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風の時代  作者: velvetcondor guild


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第十二話

その日は、

学校のある平日だった。

子どもたちを送り出してから、

二人の母は、海雲台のバス停で待ち合わせた。

「遠くないですか」

松田母が、少し慎重に言う。

桐谷母は、時刻表を折りたたみながら、

「……日帰りでも、帰りはちょっと遅くなるかもですね」

と言っただけだった。

行ける、とも

行けない、とも

言わない。

けれど、

松田母はその場で、

行く流れに身を任せていた。

高速バスは、

釜山を離れると、

音だけが残った。

海が見えなくなり、

代わりに、低い山と工場の影が増える。

「この辺りから、空気が変わるんです」

桐谷母が、

窓の外を見たまま言う。

「釜山ほど、潮の匂いはしなくて……

でも、落ち着く人も多いです」

松田母は、

それに、すぐには答えなかった。

しばらくしてから、

「……暮らすって、そういう違いなんですね」

と、独り言のように言った。

桐谷母は、

うなずいただけだった。

大田は、

派手ではなかった。

観光地らしい看板も少なく、

人の歩き方も、少しだけ速い。

eマートで、

二人は昼食用のキンパを選んだ。

「これは、辛くないです」

「こっちは……少しあります」

断定はしない。

けれど、外さない。

松田母は、

その買い物の仕方を見て、

少し安心した。

帰りのバスで、

松田母は、ぽつりと言った。

「……最初は、

 ちゃんと母親でいられるか、

 分からなかったんです」

桐谷母は、

少し考えてから、

「……ちゃんと、って、

 後からついてくるものかもしれません」

と言った。

それ以上は、

言わなかった。

釜山に戻るころ、

空はもう夕方だった。

海雲台の灯りが見えたとき、

松田母は、

初めて自分から言った。

「……また、出かけてもいいですか」

桐谷母は、

笑わずに、うなずく。

「予定が合えば」

言い切らない。

けれど、拒まない。

その距離感が、

この土地で暮らすための

最初の支えになった。


釜山に戻るころ、

空は、もう夕方だった。

海雲台の灯りが、

一つずつ点き始める時間。

バスを降りて、

二人は並んで歩いた。

会話は、

もう、ほとんどなかった。

言うべきことは、

移動の途中で、

だいたい終わっていた。

角を曲がると、

日本人学校の制服が見えた。

ランドセルの代わりに、

少し大きなリュック。

靴を引きずる音。

笑い声。

「……帰ってきましたね」

桐谷母が、

それだけ言う。

松田母は、

その背中を見て、

胸の奥で何かが落ち着くのを感じた。

果歩が、先に気づいた。

「お母さん?」

少し驚いた顔で、

立ち止まる。

耕作は、

一瞬だけ、状況を見てから、

何も聞かずに会釈をした。

それだけで、

十分だった。

「大田まで行ってたの」

桐谷母が、

子どもに向けてではなく、

空に向けるように言う。

「へえ」

果歩は、

それ以上、踏み込まない。

耕作も、

「お疲れさまです」とだけ言う。

その距離感が、

ちょうどよかった。

四人で、

短い道を歩く。

夕飯の匂いが、

どこかの家から流れてくる。

「お腹、すいた?」

松田母が聞く。

「少し」

耕作は、

正直に答える。

それを聞いて、

松田母は、

理由の分からない安堵を覚えた。

別れ道で、

桐谷母が足を止める。

「じゃあ、ここで」

それだけ。

また会うとも、

連絡するともしない。

けれど、

次があることは、

誰も疑っていなかった。

子どもたちは、

それぞれの家に戻る。

同じ夕方をくぐって。

母たちは、

同じ一日を終えた。

それは、

不安が消えた日ではない。

けれど、

不安と一緒に歩けるようになった

最初の日だった。



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