第八話
家族散歩 人魚台(인어대/人魚像・인어상)
인어대 イノデ(人魚台)
인어상 イノサン(人魚像)
トンベクの坂道は、思っていたよりもなだらかで、
海からの風が、ゆっくりと背中を押してくる。
父親は、少し先を歩く。
母親は、足元を確かめるように歩く。
その中ほどを、子どもが歩いている。
観光地と呼ばれる場所なのに、
朝の時間帯は、人の声が少ない。
足音と、風と、
遠くで割れる波の音だけが、
一定の間隔で重なっている。
「人魚台へ向かう道やな」
誰かが、そう言った。
石の階段を上りきると、
急に視界が開ける。
海が、思っていたよりも近い。
水平線の上を、雲が低く流れ、
光が、ところどころで海面に落ちている。
人魚の像は、
派手ではなく、
少し控えめな位置に立っている。
父親は、説明書きを読む。
母親は、像の足元を見ている。
子どもは、
なぜ人魚なのか、
どうしてここに立っているのか、
よく分からないまま、
ただ、その背中の線を見ていた。
観光客の誰かが、写真を撮る。
シャッターの音は、
風に紛れて、すぐに消える。
「寒くない?」
母親が言う。
「大丈夫」
子どもは、少し考えてから答える。
本当は、
寒さよりも、
この場所に長く立っていると、
何かを思い出しそうで、
それが、少しだけ落ち着かなかった。
でも、
何を思い出すのかは、
まだ分からない。
父親が言う。
「そろそろ行こうか」
三人は、
同じ方向を向いて、
同じ速さで歩き出す。
振り返らずに、
人魚台を背にする。
それでも、
風の向きが変わったとき、
海の匂いが、
少しだけ強くなる。
その匂いの中に、
まだ言葉にならない何かが、
確かに混じっていた。
家族で、ハルメクッパ
(해운대원조할매국밥)
해운대원조할매국밥
ヘウンデ・ウォンジョ・ハルメ・クッパ
해운대(ヘウンデ)=海雲台
원조(ウォンジョ)=元祖
할매(ハルメ)=おばあちゃん
국밥(クッパ)=スープご飯
坂を下りきると、
通りに、湯気の匂いが混じりはじめる。
父親が、立ち止まって言う。
「あ、ここだ」
古い看板に、
해운대원조할매국밥。
「海雲台元祖ハルメクッパ」
子どもは、
文字は読めないけれど、
その店の前だけ、
空気が少し違うのが分かった。
ガラス戸を開けると、
一気に、音と匂いが流れ込んでくる。
金属の匙が、器に当たる音。
スープをすする音。
低い声で交わされる、大人たちの会話。
「어서 오이소」
オソ オイソ
「いらっしゃいませ」
奥から、
少し枯れた声が飛んでくる。
三人は、壁際の席に案内される。
父親は、慣れた様子で注文をする。
「국밥 세 그릇 주세요(クッパ セ クルッ チュセヨ)」
국밥(クッパ)=クッパ
세(セ)=三
그릇(クルッ)=器・杯
주세요(チュセヨ)=ください
店の奥から
「예―(イェー)」
母親は、上着を畳みながら、
店内を一度、ゆっくり見渡す。
子どもは、
テーブルの端に置かれた、
銀色の箸と匙に触れてみる。
ほどなく、
白い湯気を立てた器が、
三つ並ぶ。
スープの表面に、
薄く光る脂。
「熱いから、気ぃつけて」
母親が言う。
子どもは、
匙を両手で持ち、
そっと口に運ぶ。
少し、しょっぱい。
でも、
さっきまで歩いていた海の風が、
体の奥で、
静かにほどけていく。
父親は、黙々と食べている。
母親は、途中で一度、
子どもの椀をのぞき込む。
「大丈夫そうやね」
子どもは、うなずく。
言葉は少ないけれど、
この店では、
それで十分な気がした。
外から、
また誰かが入ってくる。
扉が開くたび、
冷たい空気と、
新しい声が混じる。
それでも、
鍋の中のスープは、
変わらない音で、
静かに煮え続けている。
食べ終わるころ、
子どもは、
さっきの人魚台の風景を、
もう一度だけ思い出す。
でも、それはすぐに、
湯気の向こうに溶けていった。




