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風の時代  作者: velvetcondor guild


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第三十二話

新世界百貨店 センタムシティ

夕暮れから夜へ

地下鉄の改札を抜けた瞬間、空気が変わる。

潮の匂いが、完全に消えるわけじゃない。

けれど、ここには別の匂いがある。

革、香水、紙袋、コーヒー、そして――人。

新世界百貨店。

かつて「世界一大きい百貨店」と呼ばれた場所。

エスカレーターを上がるたび、

視界が少しずつ、現実からずれていく。

天井は高く、

光は白く、

床は磨かれすぎて、

歩く自分の姿が、ほんのり映る。

「……迷子になりそう」

果歩は、そう思いながらも、

足が止まらない。

ファッションウイークの気配

いつもより、人の密度が違う。

明らかに「買い物目的じゃない人たち」が混じっている。

細い身体、長い脚、

無言で歩く黒い服の集団。

首から下げたバックステージパス。

英語、フランス語、

時々、低く抑えた日本語。

「Five minutes, please.

No photos here」

スタッフの声が、

百貨店の空気を、

一瞬だけピンと張り詰めさせる。

果歩は、思わず、

柱の影に身を寄せる。

モデルらしい女性が、

スマホで自分の顔を確認している。

ほとんど化粧をしていないのに、

目だけが、やけに強い。

「ああ……ほんとに、違う世界だ」

昔の記憶が、重なる

ふと、足を止める。

ガラス越しに見える噴水。

音楽に合わせて、ゆっくり動く水。

――昔。

まだ小さかった頃。

母の後ろを歩きながら、

「触っちゃだめよ」と言われた場所。

あの頃は、

この建物が、

こんなに生き物みたいだとは思わなかった。

今は違う。

新世界は、

買い物をする場所じゃない。

**「人が流れ込んで、吐き出される場所」**だ。

フロアを歩く

コスメフロア。

ガラスケースの中で、

リップが宝石みたいに並ぶ。

テスターを試す人たちの手元は、

皆、無言で、真剣だ。

「Try this one」

流暢な英語。

返事は、韓国語。

その横を、日本語が通り過ぎる。

果歩は、

香水を一つ、軽く試す。

――少し甘くて、

でも、潮風に負けない匂い。

「……釜山の匂い、変わったな」

昔は、

もっと、港だった。

ファッションフロアへ

服の並びが、

明らかに攻めている。

肩の線が鋭いジャケット。

歩くたびに音を立てる布。

鏡の前で、

モデルらしい女性が、

無言でジャケットを羽織る。

スタッフが、

ピンで裾を留める。

「Perfect」

その一言で、

その場の空気が、完成する。

果歩は、

少し距離を取って、

その光景を眺める。

「……映画みたい」

でも、これは、

演出じゃない。

ここでは、これが日常なのだ。

カフェのざわめき

少し疲れて、

カフェに入る。

テーブルの間隔は広く、

でも、完全な静けさはない。

ノートパソコンを広げる人。

資料をめくる人。

モデルらしき女性が、

ブラックコーヒーだけを飲んでいる。

果歩は、

甘いものを頼む。

「やっぱり、私は、こっちだな」

フォークを入れると、

ケーキが静かに崩れる。

夜へ

外に出ると、

百貨店の外壁が、

ゆっくりとライトアップされている。

人の流れは、

まだ途切れない。

「迷子になりそう、って言ったけど……」

果歩は、

自分の足元を見る。

「……ちゃんと、歩けてる」

昔、

母の後ろをついて歩いていた場所。

今は、

自分で、選んで、歩いている。

ホテルへ戻る前に

スマホを見る。

夕食まで、まだ少し時間がある。

父は、

今頃、部屋から海を見ているだろう。

母は、

たぶん、Eストアで水を選んでいる。

「……いい旅だな」

新世界の灯りを背に、

果歩は、ゆっくりと歩き出す。

釜山は、

昔のままじゃない。

でも、

ちゃんと、繋がっている。

そう思える夜だった。

グランドジョシアン釜山 夜

カードキーの電子音が、小さく鳴る。

ドアを開けると、部屋の照明は落とされていて、

窓際だけが、ほの明るい。

父は、ソファに腰を下ろし、

グラスも持たず、

ただ、海を見ていた。

「おかえり」

それだけ。

「ただいま」

果歩は、靴を脱ぎ、

カーテンの隙間から、夜の海を見る。

波は、昼よりも静かだった。

ライトアップされた橋が、

水面に、ゆっくり揺れている。

「……新世界、どうだった?」

「人、多かった。

でも……楽しかった」

父は、少しだけ、うなずく。

しばらく、何も言わない。

部屋の中には、

遠くの車の音と、

エアコンの低い風の音だけがある。

やがて、父が、ぽつりと言った。

「変わったな」

果歩が、顔を向ける。

「街も、人も。

でも――」

父は、言葉を探すように、

一度、窓の外を見る。

「ちゃんと、戻ってくる場所は、残ってる」

それで、終わりだった。

それ以上、何も付け足さない。

果歩は、もう一度、海を見る。

夜の釜山は、

静かに、そこに在った。

——旅は、始まったばかりだった。


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