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第一章

 伊織は息を潜めていた。

 厠に忍び込んでどれほど経っただろうか。二時間か、三時間か。はたまたまだ一時間も経ってないかもしれない。こんなことなら鉄工所に勤める親父の懐中時計を拝借してくればよかった。僅かな後悔の念は夜のぞくぞくとした寒さの前にぱっと霧散する。

 暦の上では春らしいが、二月の空気はやはり肌寒い。真夜中ともなれば尚更で、せめてもっと暖かい外套を羽織ってくればよかった、と悔恨は更に募る。

 ああ、後悔だらけだ。

 いつかこの日が来ることは分かっていたし、伊織自身今日という日が訪れることを切望していた。

 周りが奉公のため村を出て行く中、頑ななまでに村に残り、ひたすら身体を鍛え上げた。

 何のため?

 今日という日のためだ。

 四年に一度の閏日。

 神隠しの日。

 体中に熱い血液がどくどくとうねりを打っているのを感じる。生命の鼓動。身体の奥深くから伊織を叱咤激励する、静かでありながら激しい声だ。活力がみなぎってくるのを沸々と感じる。

 そして、雑念を打ち払う。

 後悔しても、もう遅い。

 今、やるべきことを為す。ただそれだけだ。

 今は、この萎びた厠から母屋が捕捉できればそれでいい。

 それでいいんだ。


  ◆◆◆◆◆


 息も漏らさぬ必死の形相で草壁音吉は半紙に筆を一文字に振り抜いた。

「草壁 一」

 半紙をこれ見ようがしに墨字が占有している。決して綺麗な字とは言えず、むしろ荒々しさすら感じられる堂々とした字だったが、半紙を見つめる音吉の恍惚とした顔は、大仕事をやりとげた宮大工のようだった。

「おっとう、おっとう。これなんて読むの? いち?」

 まだ幼い子供が尋ねる。音吉の息子、忠美だ。

「これはなぁ、『はじめ』とか『かつ』って読むんだ。タダの弟か妹の名前だ」

「ふーん?」

 忠美は興味津々に半紙を掲げて縁側に出た。墨字越しに太陽を見る。一の字から少し余った墨が垂れる。

「あー、こらこら、せっかく精魂込めて書いたんだから汚すんじゃないぞ。それよりほら、手を合わせて。おっかあとまだ見ぬ弟か妹の無事を祈ろうや」

「うん!」


   ◆◆◆◆◆


 その日、草壁伊織は終業のベルが鳴るのを今か今かと待ち望んでいた。

 おそらく今日中には二人目の弟か妹が生まれるというのだ。

 弟の忠美が生まれたときはまだ伊織も小さく、兄弟の誕生に立ち会った記憶がない。だから今度という今度は新しい家族が産まれる瞬間というものを噛み締めるのだ。

 普段はあっという間、木枯らしのようにさあっと吹き抜けてしまう尋常小学校での数時間も、今日は恐ろしく長く感じた。一日午前だけで二十時間くらいあるんじゃないかとすら思った。気が気でなく、休み時間、友達の話も生返事だ。

 そして残すところあと三分。

 伊織は授業に参加していながらも、心の中で終業カウントダウンを始める。まだか。まだか。時計の針が錆び付いてるんじゃないかと思う。あと少しだ。

 五、四、三、二、一。

 学校にベルが鳴り響いた。カウントダウン通り。伊織は心の中で歓喜が爆発する。

 よし、帰れる!

 緊張の糸が切れたようで教室がざわめきたつ。

 伊織は帰り支度を整え、立ち上がった。

 と、

「ねえねえ、草壁」

 振り返るとそこには友人の清水がいた。気の弱い少年で年中本にかぶりつく、本の虫だ。

「草壁……今日何の日か知ってる?」

「僕に新しく弟か妹ができる日かな」

 脊椎反射の勢いで言う。清水は苦笑して、

「そうなんだけど……今日さ、閏日だよね」

「うるうび?」

「そう、閏日。新暦っていうのはね、僕たちが生まれるちょっと前に日本でも定められた暦でね、これは元々エジプトで太陽の動きをもとにして作られた暦なんだけど――」

「手短に頼むよ。急いでるんだ」

 清水は博識で勉強家。末は帝国大だって狙える逸材という話だが、話が長くてくどい。いいやつであることは周知だが、だからこそその真面目さを疎んじる者もいた。

「あー、ごめんごめん。じゃ要点だけ。神隠しの伝説って知ってる? 閏年の神隠し」

「閏年の神隠し?」

 初耳だった。神隠しというのが突然人がいなくなってしまう現象だというのは知っている。よく夜遊びすると神隠しに遭うと大人が口にしている。もっともこれはただの脅かしだということも大きくなって知ったけれど。

 清水は続ける。

「たぶんこの地方だけに伝わるものだと思うんだけど、四年に一度の閏日。二月二十九日に生まれた子どもは山の竜神様によって神隠しにされちゃうっていうんだ」

「縁起でもない……!」

「そう、そうなんだよ。だからさ、今日草壁んちで赤ちゃんが生まれるっていうからさ、心配心配で……」

 霞むような声だ。元々張った声ではないが、いつも以上に消え入りそうな声だ。

「ははは、大丈夫大丈夫。迷信だよ迷信。ははっ、清水って怖がりだよなぁ、昔だって――」

 自分が僕を傷つけてしまっている。

 清水はそう思い、わざと言葉を濁したんだ。

 わざとおどけてみたが、咄嗟にあ、まずい。と伊織は後悔した。

「それを言うなぁ!」

 教室中が一瞬静まりかえる。清水の大声なんて数年の一度あるかないか。それこそ閏年なんかよりもよっぽどの珍事だ。

 清水はしまったと顔をしかめ、すぐに俯いて視線をやり過ごそうとする。

 この話題は二人だけの男の秘密事。機雷原なのだ。

 幸い驚天動地の珍事も放課後への希望感によってすぐに払拭され、また元の賑やかな教室に様変わりした。

「ともかくっ、これが言いたかっただけなんだ。喉の魚の骨が取れたよ」

「あれ、清水、見かけによらず給食がっついたのか?」

「違うっ!」


  ◆◆◆◆◆


 尋常小学校を裏口から颯爽と飛び出し、あぜ道を通って家を目指す。

 抜け道である神社の境内を突っ走り、石段を二個とばしに走り下りる。小さいながらも村の中心地である村役場を突っ切りひたすら直進。田園脇の真っ赤なポストを左折すると、そこが我が家だ。

「ただいまっ」

 がらがらという盛大な物音をたてて扉を開ける。時計を確認。十分か。悪くないタイムだ。

 おぎゃあぁ、おぎゃあぁ。

 奥の間の方から耳をつんざく甲高い声が聞こえ、反射的に廊下を駆け抜ける。

「おっかあ!」

「おお、早いじゃないか伊織。丁度よかったな、産声と同時に帰ってきた」

 普段は気むずかしい父、音吉は満面の笑みを浮かべている。

「おめでとうございます。いっやぁ、元気な男の子ですよ」

 産婆さんが音吉に男の子を大事そうにして渡す。

 僕は新しい家族の誕生に立ち会えたのだ。 ……本当にぎりぎりだけど。


 それからの半日は学校とは打って変わって、恐ろしい速さ、それこそ光のようにぴゅんと過ぎ去っていた。同じ村内に住む親戚が集まってきたり、男の子に「草壁一」という名前がつけられたり。

 そして一日の締めは酒盛りだ。

 すっかり酒に飲まれる姿を見て、大人は気楽だなぁと思いながら伊織は縁側に座って星空を仰ぎ見ていた。すっかり酔いつぶれた大人と、さっきまで大人顔負けに有頂天だった忠美ももう寝入ってしまった。

 恐らく、今この家で目が覚めているのは伊織だけだ。

 星を見ながら耳をすましてみる。

 風の音。虫のさえずり。小川の流れ。今、この世界にあるのは自然の呼吸だけ。自然が自分を包み込んでいる。日常当たり前のように接している世界がまるで一つの生物のようにこんなにも息吹をたてているのは不思議だった。

 新しい家族――一の誕生を、物静かながらも祝ってくれているようで、息吹はどうにも快かった。


 音がして、ふと目を覚ます。

 どうやら寝入ってしまったようだ。

 ごそごそ、という何か暗闇が蠢く音が聞こえたようにも思えた。

 ここにきて伊織は昼間の清水の言葉を思い出す。

『二月二十九日に生まれた子どもは山の竜神様によって神隠しにされちゃう』

 清水の小声が頭の中で鐘の音のように反響する。

 縁起でもない。

 真夜中に思いだしていい話じゃない。

 さすがにもう寝小便という歳でもないが、こう普段過ごすことのない真夜中、それも不自然な物音つきだと、少なからず怖じ気づかざるをえない。

 恐れのためか尿意がこみ上げてくる。

 伊織は恐怖を払拭するようにかぶりを振ると、虫が入り込まないようにと一旦縁側の戸を閉めて厠へと向かう。

 こんな時、厠が室内にあればなぁ、と切に思うのだがこればかりはどうしようもない。未来の発明家に期待するとする。

 小便をし、厠を出るとまたざわめくような音がする。母屋の方からだ。

 勘弁してくれよ……。

 どっちにせよ厠で夜を越すのはこの季節、さすがに酷だ。母屋に帰らざるをえない。

 そっと、抜き足、差し足、忍び足。 

 ある程度距離を稼ぐと、堰を切ったように疾走し母屋に入り込んで戸を固く閉める。

 よかった何もいなかった。やっぱり枯葉のざわめきとか、そういうまやかしの類だったんだ、と伊織は安心して溜息をついた。

 しかし。

 次の瞬間、気づいてはいけないことに気づいてしまった自分に、伊織は呪詛を浴びせた。

 いったい誰が戸を開けたのか。

 確かに戸はしめたはずだ。なのに今、戻ってきたときには戸は開いていたのだ。

 悪寒が体中を電撃のように走り抜ける。

 伊織は肩が震えていることに気づく。寒さだけによるものではないことは明白だ。

 このことは、もう忘れよう。

 早く暖かい布団の中に入って、夢の世界へと飛び込んでしまおう。気づけば朝、またいつもと同じ、だけど一つ影の増えた朝が始まるのだ。

 部屋に戻る。

 と、衝撃。

 廊下で黒い影とぶつかった。

 幽霊なんかじゃない。正真正銘、物体だ。質量を持った物体だった。

絶叫する。

 しかし伊織の声は音として空気を震わせない。背後から何者かによって口が封じられたのだ。

 よく見ると前方の暗闇、何者かの外套の下から目が鋭く光ったのが確認できた。

 状況を確かめながらも更に叫ぶ。

 声にならぬ叫びをあげる。

 獣のようにひたすら無我夢中に咆哮する。

 すんで、口を押さえ込む手に隙が生じた。

 伊織は絶好の機会を見逃さず、はっきりと噛みついた。相手の指が使い物にならなくなってもそんなことは知らない。必死の形相で食らいつく。

 今度は暗闇が絶叫する番だった。

 男の低い声が闇夜を震わす。

 男の抑え込みから辛うじて抜け出し、やった、と思ったのも束の間、暗闇の中に白くて、小さいものが映ったのを見た。

 しかし、次の瞬間には伊織の意識はぷっつりと飛んでしまった。

 朦朧と後部の痛みを感じ、スローモーションのようにゆっくり倒れる最中、消え入る意識の中で、伊織はただひたすらに泣き叫んだ。

 新しい家族。

 閏年の神隠し。

 伊織は、深い眠りについた。 

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