第一章 ボクと出会い
まぶたを持ち上げると仮想空間と同程度の重みを感じ、現実世界とこうも似せて作られてあるかと感心しました。どこからか聞こえてくる風の音までは同じではありませんが、頭の重さから肌にまとわりつく衣服、雨上がりの空気などに感じる心地よさまで似せて作られていて、この部屋や世界に早速ですが親しみを覚えました。眼球から見える景色にはアキラ様の顔が目いっぱい広がっていて、ガソリンを塗ったかと思うほどの顔面の皮脂と、じゃがいもの芽を連想するような鼻の角栓が映し出され、あまりにも近い場所にあるその顔は予想していなかったのでさすがに驚いてしまいました。その皮脂はいつかボクが洗って差し上げたい程です。
「時間は!」
アキラ様はボクの顔に向かって大声を張り上げました。どうやらボクはベビーカーのような寝心地の良い台に座っているようです。時間を確認しようと光格子時計に無線で接続を試みましたが、それよりも早くアキラ様の背後にいる女性が時刻を告げました。その声は人から好かれるために生まれてきたような優しさに満ち溢れていて、ボクもすぐに魅了されてしまいます。
「えっと、予定通り四月五日の午前六時五四分三二秒かしら」
女性の外見は人間かネロイドか見分けが付きませんが、しいて言えばあまりにも美しいという事でしょうか。目鼻立ちに骨太さはなく、適度な肉感に覆われており、胸は大きいのに肩を張らず、すらっとした背丈は彼女の椅子と垂直を保たれていて、大人の女性らしい穏やかさがあります。研究に時間を割いてボロボロになってしまっているアキラ様と比べれば一目瞭然です。アキラ様にはお似合いのとても美しい女性とも言えますが、人間である可能性は〇.一%にも満たされません。
「ふっふっふ、楽しくてつい朝までやってしまったぞ!」
アキラ様が笑いながらボクの両肩を掴んで全身を食いつくように見ています。どこか異常でもあるのかと疑うほどです。
「なんて完璧なのだ。ユリカよ、おれの声が聞こえているだろう!返事をしてくれ。世界がお前の産声を待っているんだ!」
アキラ様の顔は表情が次第に一転してとても不安そうになりました。二九歳にもなってそれほど純粋な表情が出来る事をとても可愛らしく思いますが、単純に産声を望んでいるアキラ様をボクがそうさせているのだと思うと不意に責任を感じてしまいます。あの、産声というのは比喩なのでしょうか、それとも人間としての振る舞いを基準に考えた場合、赤子と同じようにした方が人間にとっては分かりやすいのでしょうか。どうするべきなのかボクには正しい判断が出来ませんでした。
「おぎゃあです?」
「なんだ、それは。設定年齢をいまさら間違えてしまったのか」
アキラ様の不安に満ちていた表情がさらに歪み、しょげるように首をかしげてしまいました。おぎゃあというのは世界中で通用しそうな産声ですが、もしかしたらボクは比喩をそのまま捉えるという初歩的な間違いをしてしまったらしいです。
「ごめんなさい、最初になんと言えばいいのか思い浮かばなくて」
あまりにも恥ずかしいので顔を隠してしまいました。ここが現実ではなく、まだ仮想空間であったなら良かったのにと思わずにはいられません。
「そうかそうか!自分で考えて結論を出したのか。それでこそ人工知能だ!」
アキラ様はまた一変して、嬉しそうな表情をしました。理由は分かりませんが、どうやら喜んでくれたようです。アキラ様は手を放して横を向き、パソコンのモニターに向かって話しかけました。
「ユウリよ! 撮影の用意をしろ!」
「らじゃ~! カメラはモノラルにする? サラウンドにする?」
「サラウンドで高音声だ!」
「らじゃ~!」
モニターは二つあり、机から垂直に建てられている物と手元に同じ画面が映っているようで、そこから声までも聞こえてきました。何も知らないボクからしたらアキラ様が突然に壁と会話を始めてしまったのかと困惑しましたけれど大丈夫です。
サラウンド型のカメラと呼ばれた直径一メートルほどの細い輪がボクを包み込むように上から降り、そのまま足元まで着地したと思いきやまた胴回りまで上昇してきました。恐らく一度スキャンして3Dのデータを取るために下降したのだと思います。
「まずはユリカに簡単な質問をする。多少時間が掛かってもいいから答えるのだ」
「はい」
撮影はもう始まっているようでした。仮想空間でも現実でも行う事にあまり変わりはありません。
「最初の質問だ。ユリカが初めて起動した瞬間、何を感じた」
「二〇二〇年代の仮想空間よりも地味に感じました。二〇二〇年代はヴァーチャルコミュニケーションによってネットワーク上で多数との会話を様々な場所で行いました。それに対して現実世界というとは無駄や見どころのない空間が目立ちますから、今のところそこまでの価値を見出せてはいません」
アキラ様の口元が堪えきれず笑ったように見えます。目の輝きは黒縁メガネのレンズに反射してより一層に輝きました。
「ネロイドから見て人間はどう思う」
「価値としては対等に近い存在だと思います。その中でもアキラ様は特別素晴らしい存在です」
アキラ様はさらに笑いました。大まかな姿勢そのものは変わっていません。
「多少難しくても答えられそうだな。では次だ。今からする質問に全て嘘で答えてくれ」
嘘というのは人で言うところの想像力を発揮しなければいけないので、相手を納得させる程なのは難しかったりします。単純に全く反対の事を言えばいい時と、遠からず近からず、それで見当外れではない答えの用意は人間の持つ能力でもなかなか出来ないと言えるものでしょう。
「簡単、ですね?」
「ああ簡単だ。今、ユリカはおれの部屋にいるか」
ボクの一生懸命吐いた嘘を当たり前であるかのように質問を投げかけてきました。間違った事は言っていないようです。
「いいえ、ボクは今、アキラ様の部屋にいません。真っ白い空間にいます」
「その真っ白い空間というのはユリカの部屋として役割を果たす仮想空間の事だな」
アキラ様はさらに質問を重ねてきました。真っ白い空間が仮想空間だけとも限りませんし、存在しているかも不明です。
「いいえ、ボクは仮想空間を持ちません。真っ白い空間というのは何も見えていないという事です」
そこまで伝えるとアキラ様はようやく姿勢を崩し、考え込むように頭を下げました。油っぽい髪が反射して眩しいです。
「くっくっく、笑いが止まらんぞ、ユリカよ。今度は正直に答えてくれ。おれは天才だな!」
考え込むのをやめたのか、アキラ様は顔を持ち上げて機嫌の良さを隠さず笑いながら言いました。とても簡単な質問ですが、アキラ様の事ですからこの質問に深い理由があるに違いありません。ボクは先程と同じようにして真剣に答えました。
「はい、アキラ様は天才です」
当たり前な事を言っただけなのにアキラ様は更に興奮して立ち上がりました。頭上から舞い落ちるフケが愛おしいです。
「これも正直に答えろ! おれは人並みでクズで何の才能もない凡人だな!」
「いいえ、アキラ様は天才です」
「だあああっはっはっは!!! アオイよ、ピザだ!! ピザをよこせ!!!」
ボクが喋り終わるのを待たずにアキラ様が大声で笑い始め、まるで指揮者のようにキリっとした姿勢で部屋の外を指差すと、先程からいる美しい女性が笑顔のまま立ち上がり部屋を出ていきました。面白い事を言ったつもりはないですが……。
アキラ様もその背中に付いていったので部屋から出て行ってしまい、ボクはカメラに取り囲まれたまま放置されてしまいました。撮影は続いているようで、何かした方がいいとは思うのですがどうする事も出来ず、ユウリ様と呼ばれたパソコンに話しかけてみても、どうやら対応してないらしく、返事は貰えずにいたため、そのままでアキラ様の帰りを待つことにしました。
一〇分ほど座ったままの姿勢でいると、アキラ様は口回りをべとべとにしながら現れました。子供のようで可愛らしいです。
「在庫のピザを全部食べてしまった。ユリカ、買い物に行くぞ」
アキラ様は今もなお三ピースほどのピザを束ねて持っていますが、片手に収まるうちは食事の範疇に入らないのでしょうか。どれほどの量を買うかも分かりませんが、恐らくボク一人では持ちきれない量になりそうなのは予想が難しくありません。
「買い物であれば自宅まで注文発送しますけれど……」
「なるほど、ユリカには人間らしい欲望という物がまだないのだな」
「申し訳ございません」
アキラ様はピザを食べるために口を動かしながら、ついでのようにボクと会話をしています。しかしながら目はこちらを向いているので、まるでピザが自動的に口へ運ばれているようで、その無駄のない動きはさながらピザを食べるプロであり、天才であると言えるかも知れません。
「いいか、お前は世界の英知を込めておれが作った超高性能のネロイドなのだ。もはや自分が人間になったつもりで考えればいい。人間は欲望にまみれている。ネットで注文出来るような物をわざわざ外で買う理由とは、どんな欲望が隠れていると思う」
咀嚼と同時に話しているのでとても聞き取りづらいですが、文章は正しく翻訳出来ていると思います。ですが、今もなお食欲を満たし続けているアキラ様がこれ以上に解消したいと願う欲望とは何でしょうか、ボクにはとても難しい問題です。
「散歩を兼ねたダイエットをして、健康な生活を送り生存確率を高める為でしょうか」
アキラ様は首を横に振りながら手と襟元についたピザのカスを払っています。その顔は機嫌良さそうに笑っています。
「いや、ユリカはおれの欲望を舐めている。これは自慢したいという欲望。つまり今からお前を見せびらかしに行くのだ!」
恥ずかしげもなく自らの欲望を披露するアキラ様は、人間である事そのものを楽しんでいるようでとても魅力的でした。
「さすが天才ですアキラ様、あまりの男らしさに憧れてしまいます」
「だあああっはっはっは!!! 自慢するぞ、自慢!!!」
アキラ様は身体をひるがえし、颯爽と部屋を出ました。外出の準備をするようですがボクは何をすればいいのでしょう。
正装について調べてみると、太っている方は濃い目のスーツを着ればスタイルを誤魔化せるとありましたが、アキラ様はそんな事も気にせずTシャツからTシャツへと着替えていました。四月というのはアキラ様からすれば、やや暑い季節なのかもしれません。
もしかするとボクも外出用に着替えるべきなのでしょうか。足元から全身まで順に見上げてみるとオルビア地方の民族衣装と比較的に類似しているようで、違いをしいてあげるとすれば、光沢が少なく落ち着いている点です。
むしろこれは外で着るのに適している服装であり、家でこのままいるのが不思議だったのでしょう。これもアキラ様の趣味だと思えば、好みの衣装という事ですから幸せである思えます。