第九話
突然、母から電話がかかってきた。
スマホの画面には「母」の表示。久しぶりだった。
母の声――
「果歩、元気にしとる?」
その響きは、東京の喧騒の中で、ふっと時間を止めた。
「実話ね」と母は続ける。
「お父さん、今年、定年なの。会社は嘱託で残るらしいけど、区切りで休暇をもらえるそうなの。それと、長年勤務のお祝いに旅行券もいただけるんですって」
少し息を整えてから、母は笑うように言った。
「そしたらね、お父さんが言うのよ。昔、初めて海外勤務したときに食べた、あそこ……海雲台のクッパを、もう一度一緒に食べに行こうって」
果歩は思わず返す。
「クッパなんて、どこで食べても同じでしょ?」
でも母は首を振る。
「今まで食べたクッパの中で、あそこが一番だったって言うのよ」
私は韓流ドラマのファンだから、少し嬉しいんだけどね――
そう前置きしてから、母はもう一つ付け加えた。
「それにね、お父さん、もう一度、海雲台から見える大橋のライトアップを観たいんですって」
それは、家族の記憶の中にある“風景の再訪”。
海雲台から見える、大橋のライトアップ。
定年退職という節目。
人生の大きな区切り。
そのときに、
自分が関わった橋の光を、もう一度見たいという願いは、
父にとって“人生の振り返り”でもあるのだろう。
果歩は言った。
「昔のライトアップとは、ぜんぜん違うよ」
父にとっては、まだ若い頃の、海外での初仕事。
周りがどれだけ変わっていても、あの橋は、あの橋だ。
自分が人生の一部を注いだ場所。
家族のために行く理由が、できた。
家族の記憶と、
自分自身の記憶が、
同じ海風の中で、重なり始める。
「母さん、気分転換に一緒に行ってもいいよ」
母は、少し間を置いて言った。
「……久しぶりに、あの橋、見たいな」
海の向こうに、静かに浮かぶ橋。
青と白の光が、波に映っていた。
果歩の中にある“過去のままの釜山”が、
少しずつ、ほどけていく。
――母は言う。
「……どんなふうに違うの?」
果歩は答える。
「色が、もっと派手になっててね。ピンクとか、緑とか。音楽も流れるのよ」
そのとき、果歩は、
あの怪しいおばさんからもらった地図を思い出した。
変わらないものを探す旅が、始まる。
果歩は、幼い頃に見たライトアップを、
うっすらと覚えている。
それで、果歩――
「何日くらい、お休みできる?」




