第十七話
耕作は、その場を動かなかった。
自動ドアの向こうで、風の音だけが続いている。
中には入ってこない音。
寮の玄関ホールは、広いのに、
今は彼ひとり分しか使われていない。
エレベーターの前に立つ。
ボタンは、もう押してある。
赤いランプが、静かに点いたまま動かない。
足音がしない。
話し声もない。
さっきまであったはずの言語が、
全部、床に沈んでいる。
スーツケースの取っ手を、握り直す。
力は入れていないのに、
離す理由もない。
壁に貼られた掲示。
英語と韓国語で書かれた注意書き。
読む気は起きない。
意味は、もう十分に分かっている。
時計を見る。
まだ一分も経っていない。
それでも、
時間だけが、少し形を変えた気がした。
家にいるときの一分とは違う。
誰かを待つ一分とも違う。
これは、
自分ひとりで立っている一分だった。
エレベーターの奥で、
かすかに、機械の気配が動く。
音になる直前の、
ぎりぎりの沈黙。
耕作は、背中を壁につけず、
まっすぐ立ったまま待つ。
守る人はいない。
呼ばれる名前も、まだない。
ただ、上に行くだけだ。
チン、と
小さな音が鳴る。
扉が開く。
耕作は、一歩前に出る。
その動きに、ためらいはなかった。
無音の時間は、
ここで終わった。
釜山日本人学校中等部を出て、
この島、この学校を選んだのは、
誰かに勧められたからでも、
流れで決まったからでもない。
自分で決めた。
海外で生きるなら、
一番役に立つ勉強をする。
一時的に楽な場所ではなく、
一番、鍛えられる場所に身を置く。
言語。
考え方。
判断の速さ。
責任の取り方。
ここで身につかなければ、
どこへ行っても同じだと、分かっていた。
通訳という道を、
まだ誰にも宣言してはいない。
けれど、
この世界で一流になる人間が、
どんな場所を通ってきたかは、
もう、調べ尽くしている。
だから、
中途半端で終えるつもりはなかった。
寂しさも、不安も、
覚悟の外に置いてきた。
ここに来ると決めた時点で、
それらは、
引き受ける前提のものになっている。
エレベーターのランプが、
静かに階数を下げてくる。
耕作は、
「頑張ろう」とは思わなかった。
ただ、
やるだけだと、思った。
それだけで、十分だった。




