第三十六話
「お嬢様、お待ちしておりました。ご機嫌、麗しゅうございます」
「……なにそれ。いきなり英語で話しかけないでよ。
反応しちゃったじゃないの」
「いやいや、さっきまでVIPのお客様のご案内をしててさ。
舌が完全に英語モードのままだった」
そう言って、彼は少し照れたように笑った。
「それに――VIPリストに桐谷御一行様ってあったから。
もしかしたら、どこかですれ違えるかなって。
三日間、会場を見回してたんだ」
「……そんなこと、してたの?」
「母さんにも聞いてたし。
“きみのお母さんなら見つけられる”って思ってたんだけど、
まさか、果歩ちゃんに先に会えるとは思わなかったよ」
「なんで、あんたのお母さんが先に知ってるのよ」
「母さん同士で、メール交換してたなんて」
「ひどい……。私にも教えてくれてもよかったのに。
なんか、いやんなっちゃう」
少し拗ねた声に、彼は懐かしそうに目を細める。
「こんなところで仕事?」
「旅行会社のVIP担当通訳。
まあ……これが最後だけどね。今月いっぱいで退職する」
「……じゃあ、その先は?」
「フリーランスの通訳者、かな」
一拍、間が空く。
「この場所が、始まりだったからさ。
今日は助けてあげられたけど――
あの時は、何もできなかった。
少しでも言葉が使えたら、って……ずっと思ってた」
「……凄い決意ね。そこまで考える?」
「普通じゃないかもね」
彼は肩をすくめて、ポケットからチョコパイを取り出す。
「チョコパイ、食べる?」
「いらないわよ」
「だよね」
くすっと笑って、彼は果歩の横顔をじっと見る。
「あの頃と、随分変わったね。背も高くなって。
でも――ほら、その耳のホクロ」
果歩が無意識に触る。
「“虫がついてる”って、よくからかわれてたよね。
それで、すぐ分かった」
「……そんなこと、よく覚えてるわね」
「忘れるわけないよ」
少しだけ、昔の距離が戻る。
「今日、空いてる?」
「午後から橋の跳ね橋見学。
そのあと、懐かしのクッパの店。
夜はライトアップを近くで見る予定」
「じゃあ――明日。
海雲台アクアリウム、行かない?」
「時間、あんまりないよ?」
「少しだけでいいから」
「……了解。
帰りは荷物持ってるから、よろしくお願いします」
「待ち合わせは?」
「アクアリウムの前でいいね」
一瞬ためらってから、彼が言う。
「……一応、電話番号、交換しとこうか」
「うん」
画面に登録される名前を見て、ふたりとも、少しだけ笑った。
「じゃあ、明日」
「……明日」
別れる背中に、長い時間が、静かに追いついてくる。




