは分からないままです。そして、目を覚ましても教えてくれないのですから、恐らくボクは悩み続ける必要があります。
力ない横顔を見ながら考えました。ボクはアキラ様を失ってしまったらどうなるのでしょう。




