ライオネルとの出会い
ライオネル・パターソンという男はごくごく平凡な男に見える。
薄い茶色の髪にとび色の瞳。身長は高くもなく、低いわけでもない。年齢はもうすぐ40歳。
しかし、薬の知識だけはこの国の誰にも負けないであろう。約3000種類の生薬の煎じ方を完璧にマスターしているし、己の畑で様々な薬草を育てていた。
はじめて薬草畑を父親から与えられたのは4歳の時で、すぐに両親が他界したせいで独自に書物から薬草の知識を得てきたのだ。
7歳の時に煎じた緑の茶(今では青海緑茶として都でも売り出されている)を皇帝に献上したところ、皇帝はいたくそれを気に入り、ライオネル自身も取り立てられることとなった。
伯爵家とは名乗ってはいるものの、屋敷は辺境の僻地にあるし使用人もほぼいないようなものだし、華美な暮らしもしていない。本人にはあまり貴族としての自覚はなかった。
しかし、皇帝お気に入りの薬師ということで名前は一人歩きしており、伯爵家や男爵家から見合いの催促がひっきりなしに来る。面倒なので「では、会うだけ… 」ということにして領地へと呼び寄せると、ほとんどの令嬢はそこで脱落していった。
なにぶん、都から遠い。遠すぎる。
途中まではまだよいが、高地なので酸素が薄くなると意識が朦朧としてきたり、山を越えると村がなかったりするので、用を足すのも青空の下ということもある。
屋敷にやっとの思いで到着したかと思えば、食生活は単調で畑仕事を手伝わせたりするので長居はできないのだ。
これは別に意地悪ではない。ここに嫁ぐのであれば、これは日常なのだから仕方がないのだ。我慢できないのであれば、早々に見切りをつけて実家に帰るべきだと思う。
ライオネルはそこまで伴侶を得たいという思いはなく、薬の研究さえ自由にできればいいというように思っている男であった。
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ライオネルの優秀な秘書であるグレイから連絡が入った。
今回も、令嬢たちは途中で脱落して帰った。秘書として送り込まれる予定の令嬢たちもほぼ脱落した。
ほぼ脱落。ということは、何人かは脱落していないということなのか。
顕微鏡のピントを合わせながら、ライオネルが呟く。
「珍しいこともある… 」
それに答えるのは彼の美しい秘書のグレイである。グレイはライオネルと年が近く、平民の生まれである。ライオネルが公募で秘書を募集している際に応募してきた男で、褐色の肌に黒い髪と赤い瞳を持っていた。珍しい容姿なのだがライオネルは気にせずに雇い、グレイの出自には触れていない。グレイも細かいことは何もライオネルに話さなかった。
だが、グレイは有能な男で世間に疎いライオネルの手足となってよく働いてくれている。
令嬢たちを厄介払いすることにも長けていた。
「先日馬車が二台通過しました。一台はロマン男爵家の馬車です。もう一台はファーガソン伯爵家の馬車ですね… 」
「ファーガソン伯爵… 」
ライオネルが一瞬意識をそらせた。
「ファーガソン伯爵家のお嬢さんは…社交界にも出てこない、か弱いお嬢様だと…聞いたことがあるけどな 」
「おや、ライオネル様もそれくらいはご存知なのですね。本当に不可解ですが、そのようですよ 」
「ふむ…。それは、なんというか 」
ライオネルは俯いて目を閉じた。
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なんというか、全体的にくすんでいる。白い壁はひなびて見えるし、蜘蛛の巣が窓にかかっているように感じられた。だが、屋敷の中には質素ではあるがベットもあるし、花蓮たちには個室も与えられている。
青海のパターソン伯爵家の屋敷は、そんなところだった。
ライオネル・パターソン伯爵家に今回秘書として招かれた(というか、送り込まれた)のは花蓮だけではなかった。とある男爵家の令嬢も沢山の侍従たちを引き連れてやってきた。花蓮には屋敷から連れて来た使用人は侍女のラミしかいなかったが、男爵令嬢は総勢20人という大所帯である。
これは、どうなることか…と思ったが彼女たちは花蓮が気がついた時には全員消えていなくなっていた。あまりにも急にいなくなったので、花蓮は何かこの世界には魔術でもあるのかと思ったほどである。
ラミ曰く「ライオネル伯爵に夜這いをかけようとして、秘書のグレイさんに咎められた拍子に焦って転び、床に顔を打ちつけたことで大ショックを受けてその日のうちに屋敷を出て行った」とのことだった。
そんな馬鹿な…と思ったが、手っ取り早く秘書は花蓮一人に絞られたのである。
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屋敷の住人は主人であるライオネル・パターソン伯爵と秘書のグレイ。そして近くの村から小間使いとして通ってくる少年のディレイが週に3日ほどは屋敷に宿泊していた。
その他には通いで、料理人や洗濯婦が村から日中だけ訪れる。
ここに、花蓮と侍女のラミが加わったが、屋敷が広いので日中も静かなものである。
花蓮は秘書としての仕事を申し付けられることもなく、もう5日もゴロゴロと部屋で怠惰に暮らしていた。
屋敷に到着した際に主人は「忙しい」という理由で挨拶にも訪れず、花蓮は秘書のグレイと挨拶を交わしたのみであった。
だが、ふと思いついて小さなポシェットを持つと近くの村へと歩いて向かった。もちろん侍女のラミも後ろから追いかける。
「どこへ行かれるのですか?ファーレン様… 」
「うん、ちょっと服を買おうかと思ってね 」
そうして、村に一つしかない服屋を訪ねて適当な服を何枚か見繕った。
店主からは「あんたみたいな人が、うちで買うような服は置いていないんだが…」と困惑されたが、お構いなしだ。
「実は私、青海のパターソン伯爵家で秘書として働くことになったのです。ですから、今着ているようなドレスですと職業婦人として何もできないと思って動きやすい服や靴を探しているの 」
こんな風にざっくばらんに話すと店主もたまたま居合わせた客たちも面白そうに話しかけてくる。
「なんだい、どっから来たんだい? 」
「ここから馬車で20日ほど離れたところよ。インダスという場所なの。ご存知かしら? 」
「あぁ、そこなら妹の旦那の妹が嫁いでいるから話には聞いたことあるよ。なんて言ったか…有名な刺繍があったね… 」
「そうなのよ!嬉しいわ。ご存知だなんて。私、侍女と二人だけでここに来たから少し心細くて、村の皆さんと仲良くできたら嬉しいですわ 」
そうしてにっこりと笑うと、小さな村なのでたちどころに噂になった。
『今度の令嬢は変わっている』
『ライオネルが新しい秘書を雇ったようだ』
『あの秘書と、今度こそパターソン伯爵は身を固めるのではないか?』
というものだ。
服屋の他にも小さな商店のようなところに顔を出して、果物を買ったり、貸本屋に出入りするようになった。
そうしていると、噂に尾ひれがついて
『ファーレン様が指に着けているリングはパターソン伯爵から送られた婚約の品である』
『二人の結婚は、もう間近である』
という話まで湧いて出てきた。
ちなみにリングはラミが持っていた私物であったが、それをファーレンが拝借して村人の前で思わせぶりに触ったりするものだから、嫌でも目についた。
(さあ、ここまでしたら…パターソン伯爵から接触してきてもおかしくないはずよ…)
花蓮の思惑通り、それからすぐに彼女はライオネルの私室へと呼ばれたのであった。
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どんな計算高い令嬢だろう、と思ってライオネルは私室に迎え入れのだが…このファーレンという娘はよほどの変人なのではなかろうか。
村で仕入れたシンプルな朝のシャツにひざ下の巻きスカートを身につけており、アクセサリーといえばシンプルなリング一つであった。
容姿も、健康的で美しく化粧はほぼしていない。侍女を一人伴ってはいるが、使用人としてというよりかは、対等な友人のように接していた。
ライオネルの私室には沢山の観葉植物・仕事に関する書物や研究道具などがごちゃごちゃと散乱しており足の踏み場もないような状態なのだが(これでも、小間使いのディレイが定期的に片づけてはくれている)ファーレンはそこに臆することなく入ってきて、美しく淑女の礼をとってみせた。
「秘書として参りました、ファーレン・ファーガソンです。よろしくご指導お願いします 」
そのファーレンの後ろから控えめな、だが芯のある声も聞こえる。
「侍女のラミでございます。よろしくお願いいたします 」
たった一人だけ連れて来た侍女だ。ややファーレンよりも年かさであろうか。目立つ容姿ではないが控えめで聡明そうに見えた。
室内の大きなソファには主であるライオネルと、ライオネルの秘書のグレイ。そして小間使いのディレイと屋敷に住み着いている狼犬のロボが座っており、ライオネルはそこにファーレン達も腰かけるように、と声を掛ける。
「あー、悪かったね。仕事が忙しくて今日まで君たちに声を掛けることができなかった 」
「いえ、こちらこそ。お忙しいとは伺っていましたので、村にでかけて楽しく過ごしておりましたわ 」
満面の笑みで答えたファーレンの目は笑っていないように感じられる。
そのおかげで、噂だけが先行して広まってしまっている。
「明日から仕事の手伝いを頼みたいと思っている。構わないかな? 」
「もちろん!そのために参りましたので。どのようなお仕事ですか? 」
身を乗り出してファーレンがライオネルに近づいたことで、ふわりと良い香りがした。思わずライオネルは彼女の顔を見る。彼女はライオネルの瞳をじっと見ていた。何か、落ち着かないような気分になり、ライオネルは瞳を逸らす。
「僕が調剤の傍らに行っている、新法薬品図録の第三版製本を手伝ってほしい。初版と第二版の相違点を洗い出して、間違いを見つける作業が必要になっているんだ。序盤の4分の1ほどは終わらせたんだが、量が多いからね。侍女さんと二人で…助けが必要ならディレイも力になるだろうから、やってくれないかな? 」
ファーレンは無言で頷くと視線をさ迷わせる。そして「いくつか質問があるのですが 」と発言をした。
「どうぞ、なんでも聞いて 」
「まず、それはいつまでに終わらせなければいけない仕事なのですか? 」
「期限?期限はない 」
「ない?期限がないのですか? 」
「そうだ。これは僕の趣味でやっているようなものだから、差し迫った仕事ではない。だが、このような図録というのは薬師にとっては大事なものだから間違いがあっては困る。初版と第二版の間にあまりにも相違点があるので、それを辿って、正しい形の第三版をつくろうと思っているんだ 」
「それなら…薬師見習いであるとか…知識のある薬師の方を集めて何人かで仕事を分担した方が作業はスムーズなのではないですか? 」
この令嬢は、なかなか頭がまわる。
「確かにそうだけど、僕はこの屋敷にあまり沢山の部外者を入れたくはないんだよ。中には信用できないものもいるから…ね 」
「そうなのですね…。差し出がましいことを言って申し訳ありません 」
「生意気だなんて思わないよ。他にも質問があったらどうぞ 」
ファーレンがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「なにか…辞書のようなものはありますか?その図録を読むにあたり、私は門外漢ですから、薬草のことが系統立てて説明されている資料があれば助かります 」
「君の言うとおりだ。すぐに準備するよ。簡単なものならこの部屋と、屋敷の東館にある図書館に置いてあるからね 」
「そうなのですか。それなら、早速取り掛からせていただきます 」
ファーレンはにっこりと笑ってライオネルに頭を下げた。
髪がすべるように動き、彼女のうなじが覗いている。
「図書室の場所はディレイに教えてもらって。わからないことがあれば、僕や、秘書のグレイに相談してくれて構わないよ。勝手な判断で仕事を進めることだけはしないで欲しい 」
「わかりました。なるべく早く仕事に慣れて、ライオネル様のお役に立ちたいと思っておりますので… 」
笑顔のままファーレンはソファから立ち上がった。そうして、小間使いのディレイに声を掛けた。
「私、あなたのご両親と村で何度か会話をしたのよ。優秀な息子さんが侯爵家で小間使いをしているんだって誇らしげでしたわ。あなたはお母様似なのですね 」
ディレイは急に伯爵家の令嬢から声を掛けられたので焦って立ち上がった。
「父と母に会われたのですか? 」
「えぇ、育てているチェリーを分けてもらったの。とっても美味しかった 」
「そうなのですか… 」
「手術に使うための、大切な薬品を抽出することができる植物も栽培されているんですってね 」
ディレイはまさか両親が花蓮と接触しているだなんて思っていなかったのであろう。
ディレイを見て、ファーレンは微笑みかける。
ディレイが照れたようにはにかんで、ファーレンと侍女を伴って部屋を退出していく。
そして、そんな3人の後ろから狼犬のロボも後を追う様に出て行ってしまった。
部屋に残された秘書のグレイが訝し気にライオネルを見やる。
「変わった女だな…。学校にも行っていないと聞くが、とてもそんな風には見えない 」
「うーん…それにロボも懐いてしまいそうに見えるからなあ…。ロボが認めるのなら、僕はそれでもかまわないけど… 」
「おいおい、そうは言っても彼女はあのファーガソン伯爵の娘だぞ。ファーガソンの屋敷にはあのバルジー・ランド伯爵も出入りしているし。どう考えても、お前の一族の…謎を探ろうとしているんじゃないのか? 」
「そうかもしれないなぁ… 」
自分のことにあまりにも無頓着なライオネルに、グレイがとびかかった。
「お前な!そんなことを言っているから、領地だっていつの間にか帝都に近いところはバルジーの一族に取られちまったんだろうが! 」
「でも、薬草を作るのにも研究するのにも、ここのほうが便利だからね… 」
「そういう問題じゃないだろうが! 」
グレイがライオネルのために怒ってくれることをライオネルは嬉しく思っていた。
僕はよい秘書に恵まれている。
そうして、新しく屋敷にやってきたファーレンという女性にも興味を持っている。
快活そうで、理知的な、だがどこか神秘的な…謎を持っているように見えたのだ。