第五話
アクアリウムが開いた日
その日は、朝から海雲台の空気が、ほんの少しだけ浮き足立っていた。
海沿いの道には、いつもより人が多く、旗が立ち、
大人たちは「今日オープンらしいよ」と、どこか確認するように言っていた。
館内に入った瞬間、低いハウリングのような音が一瞬だけ走る。
天井のスピーカーが、調整を終えた合図だった。
[場内アナウンス]
「안녕하십니까, 해운대 아쿠아리움에 오신 것을 환영합니다―」
(アンニョンハシムニッカ、ヘウンデ・アクアリウムエ・オシン・ゴスル・ファニョンハムニダ―)
(えー、本日は、海雲台アクアリウムにお越しいただいて、
ほんまに、ありがとさんです)
少し語尾が上がる。
ソウルの発音より、柔らかく、丸い。
「오늘은 개관 첫날입니다. 혼잡하오니 어린이 손 꼭 잡아주이소―」
(オヌルン・ケグァン・チョンナルイムニダ。ホンジャッパオニ・オリニ・ソン・コッ・チャバジュイソ―)
(今日はオープン初日です。
人、多いですさかいな、子どもさんの手、
しっかり握っとってください)
「잡아주이소」という言い方に、
周囲の大人たちが、少しだけ笑う。
[周りの声・父親たち]
「와, 사람 진짜 많네」
(ワ、サラム・チンチャ・マンネ)
(うわ、人、ほんま多いな)
「이야, 새 건물 냄새 난다」
(イヤ、セ・コンムル・ネンセ・ナンダ)
(おお、新しい建物の匂いするわ)
「조심해라, 미끄럽다 아이가」
(チョシメラ、ミックロプタ・アイガ)
(気ぃつけや、滑るで、これ)
[子どもの声・あちこちから]
「아빠, 이거 봐!」
(アッパ、イゴ・バ!)
(お父さん、これ見て!)
「움직인다!」
(ウムジギンダ!)
(動いとる!)
「무섭다……」
(ムソプタ……)
(ちょっと、こわ……)
[場内アナウンス・続き]
「왼쪽은 열대어관, 오른쪽은 대형 수조입니다」
(ウェンチョグン・ヨルテオグァン、オルンチョグン・テヒョン・スジョイムニダ)
(左手が熱帯魚のコーナー、
右手が、大きい水槽になっとります)
「천천히 보이소. 급할 거 없습니더」
(チョンチョニ・ボイソ。クッパル・コ・オプスムニダ)
(ゆっくり見てってください。
急ぐこと、なんもありませんから)
その「急ぐこと、なんもない」という言い方が、
なぜか胸に残る。
[周囲の声]
「와……」
(ワ……)
(うわ……)
「저거 봐라, 그림자」
(チョゴ・バラ、クリムジャ)
(あれ見ぃ、影)
「하늘 나는 거 같데이」
(ハヌル・ナヌン・ゴ・カッテイ)
(空、飛んどるみたいやな)
「……でか……」
[少し離れた大人の声]
「일본 학교 학생인가 보다」
(イルボン・ハッキョ・ハクセンインガ・ポダ)
(日本人学校の子ちゃうか)
「교복 같다, 그지?」
(キョボク・カッタ、クジ?)
(制服、同じやな)
「애들, 말 안 통하면 어쩌노」
(エドゥル、マル・アン・トンハミョン・オッチョノ)
(子ども同士、言葉通じんかったら、どうすんね)
[場内アナウンス]
「사진 촬영은 플래시 없이 부탁드립니더」
(サジン・チャリョンウン・プルレシ・オプシ・プタクトゥリムニダ)
(写真撮るときは、フラッシュなしで、頼んます)
「즐거운 시간 되이소」
(チュルゴウン・シガン・トェイソ)
(ええ時間、過ごしてってください)
その「ええ時間」という言葉が、
二人の間を、静かに通り過ぎる。
名前も知らない。
次に会う約束もない。
でも、
この音、この匂い、この青い光の中で、
同じ声を、同じ速さで聞いていた。
それだけで、
もう十分だった。
――――――
まだ小学校低学年。
日本人学校に通っているその子は、
父親の背中を半歩遅れて歩きながら、
手首にぶら下げた入場券を、何度も裏返して見ていた。
水族館――という言葉は知っていたけれど、
「今日できたばかり」という意味までは、よく分かっていなかった。
ただ、
建物が新しくて、
ガラスがやけに光っていて、
人の声が反響しているのが、少しだけ怖かった。
中に入ると、
ひんやりした空気と、
水の匂いがした。
最初の水槽の前で、
父親が立ち止まり、
「ほら、見てごらん」と言う。
そのとき、
すぐ横に、同じ制服の子が立っているのに気づいた。
同じ日本人学校。
同じ紺色の上着。
でも、見たことはない顔。
学年が違うのか、
クラスが違うのか、
それとも、いつも違うバスなのか。
理由は分からないけれど、
「知らない」という事実だけが、はっきりしていた。
大きな水槽の前。
青い光の中を、魚の群れが流れていく。
その瞬間、
同時に二人が、同じ魚を指さした。
「あ」
声が、かぶった。
互いに一瞬、指を引っ込めて、
目だけが合う。
気まずさ、というより、
どう反応すればいいのか分からない沈黙。
でも、
その沈黙を破ったのは、
水槽の奥を泳いでいた、
やけに大きなエイだった。
「でか……」
思わず漏れたひと言に、
もう一人が、小さく笑った。
「……でかいね」
それだけ。
名前も、
学年も、
どこに住んでいるかも、
何ひとつ知らない。
ただ、
同じタイミングで、
同じものを見て、
同じ言葉を選んだ。
父親が、
「次、行こうか」と言う。
その子は、少しだけ名残惜しくて、
でも理由を説明できないから、
黙って頷いた。
名前も呼ばれないまま、
再会の約束もないまま、
二人は、それぞれの親に連れられて、
別の水槽へ流れていった。
けれど、
何年も経ってから、
釜山の海の匂いを嗅いだとき、
あるいは、ガラス越しの青い光を見たとき、
理由もなく、
「誰かと並んでいた感じ」だけが、
胸の奥に残っている。
それが、
最初だった。
恋でも、友情でも、
思い出と呼ぶには、あまりに曖昧で、
でも、確かに存在した、最初の重なり。
――アクアリウムが開いた日。




