後編
夢でも幻聴でも脳の病気でもないらしい。うっかり非合法のおクスリをキメちゃった覚えもない。
ただ本当に──目の前のパンツが喋っている。
「お待ちしてました!」
「……お待たせしました……?」
こういうとき、どんな顔をすればいいかわからない。笑えば……いや、笑ってどうにかなる状況じゃない。
「今日もお仕事お疲れ様でした。冷えてますよ」
俺のパンツが、家で冷えてる。
心ウキウキワクワクしない。
しかし、パンツの言葉だけは染み入る。外は暑かったし、仕事は疲れたし。
そもそも自分なんて、クソみたいな仕事終わりのアルコールだけが人生唯一の楽しみで、さりとて自分から仕事を取ったら何も残らない。気の合う友人も彼女もいない。
このまま、どこへ出しても恥ずかしいアラサーおじさんは、アラフォーになりフィフになりいつのまにか孤独死するんだろうな、と将来を憂う日々に、
「あ、お酒はシャワーのあとにします?それでしたら私の隣に置いておいてください。浴び終わったら、私と一緒にどうぞ」
若い女の子の優しい声。沁みる。
パンツだけど。
「パンツなんだよなぁ……」
思わず声が出た。パンツは冷蔵庫の中できょとんと──いやもともと微動だにしてないんだけど無機物だし。なんかそんな気がしただけ──
「パンツ、ですけど……不満、ですか?」
そう、小さく呟いた。
不満はない、けど。
助けた鶴が美女に化けて恩返しに来た、が児童向け古典文学として受け入れられる国だ。擬人化性癖を幼少期から植え付けるのが教育方針だ。
そりゃ、パンツ冷やしたら当然──
当然、可憐で黒髪ショートで八重歯がかわいいボディラインが平坦な美少女がメンズ下着だけを身につけて訪ねてくると思うじゃないか!
とは言わず。
「ウウン全然不満なんてないヨー」
元来、嘘は苦手だ。
「そもそも私を冷やしたのは貴方ですよ」
「そうだね」
「責任、とってくれますか?」
「何の???」
ハートに恋の火をつけたなら責任を取る必要がある。それはこの前、Xで流れてきた恋愛漫画をうっかり誤タップしちゃって読んじゃって知った。
パンツを冷やした責任って何?PL法?それは俺が負うものなの?
「私は貴方によって、今までとは全く違うモノへと、変質しました──」
パンツは、まるで過去を慈しむように。将来への漠然とした不安を滲ませるように。
それでいて、今までの自分自身とは決別した意思を感じさせる声色で告げた。
擬人化したら、窓辺に立って横目で夕陽見ながら言ってる感じで。
「私が変わったのは、貴方のおかげであり、あなたの所為でもあるんですよ」
「…………なるほど?」
自分の所為、とまで言われるとは思わなかったが、確かにそうなのかもしれない。
パンツはもともと冷やして使うよう作られてはいない。想定外の使い方を強行したのは自分だ。
己の欲のために。風呂上がりのパンツを、あったか〜いからつめた〜いにしたい、という欲が、パンツを変異させてしまったのだ。
「…………そうなのかな?」
「そうですよ間違いなく」
「そうなのかなぁ……」
「したっけ」
したっけ、とは北方民族の言葉で「そうしたら」といった接続詞。今までの話の流れを汲みつつ「ですから、」と話題を若干変える時にも用いる。
「貴方はなにも変わらないのですか?」
ヴーン。
冷蔵庫のコンプレッサーの唸りと共に、パンツは静かに、そう告げた。
「……は?」
「毎日地下鉄に揺られて北13条イーストで降りて、部長さんの愚痴に付き合いながら、つまらない仕事を適当にこなして、ビール飲んで寝るだけの日々を──いつまで続けるんですか?」
北13条イーストは市営地下鉄の駅で、職場の最寄りで。
何故知っているかは知らない、普段よく履くパンツだからかもしれない。
そんなことより。
いつまで……死ぬまで……?
「貴方が変われるのは、いつですか?」
「俺が…………」
人生はチャレンジの連続だ。
なにかが変わるかもしれないと、新しい趣味を探してみたり、転職してみたり、普段着ない服を買ってみたり。
そう、変化への欲求はあった。
パンツを冷やしてみたのもそのひとつだ。
変わらない日常を、ほんの少しでも変えてみたいと──そう、思ったから。
そんなもん誰だってそうだろう。少し背伸びしてみたり、いつもと違う道をなんとなく歩いてみたり、普段聴かないプレイリストをSpotifyで数秒くらいは探したことあるだろ?
変化。
冷やして使うようには作られていない、綿とポリエステルの布を、冷やしてから履くように。
俺の人生には、そのくらいのデケェ変化が必要なのか……?
「……変わるってのは怖いもんでさ」
語り始めたのは、言い訳で。
「物理的に冷やしたりあっためたりしたら、程度によっちゃ死ぬしさ。死ななければかすり傷って、手足切断してもソレ言えるんかって話」
「そんな極端じゃなくてもいいんですよぅ」
「でもさあ──あ、ビール飲んでもいい?飲みたくなっちった」
「どうぞどうぞ」
「どうもどうも」
冷蔵庫全開のままビールを開ける。コンプレッサーがまた恨めしそうに唸るが、今は大事な話をしているので少し黙っていてほしい。
「でもさぁ、人間変わるっつったら、そのくらいの覚悟は必要だべ?着てる服を黒系から白系に変えて何になるってさ」
服装を変えれば明るく見られるかもしれない。話しかけやすいかもしれない。
それが一週間続けば、その姿は日常になる。
「そんな単純じゃねえんだよなあ。じゃ起業すっか?世界を見て回るか?そんな金も無ぇし、な?人間が変わるってのはなかなかどうして──」
「服を変えたらいいじゃない」
しかし、毅然と。
パンツは、冷風を浴びながら、はっきりと言い放った。
「服を変えたらいいじゃない、髪を切ったらいいじゃない。靴下を短いのにして、鞄をリュックにすればいいじゃない。貴方は、」
冷風を纏うパンツは饒舌で。
その言葉には熱があって。
ビールを手にしていた身体が、傾聴すべく固まった。
「何にだってなれる。パンツ以上にも以下にもなれない、私とは違う」
「…………泣いて、いるのか?」
なにを、言っているのか?
パンツは泣かない。布だし。
いまの誰かに録音されてたら終わるな、と秒で正気に戻る。
パンツはきっと、何かになりたい訳じゃない。その気になれば何者にでもなれる俺を、僻んだりしている訳でもない。
何者にもなろうとしない俺を、きっと半分は、軽蔑してるんだ。
残りの半分の心境なんて知らない。パンツの心は読めない。
もしかしたら軽蔑100%かもしれないけど。
べこ、と。まだ半分以上残っているビールの缶が凹んだ。力を入れて握りすぎていたらしい。
「…………お前はさ、パンツだよ」
値引シールの貼られたベーコンと、残りひとパックになったまま賞味期限の切れた納豆。
その間に挟まれるパンツをまっすぐ見つめながら、言った。
「俺も人間だよ、それは変わらない。それ以上にもそれ以下にも、なろうったってなれない」
言いながら、ベルトを外す。
上下セットで9,990円だったスラックスを床へ転がし、足を上げてどこで買ったかも覚えていないパンツを脱ぎ捨てる。
全身を固めるのはノーブランドの安物だ。金があったらブランド品を買い漁るかどうかは、金がないからわからない。
たられば、なんて所詮は妄想でしかない。
自分が変わった後のことなんて、変われたあとのことなんて、絵空事にも程がある。
「無理に変わる必要なんて無いんだ。ただ──」
冷蔵庫に手を伸ばす。
ひんやりとした感触が、指先に伝わる。
キンキンに冷えた、とまではいかない。それでも、下着らしからぬ温度に、神経がヒリつく。
パンツが一瞬、言葉にならない声を漏らしたような気がした。
「いつもと違う刺激を感じるくらいで、俺やお前みたいな庶民には丁度いい。だろ?」
冷えたパンツを指先へ、足首へ、くるぶしへ──
定位置へ。
「「んん……っ……!」」
ふたり(一人と一枚)の声は、サッポロの夜に溶けて。
「さっっっっむ!寒すぎません今日?!」
「マイナス2度はまだ平気だろ」
「無理無理無理わたわた私の使用温度はぷっプラス気温でででででで」
冬になっても、俺たちの奇妙な関係は続いていた。
いつも通り地下鉄に揺られ、北13条イーストで降りて、黒っぽく変色した雪山の脇を通る。
「明日から私を炙ってください!直火で!!」
「お前、難炎素材じゃないだろ……」
ICタグを入退室リーダーにかざし、階段を登る。
「じゃあ私に難炎スプレーを、」
「駄目だよサッポロ市民にスプレー缶持たせたら。すぐ爆発させるから。あとそろそろ黙って」
「はぁい……」
事務所に入り、先に来ている社員に雑な挨拶を返しながら、リュックタイプのビジネスバッグを置いた。
椅子に座る。PCの電源を点ける。
短い丈の靴下の隙間から、ひんやりとした空気が入り込んだ。
そう、そのくらいでいい。
無理に変わる必要なんてない。
ただほんの少し、冒険してみるくらいで。
「おはよーす。お、そのリュックどう?秋くらいからずっとそれじゃん」
「はよっす部長。動きやすくていいっすよ」
「んんー、俺もそうしよっかなー」
普段履いてるパンツを試しに冷やすような感覚で、ひとつでもふたつでも何かを変えてみれば。
意外と世界はちゃんと変わる。かも。