逃げる
広いとは決して言えないが、清潔なリネンのベットに花蓮の黒く染めた髪が広がっている。そして、その花蓮を押しつぶさないように…とイドラが彼女の身体に軽く体重をかけて見下ろしていた。
「私の話、全部信じられる? 」
さきほどファーレンから告げられた話を順序だててイドラに話した。
自分はファーレン・ファーガソン伯爵令嬢の肉体に入り込んだ日本生まれの32歳。どこをどうひっくり返しても箱入りのお嬢様だなんてありえない。何の因果か異世界のお嬢様の肉体に呼ばれて…呼ばれなかったらそのまま死んでいたらしいけれど…、元の肉体も焼却されてしまったので、日本に戻ることは叶わないだろう。
つまり、このままこの体で生活しなければいけないか、もしくはまた何かのアクシデントがあればこの体から追い出されてしまうかもしれない。
「あなたがそうだと言うのなら、そうなんだろうと思う。少なくとも、あなたがファーレン・ファーガソン伯爵令嬢ではないという俺の認識は間違っていなかったということだ 」
花蓮は右腕を上げるとイドラの前髪をそっと持ち上げる。
「悪かったわね。お嬢様じゃなくて 」
イドラが花蓮の右腕をそっと逸らし、その首筋にキスを落とした。
「ちゃんと協力してくれるわよね 」
「協力はする、が 」
「が? 」
「それは俺でいいのか? 」
「どういうこと? 」
イドラが花蓮を見下ろして頬を撫でる。
「ライオネル・パターソンには真実を伝えないのか?あなたのことを待っている 」
ライオネルの安心できる暖かい手のぬくもりや、彼の胸の中で感じた安心感。
「頼ったら助けてくれそうだけど、なんか嫌なの。そういうの。あの人のこと利用しちゃいそうな気がする 」
「俺のことは利用してもいいのか? 」
花蓮はイドラを挑発的に見上げる。
「自分で言うのはなんだけど、捨て鉢になってるのかも 」
「無理矢理にやるというのは俺の主義に反するのだが… 」
ぽつりと呟くイドラに花蓮は笑いかけた。
「無理矢理なんかじゃないよ。あー、しかも私初めてじゃないし。この体だと初めてかもしんないけどさ。ちょっと久しぶりだから、優しくしてくれたら助かるけど 」
「しかし 」
「しかしも何某もないってば…。男の人に抱きしめてもらいたい時もあるってこと。協力してくれるって言ったんだから、ちゃんと全部まとめて協力してよ 」
イドラの瞳がぐっと花蓮の顔に近づいてきた。花蓮はそっと目を閉じる。
全部、今だけでいいから…忘れさせてくれるかな。この人なら。
人として最低の行為かもしれない。しかもファーレンの肉体なのに、簡単に男に差し出してしまうような真似をして。
「やめておくか? 」
イドラの吐息が耳元にかかってくすぐったい。やめなくてもいい。花蓮はそのままぐっと力をこめて瞼をあけた。
★
朝起きると、褐色の肌の男がいた。声を出さずに驚いて、花蓮はまじまじと彼の寝顔を見てから己の身体をちらりと見る。
(やっちゃった…)
えーと、何年ぶりだろう。7年ぶりに男の人とこういうことをしたかな。こんなことでもなかったら、まさか花蓮が自分から男を誘うだなんてこと、なかったかもしれない。
そそくさと散らかった下着とドレスを身にまとい花蓮はイドラの部屋から出た。
出たのだが…、ドアを開けた瞬間にそこにファーレンが立っていたものだから驚いて声を出してしまった。しかも、自分の姿を屋敷の者に見られないためなのかシーツで身体をぐるぐる巻きにしているので異様な見た目である。
「わっ…!」
「花蓮さん…男の方と同衾されたのですか…? 」
「ど、どうきん…。そうね、しましたね…。いや、ほんとごめん 」
「なぜ、謝るのです? 」
「は? 」
ファーレンは嬉しそうに弾んだ声をしている。
「花蓮さん、7年ぶりではないですか?お友達と温泉で『もう、このまま二度と男の人とは同衾できないかも~』って嘆いてらっしゃったじゃないですか! 」
「ちょっと、あんた、声がでかい! 」
「きゃっ!」
はしゃいでいるファーレンの身体を、出て来たばかりのイドラの部屋に花蓮は再度引っ張り込んだ。ファーレンは花蓮の腕の中で嬉しそうに笑っている。
「あのね、まだ寝てる人いるから、静かにしてくれる? 」
「イドラさんなら、もう起床されていますよ? 」
はい?と後ろを見ると、すでに身支度を済ませたイドラが壁にもたれて立っているではないか。
「あ、あら。おはよう… 」
「おはよう、花蓮 」
素っ気ないイドラの様子。何もなかったような態度だが、花蓮のことを「花蓮」と呼んだ。
イドラと花蓮を見比べてファーレンが ふふふっと笑う。花蓮は、少し気恥ずかしい気もして視線をさ迷わせた。
「ファーレン、寝てなくていいの? 」
「大丈夫です!むしろ、動いていないと肉体に魂が定着できなくて流れてしまう可能性もあるみたいで 」
「そうなんだ… 」
笑っているファーレンの艶やかな髪を花蓮が優しくすいてやると、ファーレンは花蓮の腕に自らの腕を絡める。
「もうすぐ、ここにお父様もいらっしゃいます!そうしたら、ちゃんとこれからのことを話しあいましょう! 」
この言葉に花蓮はぎょっとする。
ファーガソン伯爵がここに来る?
「な、なんでここに!? 」
「いけませんでしたか?花蓮様の魂のことを、先ほど戻られたばかりのお父様に報告したら、ぜひ話をしたいと言われたんですけど… 」
「わ、私のこと話したの? 」
「話しました… 」
そうなんだ。どうやって報告すればいいものかと迷っていたのに、まさかの…もうばれてるんだ。娘だと偽ってファーガソン伯爵と接していたから、これは大変お怒りになっているかも…。
「お父様は…話せばわかってくださる方ですよ?花蓮さんのことも、心配しています 」
「ありがとう、ファーレン 」
ファーレンが励ますように花蓮の背をそっと抱きしめた。
★
イドラの部屋に、かつて他人が入ったことなどなかったのに、急に3人の訪問客を迎えることになってしまった。花蓮とファーレンはベットに腰かけ、イドラとファーガソン伯爵は簡単な木の椅子に腰かけている。
早朝、屋敷に戻ったファーガソン伯爵はアリスティアの肉体のなかに宿るのがファーレンだということを本人から知らされたそうだ。彼は驚かなかった。
そうして、ファーレンの肉体に宿っている魂が誰のものなのか教えて欲しいと娘に頼み、花蓮の存在を知らされた。花蓮はファーガソン伯爵から「巻き込んですまない」と頭を下げられてしまった。
「謝らないでください。びっくりはしていますが、あなたたちのせいだとは思っていません 」
「そんな風に言う必要はない。急にここに呼ばれてきて、不安だっただろう。本当に心細かっただろうとも思う。我々ができることであれば償いをさせて欲しい 」
ファーガソン伯爵は今までの冷たかった様子はなんだったのかというほどマイルドな印象になってしまった。
ファーレンの腰を抱き寄せて、本当に仲の良い父と娘に見えた。
「償い…ですか。まあ、当面の生活費とか生活場所を見つけていただければ…とは思いますけど。それと、あの、少し協力していただきたいこともあって 」
そう伝えると、ファーガソン伯爵がきらりと目を光らせた。
「協力とは…? 内容次第だが 」
「バルジー伯爵のことです!あの人、アリスティアが蘇ったということを大々的に触れ回るつもりですよね?そうなる前に、ちゃんとこの(入れ替わり)を完璧に済ませておく必要があります 」
きっぱりと言い切った花蓮にファーガソン伯爵は首を縦に振った。
★
ライオネル・パターソンはロボと二人でホテルに滞在していた。二日ほどで戻ってくるであろうと思っていた花蓮からは音沙汰なく、4日目の朝にホテルに顔を出したのはファーガソン伯爵であった。
彼は、その手に『パターソン綱目』を持っていた。
「悪かったね。娘にこれを持ちだすように言ったのは父親である私だ。返すよ 」
そのパターソン綱目を受け取って、ライオネルはファーガソン伯爵に椅子を勧めた。部屋の中を落ち着きなくロボがうろついている。
「久しぶりだね。ライオネル 」
「お久しぶりです、ファーガソン伯爵 」
ファーガソン伯爵は勧められた椅子に深く腰掛けた。
「我々が外法に手を出しているということに気が付いていて、これを娘に渡したね。君に迷惑をかけた。すまない 」
ファーガソン伯爵は以前会ったときとはがらりと印象が変わっていたので、面と向かって頭を下げられたライオネルは驚いていた。こんな人物だったか?
「以前、妻のことで屋敷に足を運んでもらった際にも、悪いことをしたと思っている 」
「奥様のことは…大変残念なことだったと思いますよ… 」
ライオネルの言葉にファーガソン伯爵が声もなく笑った。
「私の心の弱さが招いた結果だよ。随分ここまで、過ちを繰り返してきた。妻のためなら、何だってしようと思っていた 」
ライオネルは黙ってファーガソン伯爵を見つめる。どういうつもりだ。何のためにここに一人でやって来た?
「君はまだ結婚もしていないし、子もいないね… 」
不意に質問されてライオネルは面食らった。
「えぇ、そうですね 」
頷いたライオネルの正面でファーガソン伯爵は一人静かに語りだした。
「私は、ここ数年ずっと娘のことはほったらかしだった。ずっと、妻にとって何をなすべきかを考えてきた。二人を引き離すことこそが一番だと思ってもいた。
だが、これからは娘との距離を埋めていくべきだと思っている。それが、妻への供養にもなると思っている 」
どういうことだ?木乃伊の復活はやはり成功しなかったのか?
ライオネルは探るようにファーガソン伯爵の表情を探る。
「妻の一族に伝わる力を憎んでいたが…あの能力がなければ私はファーレンと向き合うこともかなわなかった。君には本当に迷惑をかけた。娘からも、礼を伝えて欲しいとことづけられている 」
「伯爵、あの…ファーレンはどこに 」
「あの子なら屋敷にいる。君の秘書は辞めさせて欲しいということだ。これからは普通の令嬢らしく、学校に通わせたり社交界に顔を出させようとも思っているんだ。侍女のラミも青海からここに戻ってきてもらいたい 」
「それは…彼女の、ファーレンの意思なのですか 」
「どういう意味だい? 」
「父親のところには戻らないつもりだと…聞いていました 」
ファーガソン伯爵は柔らかい笑みを浮かべると、椅子から立ち上がり身を翻した。
「娘は素直じゃないところがある。また機会があれば会うこともあうだろう 」
そうしてライオネルとロボに会釈すると彼は颯爽と立ち上がり、出て行ってしまったのだった。
呆然とファーガソン伯爵の後姿を見送ったライオネルは思わず手に持っていたパターソン綱目を床へと投げつけていた。
(なんなんだ?何があった?彼女は危険な目にあっているんじゃないのか?)
あの時の、彼女の温もりは夢ではなかったはずだ。どうしたらいいんだ?
こういう時は、屋敷の研究室で植物を乾燥させて薬を調合して…辞書を調べて…たまっている仕事を片付けて…いや、それじゃあ意味ないだろ。とりあえず、ファーレンに会うために屋敷に一度訪問するべきではないのか?
どうする。どうするのが一番いいんだ?
急に走った足の痛みにライオネルは眉をひそめて足元を見た。ふくらはぎの部分にロボが嚙みついている。
「お、おい…お前… 」
ぐるぐる…と喉を鳴らしたロボが軽い身のこなしでベットの上に飛び乗った。そして、その口を開いた。
「しっかりしろ、ライオネル。まだフラれたわけじゃないぞ 」
しわがれた声だが、その声は間違いなく狼犬であるロボの口から出てきたものだ。ライオネルは驚いた様子もなく顔だけをロボの方に傾ける。
「どうすればいいと思います? 」
「ふん、たまには自分から女を追いかけてみろ 」
たまには、か。
そうはいっても一度だって女を自分から追いかけたことがない。昔から女への欲がそこまで強くなく、薬にかける情熱や興味の方が勝っていた。
今回だって、彼女がライオネルに気があるそぶりを見せたことなんて一度もないような気がする。
一人考え込んでいる彼のふくらはぎをもう一度鈍痛が襲った。先ほどよりも痛みが重たい。
「お、おい。ロボ…。やめてくれ… 」
「はっきりしろ、どうするんだ。追いかけるのか、追いかけないのか 」
「お、追いかけるよ…とりあえず追いかけてみる…! 」
ライオネルは息をつくと、よし!と気合を入れて身支度を始めた。
「駄目だったときは、ロボが骨を拾ってくれよ… 」
くぅーん、とわざとらしいほどに殊勝な声を出してロボが鳴く。
窓から見える空は、嫌になるほど青かった。




