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「そりゃあ、誰も教えてくれなかったからだろ。スライド上映のときだって、魂がパッカーンってなったことしか聞いてないし、玉座の間でも、俺はずっと寝たふりしてたから誰とも会話してないし」
「内側からパーッと知識が流れ込んでくる感覚とか、なかったですか?」
「あったら苦労しないよ」
玉座の間では、訳が分からないまま追放が決定して、絶望したのである。
少しでも世界の知識があれば、全力で言い訳をするつもりだった。
アリシアは、タヌキの顔でも分かるほど困惑する。
「おかしいですね。魂を混ぜ混ぜした段階で、王弟殿下の知識がご自身のものとして認識できるはずですが……」
「え、そうなのか?」
「うまく混ざっていればの話ですけど……」
「うーん……」
啓助は自分の心の中に呼びかけてみる。
(おい、本物ギルロード! いるのなら返事をしてくれ。混ざっていないのなら、別人格なんだから返事できるだろ? 完全に混ざっているのなら、この国の情報とか、もっと教えてくれよ。あのパワハラ兄貴の弱点とか……)
だが声も聞こえなければ情報も湧き出てこなかった。あまりにも反応がないので、呼びかける方法が合っているのか分からない。
「……全然ダメだ」
啓助は洗面台に両手を突き、がっくりとうなだれた。
「混ぜ方が足りなかったんでしょうねえ。私も初めての経験でしたから、加減が分かりませんでした。ポポポー」
足下でアリシアも、小さくため息をつく。
「私、チョコレートケーキを作るみたいに、しっかり混ぜたつもりでしたが、チョコマーブルパンぐらいの混ざり方だったのかも。修行が足りていませんでした」
どこまでも食い物から離れないタヌキ聖女である。
「いまからでも、追加で混ぜる方法ってないのか?」
「あることにはありますよ」
アリシアは、あっさり言った。
「え、できるのかよ」
半分諦めていただけに、驚かずにいられなかった。
「どうやるんだ? もう一回、頭に道路標識をブチ当てるとか? できれば痛くないやり方がいいんだが……」
「そんな野蛮な方法じゃないですよ、クルッポー」
アリシアは威厳に満ちた口調で続ける。
「貴方にギルロード殿下としての自覚を植え付ければ、いまよりはよくなるはずです」
「だからどうするんだ?」
「私をハトではなくタヌキだと決めたように、貴方もギルロードだと、きっちり決めてしまえばいいんです」
「それって……五十崎啓助としての記憶が消えてしまうってことなのか?」
さすがに不安になってきた。
魂が粉微塵になったとはいえ、自分が五十崎啓助だという自覚はあるのだ。
消えてしまうと考えただけで、ゾッとする。
今度こそ自我が崩壊しそうだ。
啓助の恐れをよそに、アリシアは自信満々に言う。
「消すんじゃなくて、混ぜるんですよ。とりあえずやってみましょう」
アリシアは二本足で立ち、短い前足を振り上げた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。まだ心の準備が……」
「大丈夫ですよう。怖くない怖くない」
「特にそのタヌキ姿じゃ不安が……」
アリシアが前足を振り下ろすと同時に、頭の中で何かがパチンパチンと切り替わった。
一瞬目が眩むが、すぐに視界が戻る。
アリシアは四つ足で近づき、心配そうに首をかしげた。
「どうです? ギルロード殿下としての自覚は出てきましたか?」
「……変な感じだ」
軽く頭を横に振った。
五十崎啓助としての記憶は失われていない。
だが同時に、ギルロードという名前が完全にすり込まれた気がする。
(俺の名前は……啓助って感じじゃないよな。そうだ、ギルロードだ……)
元の名前は確かに覚えているが、他人の名前のような気がしてくる。
自分の名前はギルロード。
ギルロード・フィルス・リーファニアだ……。
(日本での名前を忘れそうだな……)
しかし忘れてしまっても、元の世界に戻る予定がない以上、ギルロードという名前がすり込まれたほうが、混乱しなくていい気がする。
(いまならギルロードって呼ばれても、迷いなく返事ができそうだ。この名前に慣れてなかったらキョドって怪しまれそうだし、これでいいんだろうな……)
「体調に変化もなさそうですね。よかった」
アリシアは自分の成功を確信したのか、満足げに目を細めた。
「それでは私もこれから貴方のことを、ギルロード殿下とお呼びしますよ。……いえ、これから追放されるから、旅の間は本名じゃなくてギイって呼んだほうがいいのかもしれませんね」
アリシアが言い終わるなり、頭の中でパチンと音がした。
慣れた感覚である。
(あー、今度は自分がギイって感じがしてきたな。ギルロードでギイ。いい名前じゃないか)
啓助――ギイは己の名前が、すっかりなじんだ気がした。
満足したとたん、重大なことに気づく。
「なあ、俺は追放といっても、表向きは転勤扱いなんだろ? なんで偽名っぽい名前で旅する必要があるんだ。町に立ち寄り、王弟として視察しつつ、任地へ赴くんじゃないのか?」
アリシアの呑気なタヌキ顔が険しくなった。
「そういう楽な旅だといいのですが……たぶんそうならないと思います、ポポー」
ギイは嫌な予感がした。
「パワハラ王に敵認定されているのが、王国中に広まっているから……とか? 歩いていたら、石を投げられたりするのかな」
アリシアは難しい顔でうつむく。
「単なる敵認定だといいのですが……最悪の場合、旅のどさくさにまぎれて、不審な事故死ということもあり得ます」
「は!?」
「むしろそのために、追放されたのかもしれません。――旅の途中で、勝手に死んでほしいというか、死んでも自己責任というか」
「はああああ!?」
「国王陛下としても、死刑のための裁判が省略できるので、都合がいいでしょうねえ。ポルルルー」
ギイはアリシアの、もふもふした身体を掴み、上下に揺さぶった。
「ちょっと待てよ、なんでそこまでして俺を殺したいんだよ、あのパワハラ兄貴は! ていうか、クーデターを計画したって証拠を握っているんなら、面倒がらずにちゃんと裁判をやって、そのうえで死刑でも何でもすりゃいいだろ。人間の命が掛かっているのに、手抜きすんな!」
「ポポルポポル。私のせいじゃないのに、揺すってはダメです。さっき食べたおいもが、ケルケルッと口から出ちゃいますよう」
アリシアが苦しそうな声を出したので、ギイは揺さぶるのをやめた。
「あ、悪い。アリシアが追放を決めたんじゃなかったな。でも、ひどい話じゃないか」
「王弟殿下ともなると、粗略にできないご身分なので、簡単に死刑にはできませんよ。特にギイ、貴方の場合は複雑な事情があるのです」
アリシアは一息ついたあと、説明をし始めた。