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プロローグ 松平信康、すべてを失う

 天正7年(1579年)、徳川家は危機に直面していた。


 徳川家独立の折、織田徳川間で清洲同盟が締結された。同盟に際し、徳川家康の嫡男である松平信康と信長の娘である徳姫が婚儀を結ぶと、両家は婚姻関係となった。


 金ヶ崎や、姉川、長篠をはじめ、多くの苦難を乗り越え、両家の蜜月は永遠に続くかに思われた。


 徳川家の元に嫁いだ徳姫が、織田信長に「信康とその母が武田に内通している」と密告するまでは。


 きっかけは徳姫と家康の正室にして信康の生母である瀬名との不仲であった。


 元々、今川の縁者である瀬名と今川義元の仇である信長の娘である徳姫との折り合いが悪く、両家の架け橋となるはずだった両者の対立は日に日に深まり、ついには徳川家と織田家の外交問題に発展したのだった。


 家康の居城である浜松城では、信長の要求を巡り日夜家臣たちの議論が行われていた。


「信長め……信康様と奥方様の首を差し出せなどと……」


「だいたい、信康様と奥方様が武田と内通しているという話も(まこと)かどうか怪しいではないか!」


「そうじゃそうじゃ!」


「信長め……かような讒言(ざんげん)を真に受けようとは……大方、信康様の器量を恐れて亡き者にしようと考えたに違いないわ」


「その通り! まったくもってその通り!」


 徳川家臣たちが口々に不満を述べる中、重臣である石川数正が皆を制した。


「皆の者、殿の御前であるぞ」


 石川数正の言葉に家臣たちが姿勢を正すと、やがて家康が口を開いた。


「忠次より、信長様から返事を賜った。……内通の疑いを拭いたければ瀬名と信康に腹を切らせろ、とのことじゃ」


「なんと……」


「そんな無茶な……」


 依然として強気な信長からの要求に、家臣たちに動揺が走る。


「かくなる上は、信長との戦も辞さぬ覚悟! 殿! この本多平八郎に信長を討つようお命じください! 我が命に代えましても信長めの首を挙げてご覧に入れましょう!」


「よせ」


 血気に逸る本多忠勝を家康が制する。


「……織田家は今や日ノ本の半分を手中に収めようとしておる……我らが反旗を翻したところで、浅井長政の二の舞いになるだけじゃ」


「では……殿は若君と奥方の首を差し出すおつもりなのですか!?」


 本多平八郎――本多忠勝の悲痛な問いかけに家康が俯いた。


 信長に逆らったところで勝ち目はない。


 しかし、従えば自分の妻と息子の命を奪うことになってしまう。


 お家と家族。どちらを取るべきか……


 長い沈黙の末、家康は小さく呟いた。


「信康と瀬名を呼べ」







 信康の居城、岡崎城に家康から招集命令がかかると、信康は僅かな手勢と共に浜松を目指していた。


「まったく、親父も何を考えているんだろうな……突然浜松まで来いだなんて……」


「大方、次の戦に備えて前線に詰めさせようとしているのでは?」


 信康の家臣、永井直勝が言った。


「それにしては妙だろ、お袋まで浜松に呼びつけるなんて……」


「それは……たしかに妙ですな」


 信康と永井直勝が二人して首を傾げる。


 やがて、信康が口を開いた。


「……決めた。俺はゆっくり向かうゆえ、直勝よ。ひとつ浜松の様子を見てきてくれないか」


「はっ」


 信康の命を受け、永井直勝が早馬を走らせる。


 しばらくすると、永井直勝が血相を変えて信康の元へ戻ってきた。


「た、大変にございます! お、大殿が殿のお命を……」


「どういうことだ?」


 永井直勝から事の次第を聞くと、信康はしばしの間考え込んだ。


 徳姫のこと、自分の母である瀬名のこと。……両者の不仲はわかっていたが、それがまさかお家を揺るがす一大事に発展していたとは……


「直ちにお逃げください! このまま浜松へ向かっては、殿は亡き者とされてしまいます!」


「直勝」


 羽織を脱ぎ上半身を露わにすると、信康は脇差を抜いた。


「俺はこの場で腹を切る」


「えっ!?」


 信康の突飛な行動に永井直勝が目を白黒させた。


「俺の首で一つで家が残せるなら安いもんだろ。……できることなら、お袋の命も助けたかったがな……」


「ですが……殿は武田とは内通しておらぬでしょう! なにゆえ殿が腹を召さねばならぬのですか!」


「じゃあ、俺のために舅殿(しゅうとどの)を……信長を敵に回せと懇願(こんんがん)するのか? 優しい親父のことだ。そんなことをしたら、親父は信長を敵に回しちまう。……できるわけがないだろ。俺のためにお家を滅ぼしてくれだなんて……」


「殿……」


(とが)もないのに身内に腹を切らせるなんて、親父だって苦しいはずさ。……それなら、命じられる前に腹を切れば、多少は気も楽になるってもんだろ」


「…………」


 言葉を失う永井直勝をよそに、信康が脇差を構えた。


「介錯は頼むぜ、直勝」


 今にも切腹をしそうな信康をよそに、永井直勝は固まっていた。


 信康の言っていることは理に適っている。しかし、だからといって罪もない主君を切腹させるなど、耐えられない。


 いったい、どうしたら……


「お待ちください!」


 信康の腹に刃が刺さろうとしたその時、何者かが信康に制止をかけた。


「あ、あんたは……」


「服部半蔵……」


 服部半蔵といえば、家康直属の配下にして伊賀出身の忍び。それが、いったいなぜここにいるのか。


「殿の命にございます。……直ちに徳川の領国よりお逃げください」


「なんだと!?」


 服部半蔵の言葉に信康は耳を疑った。


 今ここで自分を討たず、それどころか逃がすなどと、紛れもなく信長に対する反逆だ。


 そんなことをしては、徳川家がどうなるかわかったものではない。


「親父が……俺に逃げろと言ったのか!?」


 服部半蔵がこくりと頷く。


「それじゃあ、徳川家はどうなる! ……まさか、信長と一戦交えるつもりか!?」


「さにあらず! 殿は信康様を死んだようにみせ、信長を欺こうというおつもりなのです」


「なっ……」


 家康の大胆な計画に、信康と永井直勝が目を剥いた。


「わかっているのか。下手すりゃ、家が吹っ飛ぶんだぞ!?」


 元々有していた濃尾に加え、畿内を手中に収めた織田信長の権勢は、今や天下人に等しいものとなっている。


 その信長に逆らうということは、天下を敵に回すに等しい。


 それがわからないほど、家康も愚かではないはずだ。


「親父……」


 信康の瞳に僅かに涙が滲んだのを、永井直勝は見逃さなかった。


 信康を死んだことにするということは、もう二度と岡崎の地を……徳川の地に足を踏み入れられないということ。


 すなわち、今後は二度と信康が家康と会うことができないということだ。


 戦国の世の習いとはいえ、これだけお互いに認め合っている親子が離れ離れになるのはやるせないものがあった。


「これよりは船で徳川領を離れ、我が故郷である伊賀までお連れいたします。……彼の地には信長を良しとせぬ者も多い。信康様が身を隠されるにはちょうどよいかと」


 信康と永井直勝が頷く。


 二人を連れ、服部半蔵は浜松からほど近い小さな港町までやってきた。


「ここから船に乗り、伊勢から伊賀へ向かって頂きます。……あとはこちらの手の者でなんとかいたしましょう」


「わかった」


「頼りにしてますぞ、服部殿」


「では、拙者は船を調達してきます。お二人はどこかに身を隠してくだされ」


 服部半蔵が足早にその場を後にする。


 残された信康と永井直勝は辺りを見回し、


「身を隠せったって、どうしたもんかなぁ」


「ひとまずは、あの海の家に身を潜めては?」


「そうだな」


 二人が海の家に向かおうとすると、どこからか見覚えのある影が迫ってきた。


「信康ー! 信康はおるかー!」


「お、親父!?」


 突如としてその場に現れた家康に驚きつつ、信康が姿勢を正した。


「どうしてここに……」


「決まっておる。……これが今生の別れになるやもしれぬからな……父として、最後に一目お前の姿を見ておきたかった」


「親父……」


 家康が見せた最後の親心が信康の心に染みる。


「これよりお主は“松平信康”の名を捨て、徳川とは縁もゆかりも無き地で生きることとなろう。……されど、儂はいつでもお前のことを想うておる。……そなたの母上も、お主をいつも見守っていよう」


「…………!」


 家康の言葉が信康の心を揺さぶった。


 この口ぶりからして、信康の母である瀬名は既にこの世にはいないということなのだろう。


 こんなことになるのなら、もっと孝行すればよかった……


 そう思わずにはいられない。


「時に信康よ、浜松を出たら、お主は“松平信康”という名を捨てねばなるまい。……新たな名は考えてあるのか?」


「何も。船の上で適当に考えようと思っていたところさ」


「ならば、“世良田(せらだ)二郎三郎(じろうさぶろう)”と名乗るがよい」


「世良田……二郎三郎?」


「若い時分、儂の祖父、松平清康公が名乗られていた名じゃ」


「…………」


 ここから先、信康と家康は赤の他人として生きていかなくてはならない。それでも、信康が自分の息子であった証を細い糸にして残そうとしているのだ。


「世良田二郎三郎……」


 新しい名前を確かめるように何度も口の中で復唱する。


「……気に入った。今日から俺は世良田二郎三郎と名乗るよ」


 家康が信康と……世良田二郎三郎と視線を合わせる。


 語りたいことは山程ある。やり残したこともある。しかし、時が経てば経つほど名残惜しくなってしまう。


 それがわかっているからか、家康は手を叩いた。


「半蔵、もうよいぞ」


「……気づいておいででしたか」


 海の家の陰から服部半蔵がひょっこりと顔を出した。


 どうやらこちらに気を遣って隠れていたらしい。


「男の別れに言葉はいらない……だろ?」


「ふふっ、まったく、知った風な口を聞きおる……」


 世良田二郎三郎の軽口に家康が頬を綻ばせるのだった。





 天正7年(1579年)9月15日、徳川家康の嫡男、松平信康が歴史の表舞台から姿を消した。


 それと同じくして、世良田二郎三郎という男が乱世に名乗りを上げたのだった。

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[一言] 田島先生! おかえりなさいませ! 連載開始嬉しいです。 日々の楽しみが増えました! 水野忠
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