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カノプスの壺  作者: 二上恵美
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花蓮とファーレン

意識が浮上してくるにつれて、花蓮は身体の重みと重力を感じていた。瞼を持ち上げることができない。指を動かすことでさえ億劫。それでも、光を感じる。

今度はゆっくりと試してみた。背中がきしむような音がして腰が痛む。そうして、ゆっくりと瞼を開くと、ぼんやりとした景色が広がっていた。


ふいに、何かが転がる音が響く。


「お、お嬢様…目がっ…! 」


女性の震える声が聞こえて、バタバタと床を踏み鳴らすような音だけが響く。ゆっくりと首をそちらにまわして状況を確認しようとするがそれすらも痛みによって阻まれ、花蓮の意識はまたどっぷりと沈んでいった。



どういうことなんだろう…。

座椅子の上に座らされて白湯を飲まされながら、花蓮は自分の叔母であるという女性からかいがいしく世話を受けていた。

叔母の名前はマリィ・ファガーソン。ブルネットの美しい髪と澄んだグレーの瞳を持つ美しい未亡人。その彼女から手鏡を渡された花蓮は力なく唇を動かす。


「これ、私…? 」


花蓮は、信じられない思いでぽつりと呟いていた。

鏡の中の少女は十代後半であろうか。艶のないブルネットの髪と、乾いた唇。翡翠の瞳は輝きが暗い。しかし、己はこのような容姿ではないはずであった。


おかしい。


これは夢なの?


そう問いかけようかとしたところで、マリィが花蓮の手から手鏡を取り上げると思い切り強く彼女を抱きしめた。


「あぁ…、ファーレン!あなた、声を取り戻したのね…。あなた…あなた…あぁ 」


嗚咽がマリィの口から漏れ、その大きな瞳からは涙が溢れだす。

それを見ていた侍女たちも薄っすらと涙を浮かべている。

花蓮はどうすることもできずに、ただマリィに抱きしめられていた。


(この夢はいつ覚めるのであろうか)


花蓮はぼんやりとただ、なすがままになっていた。


屋敷は大きかった。

そして、夢は覚めなかった。


彼女の名前はファーレン・ファーガソン伯爵令嬢。ファーガソン伯爵の一人娘。

母親は半年前に亡くなっており、屋敷には父である伯爵と、伯爵の妹のマリィと使用人たちと暮らしている。

普通であれば寄宿舎のある学校に通っていてもおかしくはないのだが、幼いころから吃音で悩んでおり、いつの間にか声をまったく発することができなくなったので屋敷の使用人や家族とも筆談で意思の疎通をはかっていたらしい。

彼女は半年前に屋敷の裏にある崖から転落して頭を強く打ち、意識を失った。それから先日まで寝たきりであったらしい。

そのせいで、身体を動かそうとしても関節が上手く動かず背中や腰に鈍く重たい痛みが走った。健康な生活を取り戻すためには、食事やリハビリに集中して取り組む必要があった。

花蓮がベッドから出たくてうずうずしていると、マリィが医者だと名乗る男をつれて来た。


彼は、ファーレンの父であるファーガソン伯爵の友人であるとのことで、優秀な医師・薬師であるとのことであった。


「こんにちは…あの 」


彼になんと声をかけてもいいのか戸惑っている花蓮にマリィが助け舟を出す。


「バルジー様よ。バルジー・ランド伯爵様。何回かファーレンも会ったことあるでしょう。あなたのお母様の主治医もされていたのだから 」


「ごめんなさい。ずっと寝ていたものだから、頭の中がぼんやりしていて…もう少ししたら皆さんのことも思い出せると思うの。その、すぐにお名前が出てこないものだから… 」


そう言い訳すると、バルジー伯爵はうっすらと笑う。


「えぇ、えぇ、そうですとも。しかし、ファーレン様はこのように美しい声をされていたのですね。これからもっと元気になられるのかと思うと、楽しみですよ 」

「そんな…。美しいだなんて… 」


恥じ入るように花蓮は俯くが、本当はそんなこともなく言われ慣れない誉め言葉に背中がゾワゾワするのを感じていた。


(なんだか、この人裏があるんじゃないかしら~)


バルジー伯爵の薄いグレーの瞳はまったく笑っていないのだ。マリィは彼のことを信頼しているようであったが、花蓮としては『医師と患者として』距離感を心掛けた関係性を保とうと心に誓ったのであった。



それから約1年のリハビリで花蓮の体調はかなり良くなった。体重も増えたし、身体の肉付きも良くなり、肌艶もよくなり…もうどこに出てもおかしくないご令嬢、である。

屋敷中の人間から「事故が起きる前よりも、溌剌としていらっしゃる」と言われるものだから、意識して少し大人しく振舞っているのだが「これが本当のお嬢様の姿だったのですね…」と侍女たちから涙ぐまれると非常に心苦しい。

しかも、叔母であるマリィはここ最近では花蓮にある種の疑惑を抱いているようで、二人きりになると度々『あの日のことを思い出したかしら?』と探るような目つきで問いかけられるようになった。


「あの日のことって…?私が、事故にあった日のことでしょうか? 」

「そうよ、あの日…あなたが足を滑らせて崖から落ちた日のこと… 」


マリィは何かを知っている。


ファーレンはただの事故で崖から転落したわけではないのだろう。バルジー伯爵から、崖から転落したファーレンの第一発見者はマリィであると聞かされてから、花蓮は確信を持っていた。



そして、もう一つ不可解なことがある。

ファーレンの父親であるというイライアス・ファーガソン伯爵その人である。

意識を取り戻したファーレンの元に1年も顔を見せなかった。皇帝の元で国政を担う、重要な任務に就いているということであったが、娘になんの感慨も持たないのであろうか。手紙も言付けもないため、花蓮はファーレンには両親はいないのであろうとさえ思っていた。



花蓮がファーレンとして暮らし始めて1年と少し、いないと思っていた父が屋敷へと帰ってきた。屋敷中が上へ下への大騒ぎである。花蓮も髪を結われて化粧を施されて、美しい黄色のドレスで身を飾り、玄関で父親を迎えた。


「お父様、お久しぶりでございます 」

「あぁ…久しぶり 」


父であるファーガソン伯爵はマリィと同じブルネットの髪に、薄いグレーーの瞳であった。深いしわが眉間にあり、気難しい印象を与える。


(もうちょっと、感動的な再会になると思ったんだけど助かったわ)


花蓮としては父親から色々と話しかけられてはボロが出てしまう可能性があったために、胸をなでおろした。ただ、普通の親子関係でないことは確かである。

屋敷中のだれもが言い淀んでいたが、ファーガソン伯爵とファーレンは仲の良い親子ではなかったらしい。

色々な侍女や侍従たちからそれとなく聞き出したところによると、


「ファーレンの母親であるアリステルは、ファーガソン伯爵とは身分の違いがあったものの、激しい恋に落ちて結婚した」


「アリステルは娘の子育てに悩んでおり、仕事で忙しいファーガソン伯爵とはすれ違いの生活を送っていた」


「精神的に錯乱したアリステルは毒を煽ってなくなったが、妻の死の原因を夫であるファーガソン伯爵は娘に結び付けて考えている」


ということであった。


(なるほどね。アリステルは慣れない侯爵家の生活に心身疲れ果てた挙句に、夫にも相談できずに産後鬱になった…というところかしら?子供は一人しかいないようだから、このままだと跡を継ぐのは娘のファーレンしかいない。それなのにファーレンの状態は思わしくないし。でも、毒を飲んだというのは物騒ね…。そんなものが、簡単に手に入れられるものなのかしら?これは、何かあるわね)


暇を持て余していた花蓮は、最近ではこの『長い夢』を楽しみつつあった。

こうなったら、アリステルの死の真相を探ってもいいし、いっそのこと学校にでも入れさせてくれないかしら。


この時の花蓮は、のんきなものであった。



ファーガソン伯爵に呼び出されて花蓮は彼の私室へと入った。壁に、ほっそりとした柳腰の黒髪の女性の肖像画が飾られており、一目見てそれがファーレンの母親であるアリステルであるということが花蓮にはわかった。

ファーレンのことはともかく、ファーガソン伯爵は妻のことを深く愛しているのだろう。


ここに呼ばれたのは花蓮だけではなかった。ファーガソン伯爵の妹のマリィと医師のバルジーも同席していた。

マリィはやけに張り切っており、花蓮の耳元で「きっと、いい縁談が見つかったのだわ! 」と浮かれた様子であった。


縁談か…。それもいいかもね。


花蓮は、この夢を見るまでの生活を振り返っていた。

日本という国に生まれて、ごくごく平凡に暮らしてきた。大学を卒業してからは都心の商社で事務職に就いており、付き合っている特定の男性もいなかった。学生時代の女友達とは定期的に会って飲み歩いたり旅行に出かけたりしていた。

とりあえず、今が楽しいから細かいことは考えなくてもいいやーといった風な生活を送っていたのだ。

そんな花蓮も結婚。

ご令嬢なんだから、お金に困ることはないだろう。さて、どのような縁談であろうか。少し身を乗り出したところでファーガソン伯爵はとんでもないことを彼女に告げたのであった。



「今すぐ荷物をまとめて屋敷を出ろ。辺境にある、ライオネル・パターソンの屋敷へと向かえ。お前にはそこでやらなければいけないことがある 」

「ライオネル…? 」


マリィがとがった悲鳴を上げる。


「なぜっ!お兄様はそのようなことをファーレンに命令するのですかっ。いきなりあのような辺境にこの娘を送るだなんて! 」

「うるさい。マリィ、お前は私の恩情でここに置いてやっているのだ。わかっているだろうな 」


マリィの顔が引きつっている。これは、そんなに酷い話なのであろうか?


「お父様。私はそこで何をなせばいいのでしょうか? 」

「これはこれは、賢いお嬢様だ 」


バルジー伯爵が面白そうに笑う。


「お前の役目だが、ライオネル・パターソンの手元にあるパターソン綱目を奪ってくるのだ 」

「パターソン綱目?なんでしょうか、それは 」


綱目というくらいなので、何かの一覧か図鑑のようなものであろうか。

眉をひそめた私にバルジー伯爵が語り掛ける。


「ライオネル・パターソンのことは知っているだろう。皇帝に薬や茶を納める薬師の一人だ。私と同じく伯爵家に連なるもので、何世代か前までは同じ一族であった者だ 」


知らない話ではあるが、ここでは一応曖昧に頷いておく。


「君のお母さんに毒を渡して、自殺するように仕向けたのはパターソンなのだよ。アリスティア様の気持ちを落ち着ける薬を処方して欲しいと君の父上が頼んだのにかかわらず、奴はこのようなものを渡したのだ。

彼女が死んだとき、枕元にはこれがあった。我々は、彼に罰を与えなければいけない 」

「罰する…のですか? 」

「そうだ 」


バルジー伯爵が自信満々に頷く。


「彼は皇帝からの信もあつく、まさか人を殺したなどど我々が言っても誰も信じないであろう。だが、証拠があれば違う。それが、彼の持つパターソン綱目なのだよ。その綱目の中に、アリスティアの飲んだ毒の成分が載っているはずなのだ。それさえ手に入れば、奴の犯行であるということが確実に断定できるだろうさ。

これを見るのだ。これがアリスティアの枕元にあったものだ 」


それは白い…懐紙のようなもので折り目がついて皺がついていたが花蓮が手に取って匂いを嗅ぐと、ほんのりと生薬のような香りがする。


これがアリスティアが飲んだ毒?

パターソンがアリスティアと接触して手渡したのか?

こんな稚拙な、どこか端折ったような説明で私が納得できるとでも思っているの?

考えを巡らせながら花蓮はファーガソン伯爵の顔とマリィの顔を交互に眺めた。


ファーガソン伯爵が無表情のまま告げた。


「お前がやらない、というのであればマリィを隣国ドルファンのマサライ・カンという男に送る 」


はっとマリィが息を詰める。


マサライ・カンという男なら知っている。ここ最近よく話を聞く。

隣国ドルファンの王の首を打ち取り、新しい王と名乗っている商人である。その男の後宮にでもマリィを送ると、そういうことなのであろうか。

花蓮を脅しているのだ。

この屋敷で、花蓮に肉親として接してくれるたった一人の女性。マリィの顔をそっと見ると彼女は吸い込まれそうな声を出した。


「だ、だめよ。それでも、そんなことをファーレンにさせるなんて 」

「だったら、お前は明日にでも隣国へと旅立て。マサライという男は気に入らない人間は男でも女でも首を刎ねて城壁に飾るような野蛮な男だそうだからな。お前はもう二度と祖国の地を踏むことはないだろう 」


この男は、なぜ実の妹にこんなことを言えるのか。

花蓮はさっと右手を上に挙げた。


「お待ちください。私はやらないとは言っておりません。ぜひやらせていただきたいと思います 」

「ほお…」


バルジー伯爵が面白そうにファーレンの瞳をのぞき込む。


「簡単な役目ではないよ 」


「それはわかっています。しかし、お母様を殺した男とだというのであれば、私がやらずして誰がやるというのでしょう。かならず、成し遂げます。その、綱目とやらを手に入れてみせますわ 」


「ファーレン!何を言うの!そのような危ない目にあなたをあわせられないわ! 」


マリィがファーガソン伯爵の腕に取りすがる。


「お兄様、やめて。このようなことを娘にさせるだなんて、何をお考えなのですか! 」

「叔母様、お父様も苦しいのですわ…。お心のうちをわかってあげてください 」

「ファーレン! 」


マリィの身体を花蓮は優しく支える。


「少しお父様と二人でお話ししたいから、外に出てくださる? 」


そうして花蓮は、父という存在と二人で話すことになった。



「話とは?」

「叔母様のことです。しっかりとした嫁ぎ先を見つけて差し上げてください 」


不可解だという顔をファーガソン伯爵が見せる。


「もし、私が任務に失敗してこのことが公になれば…私はお父様に命令されたとは決して口にはしませんが…いろいろと噂は流れるでしょう。そうなる前に、叔母様はどこかに嫁がせてあげて欲しいのです。まだ若くてお美しいですから、相手はすぐにでも見つかるのでは? 」


このままここにいても、マリィはずっと兄に利用され続けるかもしれない。花蓮はそのような懸念を持っていた。


「ふん、お前が口を出すようなことではない。しかし、考えておいてもいいだろう 」

「ありがとうございます 」


頭を下げた花蓮にファーガソン伯爵はことさら冷たい声で告げる。


「先ほどのパターソン綱目の話だがな、あれは手に入れたらすぐに燃やせ 」

「は? 」

「手に入れたら燃やすのだ。ここには持ち帰るな 」


はて、それでいいのか?


「バルジー伯爵はそれで納得されるのですか? 」

「あいつのことなど、どうでもいい。私にとっては綱目などどうでもいい 」

「ですが、お母様を殺した証拠になるのであれば… 」


ぞっとするような冷えた瞳。彼は、妻の肖像画を見つめていた。


「もういないのだ。そのようなものを…手に入れてなんになる…」


ファーガソン伯爵が急に大きな声を出す。しわがれた恐ろしい声を。


花蓮の耳に恐ろしいほどにこびりつく声であった。



つまるところ、綱目を欲しがっているのは医師であるバルジー伯爵なのであろう。同じ医師として、そこには何か大事なことが記されているのかもしれない。

バルジー伯爵とファーガソン伯爵の目的は表向き一致しているので、今回のようなことになったのだろうか。


しかし、花蓮としては仇を討つだとか、綱目を燃やすだとか、物騒な話である。仕事であればお断りしているレベルの話だ。しかし、現実味もないので、軽い気持ちで引き受けてしまった。


さて、どうなることやら…。


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