元の世界に帰らせていただきます
死を迎え、転生する——そんな話は、よくあるファンタジー物語で聞いたことがあったけど、まさか自分の身に起こるとは夢にも思っていなかった。
それも、たったひとつの手鏡が原因なんて……。
「これは新居に持っていこう。こっちは処分かな」
葬儀が終わり、私は静まり返った自宅へ戻ると、おばあさまの自室へと足を踏み入れた。
明日から私は、一人暮らしを始めることになっている。通っている中学も転校して、遠い親戚に形式上の保護者として名前だけを借りる手続きも済んでいた。
後は簡単な遺品整理を終えたら、自分の荷物をまとめてこの家を出ていくだけ。
「あれ、これって……」
おばあさまが大切にしていた鏡台の引き出しをそっと開けたとき、目に飛び込んできたのは一つの手鏡だった。
『みんなは夢でも見たのだろうって言うけれど、私はそうは思わないの。あの素敵な紳士さんとの出会いを、私は一生忘れることがないから』
ただの古びた手鏡がこんなにも魅力的に見えるのは、いつの日か小春おばあさまが話してくれた素敵な物語を思い出したからだろうか。
わたしは、しばし鏡に映った自分を見つめた。
小春おばあさまと揃いのピンクがかった茶髪。昔に見た、小春おばあさまが少女だった頃とよく似た自分の容姿を……。
「な、なんなの、この光……!」
突如現れた青白い光に包まれ、あまりに眩しい光にわたしは強く量目瞑る。
そして、次に目を覚ました時には、そこには見慣れない世界が広がっていた。
「コハル? コハルなのかい……?」
驚いたように目を見開いて、小春おばあさまの名前を呼んだ男の人。
煌めく銀髪に、ライトブルーの瞳。
わたしは、一目で彼がおばあさまの言っていた『ルグィーンさま』なのだと分かった。
そう、わたしは小春おばあさまが言っていた話の通り、異世界へと飛ばされてしまったのだった。あの手鏡によって。
そんな異世界生活にも、わたしはすっかりと慣れてしまった。
わたしがこの世界にやってきてから、既に数年の月日が経過していたから。
「ああ……ソフィア様は知りませんでしたわよね? よろしければ、わたくしが教えて差し上げますわよ」
「アナスタシア様は本当にお優しいですね。異世界からやって来たなどと訳の分からないお方にまで親切にされるなんて」
「当然のことです、ペリドット嬢。わたくしはガーデンルチア公爵家の味方ですもの」
ご令嬢たちの嫌味ったらしい言い方に、思わず苦笑が浮かぶ。
わたしが社交界で馴染めないことは至極当然のことだった。生まれも育ちも、何もかも違いすぎる彼女たちとは何もかもが合わなかったから。
そして、彼女らから嫌われる一番の理由は、彼女たちの憧れの存在である『ヴィクトル』の婚約者になってしまったことだろう。
この世界に飛ばされたから一番初めに出会った小春おばあさまの想い人、ルグィーン・ガーデンルチア公爵様は初め、この世界に身寄りのないわたしを養子にしようとした。
小春おばあさまの少女時代と瓜二つのわたしを放ってはおけなかったのだろう。直接口にはされなかったが、彼がおばあさまを思う気持ちは会話の節々に現れていた。
当然、訳の分からない異世界人の娘をガーデンルチア公爵家の養子にするという話を聞いた親戚や家臣たちは猛反対した。
たった一人の息子であるヴィクトルが不慮の死を迎えた時に、わたしが全てを奪わないかと警戒していたのだろう。
しかし、ルグィーン公爵様はそこで引き下がらなかった。
養子を認められないのならと、一人息子のヴィクトルの婚約者として私を迎え、花嫁修業の名目で屋敷に置くという強硬手段に出たのだった。
身寄りのないわたしにとって、公爵様の選択は感謝してもしきれないほど。
ただ、それが周囲にとってどれほどの迷惑だったかは理解しているつもりだ。
特に、ヴィクトルには本当に申し訳が立たなかった。
父親の初恋なんかのせいで、よく分からない異世界人が婚約者になってしまったのだから。
「さっきから口を閉ざしたままですが、わたくしの話を聞いておりますの? ソフィア・ハーデンベルギアさん?」
「え? ああ、もちろん聞いてますよ。アナスタシア嬢」
昔の記憶に浸っていると、つい彼女の話を無視してしまったようだ。
不機嫌そうに顔をしかめるアナスタシアに、急いで笑みを向けておく。
ソフィア・ハーデンベルギア。
この名前は、ルグィーン公爵様がわたしに与えてくださったもの。
過去に、鏡の向こうの世界でわたしが呼ばれていた名前とは似ても似つかない華やかな名前。
今では、ソフィアという洋風な名前で呼ばれることにもすっかり慣れてしまった。
「本当にマナーがなっていませんね、ナイフとフォークの使い方も不慣れですし、よろしければわたくしが幼い頃に使っていた子供用食器の職人を紹介いたしましょうか?」
だけど、この意地悪な令嬢たちには全く慣れない。
どうしてこんなにも鬱陶しいんだろう? わたしのことが嫌いなら、無視していればいいのに。
わたしのことが心底嫌いなくせに、何度も招待状を送ってくるものだから困ったものだ。
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「ガーネット侯爵家のご令嬢に紅茶をぶっかけたんだって?」
「……はい?」
ご令嬢たちとの面倒なお茶会から、数日間が経った頃。
朝食を終え、ソファーでお茶を飲みながら読書をしていると、反対側のソファーで寝転がっていたヴィクトルがわたしに声をかけてきた。
この男は、一体何を言っているの?
甘いものの食べすぎで、ついに頭がおかしくなってしまったのだろうか。
「ガーネット侯爵家は我が家とも古くから縁のある家だ。いくら腹が立ったとしても、紅茶をかけるのはやりすぎだろ」
面白可笑しそうに言うヴィクトルの衝撃的な発言に、わたしは本から視線を外してぴたりと動きを止めた。
紅茶をかけた? わたしが……?
ガーネット侯爵邸を去る直前、アナスタシアに食器のマナーを指摘されて、周囲がクスクス笑って……まあ、恥をかかされたのは事実。そして、久しぶりに本気で腹が立ったのも事実だ。
だけど、わたしがあの女に紅茶をかけるなんてことするはずないでしょ?
『わたしはこの辺りで失礼します』
『あら、まだお茶会は終わっておりませんわよ? まさかご用意した一流品の紅茶がお口に会いませんでした?』
『そんなことはありません、とても美味しかったですわ。だからこそガッカリなんです、せっかくの美味しい紅茶もお菓子も、愚かな嫉妬が混ざれば不味くてたまらないですから』
あの後、アナスタシアは何かごちゃごちゃ言っていたけれど面倒なので全部無視した家に帰った。
まさか、あれに腹を立てて、わたしに紅茶をかけられたって嘘をついたわけ?
はあ……どれだけ暇なのよ、あの女は。
「向こうから喧嘩を吹っかけてきたのよ。わたしはただ、それに言い返しただけで……」
「彼女はただ挨拶をしただけだと言っていたが?」
「そんなの嘘に決まってるでしょ。それに、わたしが紅茶を人に向かってかけるはずないじゃない、もったいない!」
「俺だって、ビビりなお前があの大蛇のような女に紅茶をかけたなんて思ってないさ。適当に、形式的な謝罪の手紙でも送っておけって話だ」
「なによそれ……してもないことを謝罪しろっていうの?」
「その通りだ」
「そんなのおかしいじゃない、わたしは何もしていないのに」
「お前の言うことにも一理あるが、それがこの世界のルールなんだよ」
そう言って、ヴィクトルはひょいと身を起こしたかと思えば、テーブルに置いてあったクッキーを摘んで口に放り込む。
「あっ、ちょっと! それはわたしの分でしょ! 自分の分はさっき自分で食べてたじゃない!」
「うるさいなあ、夫婦は一心同体だって言うだろ? お前の分は俺のもんなんだよ」
「何を言うの、この婚約に納得いってない一番の人間のくせに! 都合の良い時だけ利用しないで!」
腹立ちまぎれにクッションを投げつけたけれど、ヴィクトルはひらりと避けてソファの背にもたれた。
訳も分からない異世界での暮らし。
それを、わたしはそれなりに楽しんでしまっていた。
小春おばあさまと同じ選択をいつかはしないといけないと分かっていても、今、この瞬間がとても楽しかったから。
だからこそ、わたしに罰が下されたのかもしれない。
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「うっ……ゴホッ!」
これは、夢か誠か。
一体、何が起きているというのだろう?
「きゃああっ!」
「誰か、誰かお医者を呼んでちょうだい!」
「しっかりしてください、アナスタシア様!」
耳に飛び込んでくる悲鳴の連続と、地面に崩れ落ちているアナスタシアの姿。
あまりに突然すぎて、頭の中がまるで追いついてくれなかった。
今日、わたしはルグィーン公爵様とヴィクトルに付き添い王室主催のピクニックに参加していた。
不本意ながらも、ご令嬢たちの輪の中で美味しいぶどうジュースを飲んでいたはず。
珍しくわたしを居ない者として扱ってくれると思っていたら、まさかこんなサプライズを用意していたなんてね? さすがだわ、アナスタシア。
情報量が多すぎて上手く頭は回らないが、今、わたしの目の前に広がる赤黒い液体を吐き出したのがアナスタシアだということだけは、はっきりと理解できた。
「一体、誰がこんなひどいことを……!」
いつもアナスタシアと一緒になってわたしに嫌味を言ってくる令嬢の一人が震える声で叫んだ。
その声を合図にしたように、周囲にいた人々の視線が一斉にわたしへと向かう。
分かってる。あなたたちが例え口にしなくたって、その目が全てを語っているから。
「…………」
わたしのたった一人の家族、優しくて穏やかな小春おばあさま。
まだ命を落とすような歳でもなければ、健康診断だって問題なかったはずなのに。
『ゲホッ、うっ……ゴボッ!』
突然苦しそうに咳き込んで、皺が刻まれた手で口元を押さえたおばあさまの姿と、目の前で苦しそうに顔を歪ませるアナスタシアの姿がわたしの中で重なった。
どれだけ元気そうにしていても、命というものは簡単に簡単に消え去ってしまう。
あの世界でも、この世界でも、それは同じこと。
「アナスタシア! しっかりしなさいよ、アナスタシア!」
慌てて駆け寄ったわたしは、反動的にアナスタシアの両肩を掴み、叫んだ。
憎悪に染まったアナスタシアの黄金色の瞳に、ゆっくりとわたしが映し出される。
「全部あんたのせいよ……あんたさえ居なければ、全てが上手く行っていたのに……」
顔を真っ青にして、真っ青になった唇から紡がれた憎しみの言葉に、わたしは唖然とすることしかできないのだった。
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「今回の件は全て私が解決しておく、君は何も心配することはない」
「申し訳ございません、公爵様……」
自室のベッドに座り、ルグィーン公爵様へ謝罪の言葉を絞り出すと、堪えていたはずの涙が不意に片目から零れ落ちた。
そんなわたしを見た公爵様は、「今日はもう休みなさい」とだけ告げると静かに部屋を後にした。
扉の閉まる音がやけに重く響き、ひとり残された部屋の空気が一段と冷たく感じられる。
王室主催のピクニックから、わずか三日後。
誰しもが、あの世紀の大事件の犯人がソフィア・ハーデンベルギアだと思っていたが、結局全てはアナスタシアによる自演工作だったという。
動機は、わたしを犯人に仕立て上げ、自分こそがヴィクトルの妻となり、ガーデンルチア家の公爵夫人になるため。
何ともバカバカしい話だ。
それだけのために魔力石を飲み込み、本当に吐血までしたというのだから、その執念深さはもはや尊敬すべき域に達していると言ってもいい。
納得できるようで、まるで理解できない。あまりにもぶっ飛んだ考え方に、ただ呆れることしかできない。
ルグィーン公爵様はああ言っていたけど……。
アナスタシアがどれだけ卑怯な策略を巡らせていたところで、人々は彼女を称賛するでしょうね。
己の身を犠牲にしてまで、わたしのような邪魔者を排除しようとした英雄とでも評されているんじゃないかしら?
「おい」
不意に落ちてきた声に、わたしはゆっくりと顔を上げた。
この部屋に、ノックも挨拶もなしに入ってくる人物はたった一人しかいない。
「ヴィクトル、何しに来たの?」
彼は片手をポケットに突っ込んだまま、少しだけ眉根を寄せてわたしを見下ろしていた。
「父上からお前がガキみたいに泣きじゃくってるって聞いたから、慰めに来てやったんだろ」
「嘘言わないで、公爵様がそんなこと言うはずないでしょ? それにわたしは泣いたりしないから」
「ハイハイ」
呆れたように言ったかと思うと、ヴィクトルはポケットからシルクのハンカチを取り出すと、わたしの目元に浮かんでいた涙を拭う。
乱暴な言い方なくせに、優しいところは昔から変わらないのね。
この世界に来てから三年。短いようで長い三年間、わたしはいつもヴィクトルと一緒だった。
ヴィクトルが巷で流行していた伝染病にかかった時、わたしは高熱でうなされる彼の傍にずっといた。
普段は大人びたことばっかり言っているくせに、死んだ母親が恋しいと言葉をもらす彼の手を握り続けたことが、昨日のことのように感じる。
高熱にうなされ、朦朧としたライトブルーの瞳を見るたびに、自分が代わってやりたいとどれだけ願ったことか。
わたしの涙を拭った後、ヴィクトルは何も言わず部屋の窓際に置かれたソファへと寝転がり、わたしの読みかけの本を取ると、そのまま本の世界へと入り込んでしまった。
彼の背後、大きな窓からは一面のハーデンベルギアが咲き誇っている。
ハーデンベルギアが一番美しく見えるこの部屋は、数十年前、小春おばあさまが使っていた部屋だという。
娘が欲しかったルグィーン公爵様の母親、前公爵夫人に気に入られ、何不自由なく楽しく邸宅で暮らし、ルグィーン公爵様と恋に落ちた場所。
初めてその話をおばあさまから聞いた時は、どうして帰って来たのか不思議だった。
だけど、今なら分かるような気がする。
もちろん、おばあさまの場合は年の幼い姉弟たちが居たってこともあるだろうけど……。
どれだけ自分を守ろうとしてくれる人が傍に居ても、周囲の人間から向けられる巨大な憎悪に耐え切れなかったのだ。
いくらルグィーン公爵様が良くしてくださるからと言って、これ以上迷惑はかけられない。
それに、彼が見ているのはわたしではなく、わたしの姿を通して記憶の中に居るおばあさまに浸っているだけなのだから。わたしはそれが、何だか少しだけ寂しかったような気がする。
「ねえ、ヴィクトル」
本から視線を逸らさず返事をした彼の横顔を見つめながら、わたしはゆっくりと口を開いた。
「あなたも、わたしが元居た世界に帰ればいいって思う?」
「……は?」
手を滑らせたヴィクトルの顔に、本がバサッと落ちた。
少し赤くなった鼻を押さえながら、驚いたように目を見開いてこちらを見つめる。
「急になんだよ?」
「だってそうでしょ? 皆、わたしが居ない方がいいって思ってるわ」
「誰かにそう言われたのか」
「直接言われなくたって分かるわよ」
ああ、何が虚しくって自分でこんなこと言わなくちゃならないの?
ヴィクトルは珍しく真剣そうな顔をしたかと思えば、深くため息をついて、またソファへと横になってしまった。
落とした本を拾い直し、今度は日差しを遮るように顔の上へと乗せる。
「ああ、そうだな。お前が居なければ、我が家がこんなに騒がしくなることはないし、父上がくだらない初恋の想い出なんぞに苦しめられることもない」
わたしはヴィクトルの言葉を聞きながら、ゆっくり身を起こすと、ベッドの横に置かれた小さなタンスの取っ手に手をかけた。
「だが、お前が誰かに虐げられているなら……ソフィア?」
鏡の持ち手部分を両手で握りしめると、恐る恐る鏡に自分の姿を映し出した。
この鏡を手に取ったのは、いつぶりになるだろう? この世界にやって来た時に、庭園のどこかへと飛んでしまった鏡を見つけたのは丁度半年前のことだった。
わたしは、今日の今日まで勇気を持つことができなかった。
けれど、やっと決心できた。覚悟を決めれたのよ。
ありがとう、ヴィクトル。あなたがよく言っていた、夫婦は一心同体だって話もバカに出来ないかもしれないわね。
まあ、わたしたちは永遠に会うことはなくなるのだけど。
「本当は、もっと早くに帰らなくちゃダメだって分かっていたの。だけど……あなたと過ごした日々があまりにも楽しかったから」
「何を言って……」
「初めてだったの、小春おばあさま以外の人でわたしに優しくしてくれたのは。わたし、本当に嬉しかったのよ、ヴィクトル」
我慢していたはずなのに、目が潤んでいくのを感じる。そして、頬を伝って両目から涙がこぼれ落ちた。
ああ、これはさすがに言い逃れできないわね。
あなたと居ると、わたしはいつも泣いてばかり。
わたしが泣く度にあなたはバカにしてきたけど、仕方ないでしょ? いつも涙を拭ってくれるあなたがずっと傍に居たんだから。
「バイバイ、元気でね」
わたしがこの世界から消えることを知れば、少しは悲しむ顔をしてくれるんじゃないかって思っていたけど……そんな期待も虚しく、眩い光に照らされてヴィクトルの顔は全く見えなかった。
そして、わたしの身体は本来いるべき世界へと飛ばされたのだった。
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「それぞれ好きなものを描いてくださって構いません。食べ物でも、景色でも、なんだって構いませんよ。まずは画具に慣れることが大切ですから」
美術教師の穏やかな声に、「はーい」と気の抜けた返事がいくつも返ってくる。
気怠い午後の光が差し込む美術室には、絵の具の匂いと気ままな筆の音が交じり合っていた。
人間という生き物は、驚くほど器用に作られていて、行方不明と扱われた三年間のあと、わたしは意外なほどあっさりとこの世界に順応した。
家にシェフは居ないから自分でご飯を作る。
メイドも居ないから、自分でアイロンをかけた制服を着て。馬車も従者もないから、自分の足で学校に通うの。
わたしは、一人でも何とか上手くやれている。
友達だって多くはないけど居るわ。あの世界では、ただの一人も出来なかったのに。マナーがなってないって言われたわたしが、この世界では品の良いお嬢さんだって言われているの。
向こうで公爵夫人として花嫁修業を頑張ったおかげで、成績も良くて、先生たちからの評判も良い。公爵様が用意してくれた家庭教師の先生たちからは、いつも怒られてばっかだった、このわたしがよ。
「ハーデンベルギア……」
「え?」
背後から囁かれた言葉に、驚きのあまり手から力が抜け、持っていた筆がコロリと転がっていく。
「ごめんなさいね、突然声をかけてしまって。その絵、ハーデンベルギアでしょう?」
「大丈夫です、ちょっとボーッとしちゃって。先生、この花を知っているんですか?」
「昔、夫に結婚記念日に貰ってから大好きな花なの。素敵な花よね、美しく、可憐で、花言葉は"出会えて良かった"……だけど、どうして紫色のハーデンベルギアを水色で塗っているの? 被写体にしている写真は、ちゃんと紫色なのに」
「あ……すみません、ダメでしたか?」
「いいえ、美術に不正解なんてないわ。ただ、少し気になっただけなの、気にしないで。水色のハーデンベルギアも美しいわね、完成を楽しみにしているわ」
「はい、頑張ります」
先生に言われ、わたしは水色の油絵の具が付いた筆をそっと置くと、キャンバスを見つめ直した。
わずか数十センチの限られた空間に描かれた、見慣れた屋敷と、ハーデンベルギアの花を。
換気をしていても独特に漂う油絵具の香り。
それは、わたしに過去の記憶を思い出させた。
『仮にも公爵家の跡継ぎが絵を描くとか、バカげてるだろ』
『そんなことないと思うけど』
『そんなことあるんだよ。こんなこと、マヌケなお前にくらいしか言えないっての』
『ま、まぬけって……。レディーに意地悪言っちゃダメって公爵様に教わらなかったの? このバカ!』
『物を投げつけてくるレディーがどこに居るんだ』
いつものように憎たらしいことを言うところは変わらなかったけど、あの日はいつもよりもずっと優しい目でわたしを見つめてたと思う。
公爵邸の一番日当たりの良い、あの部屋で。
わたしは翠の椅子に腰を掛けていて、あなたは紫のカーテンで日当たりを調整した後、乱暴に椅子に座った。
『今でもお前との婚約は納得いかないし、父上の考えにも不満しかないけど』
『俺は、お前と出会えて良かったって思ってるよ』
彼の目がこちらへ向くたび、胸が妙に落ち着かなくなったのを確かに覚えている。
「……わたしも、あなたに出会えて良かったって言えば良かったな……」
油絵具の上に落ちた涙は、弾けるように浮いていた。
突如涙を流し始めたわたしに動揺したクラスメイトや教師がざわめく中、わたしは涙を拭うことなく、絵を描き続けた。
大好きな人たちと過ごしたかけがえのない記憶を頼りに。
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「おばあさま、ただいま」
玄関に飾られた小春おばあさまの写真に挨拶をして、わたしは制靴を脱ぐと小走りで自室へ向かった。
誰もいない静かなマンションの一室。幼い頃からおばあさまが大切にしていた鏡台の前に座り、長いあいだ触れることのなかった引き出しに手をかける。
引き出しを引いた瞬間、ふわりと埃が舞い上がり、その奥から一つの手鏡が姿を現した。
前に見たときと何ら変わらない、美しい装飾の施された、おばあさまの宝物。
おばあさまは言っていた。
公爵様のことがとても好きだったけど、大切な家族や、やるべきことがあったから、この世界に戻って来たと。
そして、もう二度と向こうの世界へ行くことはないと決めていたのに、どうしても処分することができなかったと……。
この世界に帰ってきてから、わたしにも守りたいものが増えた。学校、友達、未来……。
ソフィア・ハーデンベルギアに戻ることなんて、もう二度とないと思っていたはずなのに。
わたしは結局、この鏡を処分することなどできなかった。
あの時は運よくヴィクトルたちの居る世界に行けただけで、今度は時代も場所も、まったく違う世界に飛ばされる可能性だってある。
それでも、わたしは……。
『わたしって、こんな顔してる?』
何日間もかけて、ヴィクトルはようやく完成した絵を見せてくれた。
美しい紫色のハーデンベルギアの花の中で、楽しげに笑うわたしの絵を。
『なんだよ、文句言うなら描かせなきゃよかっただろ』
『違うよ、文句なんてどこにもつけようがない』
『じゃあ、何?』
『ただ……わたしって、こんなふうに笑ってるんだって驚いちゃったの』
大丈夫。今度は、わたしの意志であなたに会いに行くから。
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視界が白く焼きつくほどの強い青白い光。
空に放り投げられたような浮遊感とともに、風が制服の裾を大きく揺らす。
重力さえ忘れさせる不思議な感覚に身を任せて、わたしはゆっくりと地面へ降り立った。
「……ソフィア?」
数年ぶりに聞いた懐かしい名前。
その声の主は、聞きなれない大人びた低音を響かせた。
見慣れた屋敷の庭園で一人佇んでいた男は、驚きに瞳を見開き、わたしを見つめる。
「ソフィア、本当にお前なのか……?」
「久しぶり、元気にしてた? あなたにどうしても伝えたいことがあったから飛んできちゃった」
「何を言って……俺が、どれだけお前を……!」
「怒らないでよ、ヴィクトル」
私は眉尻を下げて笑うと、数年の時を経て、実にカッコよく成長したヴィクトルの頬に手を添えた。
「あなたに出会えて良かったって。わたしもそう思ってるって、どうしても伝えたかったの」
少しでも面白いと思っていただけましたら下にある☆マークから評価をお願いいたします。感想、レビューもお持ちしております。とても励みになります⋈*.。
冒険しすぎた気がします
書いてて楽しかった




