外法
屋敷の主であるライオネルと秘書のグレイが1泊の予定で出かけた日の夜、花蓮はファーガソン伯爵の遣いであるイドラとともに、パターソン伯爵家の東館に足を踏み入れていた。侍女のラミが就寝中であるということを確認して二人は東館の地下へと向かう。
「ねえ、少しいいかしら? 」
花蓮が話しかけると、暗い階段の先でイドラが振り返った。彼の漆黒の肌が、闇に同化しているようにも見える。
「なんですか? 」
「先に、あなたにこれを渡しておくわ 」
斜め掛けのポシェットから一冊の古びた冊子を花蓮は取り出した。花蓮がライオネルに了承をとってちょっとした細工を施した…パターソン綱目である。
「お父様からは燃やすように言われたのだけど、これはあなたに預けるわ。あなたは、ここに何が記されているか知っているの? 」
「私はただの使用人です 」
イドラはじっと花蓮の瞳を覗き込んでいる。
「私はこれに目を通しました。お父様にとって何をすればいいのか、私は考えているの 」
イドラは、さっと花蓮の手からパターソン綱目を受け取る。
「あなたは、何を考えているのですか? 」
「あなた、気にならないの? お母様に本当に何があったのか 」
「…あなたは、あなたは…何だ…? 」
私?
私は花蓮。長い夢を見ている。
「ファーレンよ… 」
ひっそりとした声が闇の中に吸い込まれていく。
「イドラ、私に協力しなさい 」
空気が震えた。イドラが目を見張る。不思議な威圧感がイドラを襲っていた。
★
西館の一室に、大広間がある。
そこに仄かな灯りを持って入ったイドラが息をゆっくりと吐き出すのが気配でわかる。
暗い部屋に灯りを入れると、やがて目も慣れてくる。わらや、おが屑のような乾いた香りに加えて何かの薬品だろうか、鼻につんと来る消毒薬のような香りがする。
壁際には小さな壺や大きめの箱が横向きに整然と陳列している。事前に聞いているとはいえ、これを今から暴くという行為に若干の胸の高まりを花蓮は感じてしまう。
「あの箱、何が入っているのかしら。開けてみましょう 」
花蓮がゆっくり壁際に近づこうとするとイドラが手で静止した。
「私があけます。ファーレン様はここでお待ちください 」
花蓮は言われた通りその場で足を止め、イドラに任せることにした。彼はゆっくりと箱に近づくと箱の蓋に手をかけて中を開いた。
「何が入っているの? 」
花蓮の声にイドラは答えない。しびれを切らしたように花蓮はイドラの傍に近寄って箱の中を覗き込んだ。箱の中には、包帯でぐるぐると巻かれている物体が恭しく1体入っている。それは花蓮とそうは変わらない大きさで、上部の窪みを見るからに、人体であったことは間違いのない事実…と思われた。
つまり、木乃伊である。
花蓮は黙ってイドラを見る。彼はそっと箱の蓋をとじて、「これが、ここに置いてあることをご存知だったのですか? 」と花蓮に確認するように聞いた。
「知らなかったわ 」
「そうですか… 」
「これは、何なのかしら 」
「人の…遺体であると思われます 」
★
それは間違いではないだろう。
木乃伊というのは人の遺体が、死後に腐敗していくのよりも早く乾燥することによって出来上がる。
自然環境によって木乃伊が出来上がることは少ないので、ほとんどの木乃伊が人の手により作り上げられることになるのだが…。
先日ライオネルに聞かされたところによると、木乃伊作りは外法である。
パターソン綱目のほとんど後半部分は、木乃伊作りの方法と木乃伊の効用についての項目であり木乃伊を薬として扱っている。
そのことを聞いてもあまり花蓮が驚かないので、ライオネルも初めは恐る恐るといった風に説明していたのに、大胆に図解まで入れて説明に及んだ。
「本当に薬としての効用があるのですか? 」
「この綱目が編纂された時には、そのように信じられていたみたいで、当時の医者が身寄りのない人間が死ぬと遺体を引き取って木乃伊にしていたようだ。うちの祖先は木乃伊作りがとても巧くてね。当時の皇帝にも妙薬として献上するまでだった 」
「皇帝に?それは凄いですね 」
「パターソン家が皇帝に取り立てられるようになったのは、その時からなんだよ。当時の皇帝の腰痛と神経痛が、木乃伊の粉末で緩和されたらしい 」
「へえ… 」
「ここに、そのように書かれている 」
実際のパターソン綱目を見ながら、ライオネルが親切に説明をしてくれる。
話をしているライオネルは心底楽しそうである。
「このパターソン綱目というものは、そんなにも珍しいものなのですか?バルジー伯爵からはこれを手に入れて来いと言われました 」
「当時は貴重でもなんでもないものだったが、今ではそれなりに価値はあるかもしれないな。なんといっても、木乃伊作りは今では外法だし。木乃伊の粉末だって薬としての効用が本当にあるのかは疑問だ。それに結局、今の皇帝の曽祖父の代に木乃伊作りは禁止されて、木乃伊に関する書物は燃やされてしまったからねえ 」
「そうなのですか?では…このパターソン綱目というのは… 」
「あぁ、これはいいんだ。これはうちの父親が皇帝に貰ったものだから 」
「皇帝から…? 」
「皇帝の生母の持病快癒の褒美として、皇室図書館にあったこの綱目を譲られたらしい。父はいらないと拒否したらしいのだが、皇帝も父に対して「受け取らないのは何事か!」と言い出して押し問答になったのだそうだ。その時に皇室から古い木乃伊も押し付けられた。高僧の即身仏らしいのだが、よくわからない。西館に安置してある 」
「このことを知っている人間は少ないのですか? 」
「どうかな。当時、宮中に出入りしていた医者連中や貴族連中は知っているかもしれないね。バルジー伯爵が知っていても不思議ではないよ 」
「バルジー伯爵は…これを手に入れて、何がしたいのかしら… 」
木乃伊を作りたい?
「前半部分は今でも公に内容が公開されているし、簡単な薬草学の内容だからバルジー伯爵がそんなことを知りたがっているとは思えない。今から話す内容はあくまで僕の仮設なのだが…君には嫌な思いをさせるかもしれないんだ。それでもかまわない、というのであれば君に話す 」
「ここまで聞いておいて…知りたくないだなんて言えません 」
「君の身にも危険が及ぶかも… 」
「今までが安全だとでも?すでに危険には巻き込まれていると自分では認識しています 」
「それは、どういう… 」
花蓮は手短に自分が崖から母親に突き落とされたとするマリィの証言についてライオネルに告白した。
「何かおかしいとはずっと思っているのですが…一人では何もできません。私は無力です… 」
黙り込んだ花蓮の肩をそっとライオネルが抱く。暖かい手だな、と花蓮は感じた。
「君は、とても強い人だと思う。こんなところまで、やってきた 」
花蓮は上から覗き込むライオネルの瞳をじっと見る。ふいに視界が歪んで耳の奥で女性の声がはじけるように響いた。
『逃げて!逃げて!』
フラッシュバックするかのように、半狂乱になった女性…それは肖像画で見たことがあるアリスティアの姿だったが…彼女が花蓮を思い切り突き飛ばす映像であった。花蓮は抵抗することもできずにバランスを崩して身体を傾けていき…
「大丈夫?ファーレン? 」
覗き込んできたライオネルの腕を、花蓮は思い切り引っ張り込む。そうして、彼女はライオネルの胸にすっぽりと顔を埋めてしまった。
ライオネルは驚いたようだが花蓮のことを拒否しなかった。
ファーレン…あなたは本当に実の母親に崖から突き落とされたのね…。でも、突き落とされて落ちていく瞬間に、アリスティアの絶望するかのような顔を見たはずよ。本当に娘のことが憎くて突き落としたのならあんな顔はしないはず…。
「ファーレン、大丈夫? 」
「…えぇ…大丈夫です。さきほどの仮設というのを教えていただけますか? 」
ライオネルは、ファーレンを気遣う様にゆっくりと語り始めた。
★
木乃伊作りが外法として取り締まられるようになった経緯はこうだ。
最初は辺境の民草の間で民間伝承のようにして伝わっていた木乃伊の薬としての効用が、帝都にまでとどろく様になり、金を持つ商人や貴族たちがこぞって買い求めるようになった。
パターソンの先祖が皇帝に取り立てられたことが、このことを過熱させた。
商業的に木乃伊を作り出す必要に迫られ、各地のその道のものではない者たちが自分たちで木乃伊を作り出した。それは、外法と呼ぶのにふさわしい粗悪なものであったし法外な値段で取引されだした。やがて、『胎児の木乃伊が不死の望みを叶える』だとか、『心の臓のつまりは僧侶の木乃伊でやわらぐ』だとか眉唾の話まで出てくる始末。しかし、投機的といえるほどに木乃伊の市場取引は活発化していき…
やがて、木乃伊作りのための人身売買や墓を暴くような行為が多発。
そうしているうちに、高貴な身分の女性を攫う事件が起こるようになった。
彼女たちは攫われて、木乃伊にされた。生きたまま、地中深く埋められた女性がいて偶然助けられたことから判明した。
「もともとは薬としての効用を得るための行動だったのかもしれないが、そのうちに若くて美しい女性を狩るような輩が増えた…皇帝の妻の一人だった女性の妹が襲われる事件があったことから、事態を重く見た皇帝が勅命を出した 」
木乃伊を作ることを禁じる。
木乃伊に関するすべての書物を焚書とせよ。
「犯罪に関わったものは死罪となった。連座として死んだ者も多い。これは名簿として皇室図書館に保存されている 」
息を詰めるように聞いていた花蓮がそっと声を出した。
「そのことを今も知る方は少ないのですか 」
「国の中枢に関わるものや、高官の中には知っている者もいるね。我々のような医者も…まあ伝承としては知っている。そのほかの者たちは…まあ知らないだろう。400年ほど前のことだから 」
「バルジー伯爵は何を… 」
「彼は木乃伊を作るつもり…もしくはもう作ってしまったかもしれない。短いものなら数か月で完成するし…。それに 」
ここでライオネルが言い淀む。
「君にこんなことを言うべきかわからないのだが、バルジー伯爵は君の母親であるアリスティア様を木乃伊にするために阿芙蓉の中毒患者に仕立て上げたのではないか、と思う 」
なんですって?
「ファーガソン伯爵に聞いたところによると、君が産まれる前から頻繁にバルジー伯爵はファーガソン伯爵家に出入りしていた。君が産まれてからは忙しいファーガソン伯爵が家を空けている時に患者の容態を見るためという名目で。僕は、アリスティア様を診察したさいに、ファーガソン伯爵から話を聞いたのだが…なんというかバルジー伯爵の行動からは、かなり粘着質的なものを感じた 」
「お父様は…バルジーのことを…? 」
「わからない。君の話を聞いて、僕がたてた仮説にすぎない。ただ、ファーガソン伯爵はバルジー伯爵に対して、なにか思うところはあるようだった… 」
どうしたらいいの?
バルジー伯爵を問い詰めて話を聞くしかないだろう。でも、彼は素直に話すだろうか?話すわけがない。今、何の証拠も花蓮は持っていない。
では、バルジーを罠にかけたら?欲しがっているパターソン綱目をちらつかせれば、奴は乗ってくるかもしれない。
ここで、ふと花蓮は自分がライオネルの胸の中に収まっていることに気が付いた。そっと顔を上げてライオネルの表情を確認する。
「何? 」
ライオネルが花蓮を見下ろす。
「ううん…なんでもありません… 」
そのまま二人は、少しの間じっとその場を動かなかった。