敵に名前を与えた、その日
その日、俺は「敵」に名前を与えてしまった。
それが、どれほど残酷なことか——気づいたのは、ずっとあとだった。
◆
砲撃が止んだのは、いつのことだったか。
俺——帝国陸軍第三師団歩兵第十二連隊・渡辺誠一等兵——は、崩れた土砂の中に腰まで埋まったまま、ゆっくりと意識を取り戻した。頭の上で何かが轟音を立てて過ぎ去り、土煙と火薬の臭いが鼻を焼いた。右の耳が聞こえない。左腕に鈍い痛みが走っている。指は動く。骨は折れていないだろう。
そこまで確認して、ようやく前方に目を向けた。
距離にして三メートルほど。塹壕の縁が崩れてできた窪みの向こう側に、そいつは立っていた。
背が低い。俺より頭一つ分は小さい。軍服は東方連合のものだ——くすんだ土色の上着に、赤い肩章。泥と血と煤で原形をとどめていないが、その配色だけははっきりとわかった。ライフルを両手で構えて、銃口をまっすぐ俺の額に向けている。
顔を見た。
十六か、十七か。まだ子供だ。
頬に泥が張りついていて、目が真っ赤に充血していて、荒れた唇が小刻みに震えていた。銃を握る手が白くなるほど力んでいるのに、どうしても引けないでいる。引きたくないんじゃない。引けないんだ。そういう顔だった。
俺は動かなかった。
動けなかったんじゃない。動かなかった。
埋まった足を引き抜こうと思えばできた。腰のホルスターに手を伸ばすこともできた。だが、しなかった。なぜかは自分でもよくわからない。ただ、そいつの目を見ていたら、できなかった。
「……お前、名前は」
気づいたら口が動いていた。我ながら間抜けだと思った。死ぬかもしれない状況で、聞くことがそれか。
少年は目を見開いた。銃口が数センチ、揺れた。
「……ミハイル」
答えやがった。
俺は思わず笑いそうになって、それを堪えた。
「渡辺だ。ワタナベ」
少年——ミハイルは、眉間に深い皺を寄せた。発音が難しかったのか、それとも状況の意味が理解できなかったのか。どちらにせよ、その三秒ほどの沈黙の間、少なくともミハイルは引き金を引かなかった。
それで十分だった。
——ただ、俺はその瞬間に気づいていなかった。
名前を知るということが、どういうことか。
名前を与えた相手に、人間は一瞬、躊躇う。
そしてその一瞬が——戦場では、呪いだ。
◆
戦争が始まったのは、三年前の春だった。
帝国と東方連合は、百年以上にわたって国境を接してきた。小競り合いは常にあったが、全面戦争にまで発展したのは初めてのことだった。きっかけは国境の港町の帰属問題だと政府は言った。資源の問題だと軍は言った。民族の誇りの問題だと新聞は書いた。
俺には、どれも本当のことのように思えなかった。どれも嘘のようにも思えた。
ただ、召集令状が来た。
妻の千鶴は何も言わなかった。ただ、出発の朝、まだ七ヶ月の娘——澄を抱いたまま、門のところで俺が見えなくなるまで立っていた。振り返るたびに、千鶴の白い顔が小さくなっていった。
俺は二十四歳だった。
農家の三男で、学はなくて、田んぼの土の臭いしか知らなかった。軍に入って初めて、帝都というものを見た。帝都から船に乗って、初めて外国というものを見た。砲声というものを聞いた。人が死ぬというものを見た。
人が人を撃ち殺すということを、した。
できた。
なぜできたか。
簡単だ。相手に名前がなかったから。
「敵兵」と呼べば、それはもう人間じゃない。的だ。障害物だ。排除すべき何かだ。顔が見えても、声が聞こえても、「敵兵」という言葉が盾になってくれる。その盾の向こうに引き金がある。
三年間、俺はそうして生き延びてきた。
◆
ミハイルは銃を下ろさなかった。
俺も這い出そうとしなかった。
穴の底で、互いを見ながら、時間だけが過ぎていった。
砲声は断続的に続いていた。近い。戦線はまだこの近辺で動いているらしい。ということは、どちらの側も、今すぐここに増援を送れる状況ではないということだ。ミハイルもそれを計算しているのか、穴から出ようとはしない。
太陽が少しずつ傾き始めた頃、ミハイルがゆっくりとその場に腰を下ろした。銃口はまだこちらを向いていたが、腕の角度が変わった。疲れているのだ。
俺も、もう一度腰を落ち着けた。
しばらく黙って向かい合っていると、ミハイルの腹が鳴った。
小さな音だったが、穴の底の静寂の中ではっきりと聞こえた。ミハイルの顔が、みるみる赤くなった。戦場で銃を突きつけながら腹の虫を鳴らした少年の顔というのは、どんな英雄譚にも描かれない表情だったと思う。
俺は軍服の胸ポケットに手を入れた。ゆっくりと。素早く動いたら撃たれる可能性がある。ミハイルの目がその動きを追う。
出てきたのは、握り飯だった。
今朝の配給の分だ。梅干し入りの、もう冷たくなった、少し潰れた握り飯。
俺はそれをミハイルの方へ、転がした。
ミハイルは目を丸くして、それを見た。俺を見た。また握り飯を見た。
銃口が、大きく揺れた。
「毒は入ってない」
俺は言った。
通じるはずがなかった。でも言った。
ミハイルはポケットをまさぐって、黒パンを取り出した。半分かじった、硬そうな黒パン。それを俺に向かって転がした。
「……俺もだ」
ミハイルが言った。
言葉はわからなかった。でも、わかった。
俺は黒パンを拾って、かじった。酸味があった。麦の臭いがした。硬かったが、味はあった。
ミハイルも握り飯を手に取った。海苔の巻き方がよほど珍しかったのか、しばらく裏表から眺めてから、おそるおそる口に運んだ。梅干しのところで、眉が八の字になった。
俺はその顔を見て、また笑いそうになった。今度は、笑った。声は出さなかったが、笑った。ミハイルも、困ったような顔で、少し笑った。
そのとき、俺の頭の中で何かが音を立てて壊れた。
——ああ、こいつは敵じゃない、と思ってしまった。
まずい、と直後に思った。
本当にまずい。
三年間かけて積み上げた壁が、たった一つの笑顔で崩れた。相手の顔を見るな、名前を聞くな、笑うな、飯を分けるな。それが生き延びるための鉄則だった。俺はその全部を、この数時間でやってしまった。
もうこいつを「敵兵」とは呼べない。
ミハイルだ。
それが、どれほど面倒なことか。
◆
日が傾いてきた頃、ミハイルが口を開いた。
俺にはわからない言葉で、何か長いことを言った。抑揚があって、文章の終わりに向かって声が少し上がった。質問しているのだと思った。
俺は首を振った。
ミハイルはもう一度、今度はゆっくりと言った。一語一語、区切るように。それでもわからなかった。
ミハイルは少し考えてから、懐に手を入れた。折りたたんだ紙を取り出した。
広げると、写真が一枚入っていた。
白黒の、少し端が焼けた写真だった。背景に畑が広がっている。向日葵のような背の高い花が咲き乱れていて、その前で三人が並んで笑っていた。若い女性と、小さな男の子が二人。女性は丸顔で目が大きく、子供たちは女性に似ていた。
ミハイルは写真の女性を指さして、また何かを言った。
俺にはわからなかった。でも、そういうことだと思った。
俺にも写真がある。
胸ポケット、握り飯を出したのとは反対の側。そこにある小さな封筒の中に、一枚だけ入れてある。
出発の前日、千鶴が「持って行って」と言って渡してくれたものだ。縁が少し曲がっていて、千鶴が何度も見返したのだろうと思う跡がついていた。
俺はそれを出して、ミハイルに見せた。
千鶴と澄が写っている。縁側で、千鶴が澄を膝に乗せて笑っている。澄はまだ七ヶ月で、顔がよくわからないくらい小さかったが、笑っているのはわかる。そういう形に顔が崩れていた。
ミハイルは長い間、その写真を見ていた。俺を見た。写真を見た。また俺を見た。
そして何か言った。
俺にはわからなかった。でも、そういう顔だった。「可愛い」という顔だった。
俺はそのとき、奇妙なことを思った。
こいつの弟たちが、もし帝国の軍服を着て、どこかの塹壕で俺に向かってくることがあったとしたら——俺は撃てるか。
撃てる、と思った。
撃てるように、訓練されている。それが軍というものだ。
でも、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、手が止まるかもしれないと思った。
ミハイルの弟という情報が、頭の中にある。それだけで、一瞬止まる。
一瞬が、戦場では死を意味する。
名前を知るとは、そういうことだった。
◆
夜になった。
砲声がいくらか遠のいた。空に星が出た。帝国の星と同じ星だ。どこにいても星は同じだと知識では知っていたが、こんな場所でそれを実感するとは思っていなかった。
俺たちは穴の両端に背を預け、銃を膝に置いたまま眠った。
交代で番をするわけでもなく、ただ、眠った。
馬鹿げている。わかっている。でも、そうした。
朝になったら撃ち合うかもしれない相手の隣で眠るのは、理屈では説明できない。ただ、俺はミハイルが夜中に俺を撃つとは思わなかった。根拠はない。なんとなく、そう思った。
ミハイルも、たぶん同じことを思ったのだと思う。
◆
夜中に、ミハイルが泣いた。
俺は眠っていたが、気配で目が覚めた。暗くてよく見えなかったが、ミハイルが膝を抱えて丸くなっているのはわかった。小さな、詰まったような声で泣いていた。声を殺そうとしているのに、殺しきれていなかった。
俺は何も言わなかった。何も聞かなかった。
ただ、目を閉じた。
聞かなかったことにした。
それが、俺にできる唯一のことだと思った。
——でも、また一つ、知ってしまった。
こいつは夜に泣く。
こいつは怖いんだ。俺と同じように。
どんどん増えていく。ミハイルについての「情報」が。知れば知るほど、ミハイルは「敵兵」から遠ざかっていく。
それがたまらなく怖かった。
◆
夜明け前、砲声が近づいてきた。
明らかに昨日より近い。戦線が動いている。
二人同時に目が覚めた。顔を見合わせた。
ミハイルが立ち上がった。塹壕の縁を見た。それから俺を見た。
俺も立ち上がった。
どちらも銃を構えなかった。
ミハイルが北側の縁に手をかけた。自軍の方向だろう。俺は南側に向いた。
縁をまたごうとしたとき、ミハイルが振り返った。
「ワタナベ」
俺の名前を、呼んだ。
発音が少し違ったが、俺の名前だった。
「ミハイル」
俺もそいつの名前を、呼んだ。
それだけだった。
それで、十分だった。
ミハイルは縁を越えて消えた。俺は反対側へ這い上がった。
走りながら振り返ったら、もうミハイルの姿はなかった。
俺はそのとき、一つのことを考えていた。
次に戦線で向かい合ったら——俺はミハイルを撃てるか。
答えは出なかった。
出したくなかった、という方が正確かもしれない。
◆
三日後、俺の部隊はその戦線を突破した。
激戦だった。俺の小隊は十二人から始まって、最後には七人になっていた。松田軍曹は腹に弾を受けて二日目に死んだ。小林は最初の突撃で戻らなかった。田村は腕を吹き飛ばされたが生きていた。泣き虫だった河本が、誰よりも冷静に戦っていた。人間というのは何が出るかわからない。
俺は生き延びた。
左腕の傷は化膿しかけたが、衛生兵の渡した薬で何とかなった。右耳はまだ少し聞こえが悪い。それだけだ。
戦線を突破した翌朝、部隊は敵の陣地跡を進んだ。瓦礫と残骸と、動かないものが散らばっていた。俺は前を向いて歩いた。横を見ないようにして歩いた。それが戦場の歩き方だと、三年間で覚えた。
ただ、足が止まった。
なぜ止まったのか、自分でもわからない。本能のようなものだったかもしれない。
向こうの壁の根本に、うつ伏せに倒れているものがあった。
東方連合の軍服だった。土色の上着に、赤い肩章。
近づかなければよかった。
近づいた。
ポケットから、半分に折れた写真がはみ出していた。
白黒の写真。向日葵のような背の高い花が咲いていて、若い女性と小さな男の子が二人、笑っていた。
俺はしゃがんで、その写真をそっと押し込んだ。
立てなかった。
足に力が入らなかった。
しばらく、そこに座り込んだ。空が白くなっていた。砲声が、遠くで鳴り続けていた。前方から、小隊の誰かが「渡辺、早くしろ」と呼ぶ声が聞こえた。
わかってる。
すぐ行く。
ちょっと待ってくれ。
俺はミハイルの肩に、一度だけ手を置いた。
何も言えなかった。名前しか知らないから。でも、名前だけは知っていた。
「ミハイル」
言った。それだけ言った。
それから立ち上がって、前を向いて、歩いた。
歩きながら、さっきの問いへの答えが出た。
次に戦線で向かい合ったら、俺はミハイルを撃てたか。
——撃てた、と思う。
戦場では、撃たなければ死ぬ。それだけのことだ。
でも、一瞬だけ、手が止まったと思う。
ミハイルも、一瞬止まったと思う。
その一瞬の間に、どちらかが死んだと思う。
名前を知るということは、そういうことだ。
◆
帰国したのは、それから一年後だった。
戦争は帝国の勝利で終わった。港町の帰属は帝国に認められた。資源の採掘権も得た。民族の誇りも守られた、と新聞は書いた。
俺には、わからなかった。
千鶴は玄関先で俺を見て、泣いた。澄は俺の顔を見て怖がって泣いた。四歳になっていた。俺を知らなかった。当然だ。七ヶ月の頃に別れた父親の顔など、覚えていない。
しばらくして、澄は慣れた。抱っこをせがむようになった。「とうさん」と呼ぶようになった。
俺はその度に、少し泣きそうになった。
それを、千鶴には言わなかった。
言えなかった理由は、自分でもよくわからない。ただ、あの写真の子供たちのことを思った。ミハイルの弟だろうと思っていた、あの二人のことを。あの子たちには父親がいるだろうか。いたとしたら、ちゃんと帰ってきたのだろうか。
考えても意味がない。わかっている。
でも、考えてしまう。
◆
戦争が終わって二年後の春、俺は故郷の田んぼに戻った。
土を耕しながら、ふとミハイルのことを思った。
あいつの実家も、農家だったのだろうか。写真の背景の、あの向日葵畑。大麦か向日葵か何かを育てていたのかもしれない。
ミハイルの母親は、まだあの畑を耕しているだろうか。
小さな弟だろうと思っていた子たちは、大きくなっているだろうか。
ミハイルが帰ってこないことを、もう知っているのだろうか。
田んぼの畦道に腰を下ろして、空を見上げた。青い空だった。帝国の空だ。向こうにも、同じ色の空があるはずだ。
答えは出ない。出るはずがない。
でも、考える。今でも考える。
あの夜、俺たちは一晩同じ穴の底にいた。同じ飯を分けた。同じ星を見た。同じ夜を過ごした。
それだけのことだ。
でも、それ以上のことは何もなかった。
それだけのことが、俺の中でずっと消えない。
◆
澄が八歳になった夏、縁側で膝に乗せながら、星を見ていた。
「とうさん、むかし戦争に行ったんだよね」
澄が言った。
「そうだ」
「怖かった?」
「怖かった」
「お友達できた?」
俺は少し考えた。
「一人だけ」
「どんな人?」
「……まだ子供だった。おまえより少し大きいくらいの。名前しか知らなかった」
「名前なんて言うの?」
「ミハイル」
澄は「ミハイル」と繰り返した。うまく発音できなくて、「ミハイウ」みたいになった。
「今もお友達?」
俺は空を見た。
「もう会えない」
「なんで」
「遠いところに行ったから」
澄はしばらく考えてから、「そっか」と言った。
それ以上は聞かなかった。子供というのは、時々、大人が驚くほど正確に何かを察する。
俺は澄の頭を撫でた。
星が出ていた。
あの夜と、同じ星だった。
そのとき、ふと思った。
ミハイルも、どこかで星を見ていたのだろうか。
いや——ミハイルはもう、どこにもいない。
でも、あの夜、俺たちは同じ星を見た。それだけは本当だ。それだけは、誰にも消せない。
戦争が終わっても、勝敗が決まっても、歴史に記録されなくても——あの穴の底で、二人の人間が同じ空を見上げたという事実は、永遠に残る。
誰も知らなくても。俺一人が覚えていても。
◆
ミハイル。
お前に家族がいることを、俺は知っていた。
お前が怖かったことを、俺は知っていた。
お前が梅干しをはじめて食べて、変な顔をしたことを、俺は知っていた。
お前が夜中に泣いたことを、俺は知っていた。
お前が俺の娘の写真を見て、優しい顔をしたことを、俺は知っていた。
でも俺たちは、それだけしか知らなかった。
それだけしか、知れなかった。
お前の好きなものも、夢も、どんな歌を歌うかも、笑うと顔がどう変わるかも、俺は知らない。
知る時間も、知る言葉も、持てなかった。
それが、戦争というものだと、今は思う。
人を「敵」にするのは、簡単だ。
名前を知らなければいい。顔を見なければいい。
それだけで、人は人を撃ち殺せる。
俺はたまたま、お前の名前を知ってしまった。
お前もたまたま、俺の名前を知ってしまった。
それだけのことで、あの穴の底では、俺たちは撃ち合わなかった。
でも——次に会っていたら、俺は撃っていたと思う。
撃たなければ死ぬ。それだけのことだ。
お前も、撃っていたと思う。
それが戦争だ。名前を知っていても、笑い合っていても、同じ星を見ていても——戦場で向かい合えば、引き金を引く。そうしなければ、自分が死ぬ。
だから俺は、お前が死んでよかったと思うべきなんだろう。
お前が死んだから、俺は帰れた。千鶴に会えた。澄の「とうさん」になれた。
でも——そう思えない。
お前が死んだことを、俺は今でも悲しんでいる。
お前の弟だろうと思っていた子たちのことを、今でも考えている。
それが、名前を知ってしまった人間の業だ。
人を「敵」にするのは簡単だ。
でも、一度「人間」にしてしまったら——もう戻れない。
お前の名前だけが、今も俺の中にある。
それが、俺にできる唯一のことだから。
お前が生きていたという、唯一の証明だから。
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「敵に名前を与えた、その日」
完
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