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枯れ木の撓り

作者: 雉白書屋

「あ、あなた……」


「……酒」


 平太は家に帰って来るなりそう呟き、リビングのソファーに腰を下ろした。

 妻が缶ビールとそれを注ぐグラスを慌ただしく用意するが手が震え、床に落とし割れた音に平太は片目を閉じる。


「グラスはいいから! 早く!」


 舌打ち二回、ため息一つ。平太がリビングに入って来てから続いていたそのローテーションは喉に流し込んだビールによって、ようやく途絶えた。

 大きく息を吐き、天井を見上げる平太。ふわんとアルコールの匂いが漂うも鼻の奥に染みついた血の匂いは消えない。

 あるいはこの部屋の匂いか。平太は周囲を見渡し、鼻をひくつかせる。捉えたのは洗剤と安物の消臭剤の香り。そしてふと目についたテーブルの足の血痕。


「おい……そこ、残ってるぞ」


「あ、あ、ごめんなさい……すぐ拭きますから……それで、うまくいったの?」


「ん、ああ、まあな」


「まあなって……」


「初めてなんだから、わかるかよ……。だが多分、大丈夫だ。見つからない」


「誰かに見られたりとか」


「多分、大丈夫だ」


「多分って……」


「だからどこの誰が見てたかなんて、ああもういい。とにかく埋めるとき誰もいなかった。大丈夫だ」


 平太の脳裏に生い茂った草と土の匂いが蘇る。汗臭さも。と、これは今もしている。脇の下と背中、それとおなかも湿っている。嫌な汗だ。歪める顔。それを、ほぐすように表情筋を動かす。

 過去を思うのはやめよう。今はこの酒を呑んで、それから風呂入って眠って……。


「車、どこかにぶつけたりしなかった?」


「ゲホッ、ん、まあ」


「え……? ぶつけたの!? 人!? 人を撥ねたの!?」


「ば、ばか! 大声出すな! 大体、そんなわけないだろう。ちょっと擦っただけさ」


「それって他人の車? マズいわよ。今に警察が来るわよ……」


「違うっての。ガードレールだよ。誰も気にしないさ」


「そうかしら……」


「お前、どっちの味方だよ……」


 そう言い、平太はまたビールを流し込む。味は先程よりも薄かった。妻は幽霊のように立ったまま平太を見つめる。無言の時間が続く、やがて口を開いた。


「あのね……」


「うん?」


「あなた、こ、こ、殺したじゃない? あの男を」


「ん、ああ」


「それでね、わ、私、見てられなくて、ほら、あの男、中々死ななくて、息もコヒューコヒューってまるで、陸に上がった魚みたいに口をパクパクさせて目だって――」


「思い出させるなよ……で、何が言いたいんだ?」


「ああ、それでね、ここに居たくなくて家の外に出たの。空気をね、吸いたくて。でね、ちょっとその、気配というか、落ち葉を踏んだような音がした気がして、庭の方に回ったのね」


「ああ、早く結論を言えよ」


「……いたの」


「チッ、だからなにが?」


「お隣のお婆さん」


「……は? は?」


「いたのよぉ、ホントよ?」


「いや、待て待て、は? 隣って、そこのか? 耄碌婆さん?」


「前からちょくちょくうちの庭に勝手に入ったりしてたのよ。よりによってあの時も……」


「お前、何でそれを早く言わねえんだよ! ああ、そうだよ、前から知ってたら夜だし正面は塀があるからって油断せず、とっととカーテンなり雨戸を」


「言ったことあったわよ! あなたが人の話を聞いてないんでしょ!」


「な、大体、あいつのことだってなぁ」


「ごめんなさい、そうよね……私がしっかりしてたら、あの男にあんな高い物売りつけられなかったものね。全部私が悪いんだものね。お金だって返って来ないだろうし、揉めて、あなたがこ、こ、殺すこともなかったものねぇ……」


「だから、お前も手伝っ、チッ、まあいい。で、どうなんだ?」


「どう? すぐに逃げてったわよ。嫌な笑顔だったわぁ。ホント。ブツブツ呟いて……。覗きが趣味なのよきっと。

お隣との境は低い柵だからバタバタと逃げて、ああもうなんで全部、塀にしなかったのよぉ。建てた時、考えなかったの? だいたいほら、あっち、スーパーに行く道に今建ててる、どなたかのお家はお隣との境は共有じゃなくてしっかりと」


「む、昔の家だからしょうがないだろう。俺に言われてもなぁ」


「はぁ……建てたのはとっくの昔に亡くなったお義父さんだものね。まったく厄介な」


「おい、その言い方はないだろう!」


「大きな声出さないでよぉ、聞こえちゃうわ」


「んで、見られてたか? 言ってもレースのカーテンはあったし」


「わからないわ。でも、見られてたと思う」


「おいおいおいじゃあ、俺の苦労もはぁ……クソ……」


「でもわからないわよ? だってあの人、ボケちゃってるもの。ペラペラペラペラ喋ったところで家族が信じるかどうか。

逆に、だまーってるかもしれないし、だってボケちゃってるもの」


「あまりボケボケ言うなよ」


「人のこと言えないって? ふん」


「で、隣はそうだ、その婆さんの下に息子と嫁。と言っても、もう結構な歳で、それから孫。これも」


「無職よ無職。いい歳してねぇふふふ。で、それがどうしたの? え、まさか……」


「今は夏だ。窓は開けているはずだ」


「無理、無理ぃ無理よぉ……大体あなた、若い時だって身軽じゃなかったくせに今は足腰も……」


「やるしかないだろう。二人そろって捕まったらどうするんだ」


「私は捕まるとは限らないけど……」


「おま、お前……ふぅー、まあいい。もう何時間かすれば夫婦は眠るはずだ。親父の方は毎晩、鼾が聞こえるほどの爆睡だ」


「ああ、奥さんの方は睡眠薬を飲んでるんですって」


「へへっ、鼾のお陰か。で、脛かじりだが」


「いつもラジオの音がうるさいのよぉ夜なのにね。あれじゃない? 昼夜逆転してんじゃない?」


「じゃあ、起きてるか……いや、それだけうるさければバレないか? いやさすがに……」


「あ、でも最近は夜中、プラプラと呑みに行くみたいよ」


「なんだよ、それを早く言えよ。まあどちらにせよ、もう少し待つしかないか」



 そして数時間後、平太たちは家の明かりを消し、息を潜め耳を澄ました。


「無職の孫の方は出かけたみたいよ」


「ああ。で、鼾も聴こえる。親父さんは完全に寝ているな。一階のリビングの窓も開いているみたいだ」


「不用心ねぇ。信じられないわぁ。田舎の出かしらね。で、本当に行ってくるの?」


「ああ。……え、お前は来ないのか?」


「二人で行っても足音とか増えちゃうだけでしょう」


「まあ……な、よし、じゃあ行ってくる」



 平太は庭に出ると隣との境の柵を越え、そして隣の家のリビングに通じる網戸を開けた。

 気を付けてはいたものの音が鳴り、平太は唾を呑んだが問題はなさそうだった。

 妻の話によると老婆の部屋は二階にあるようだ。

 ベランダに出て、通りを見張るように目を光らせている姿を何度か見たことがあるらしい。足腰はまだ丈夫なのかもしれない。階段を音なく上ろうとすると関節が鳴り、痛みも覚えた。どこか負けた気分だ。

 階段を上がりきると真っ暗闇の中、まるで洞窟の奥で眠る怪物のような鼾が聞こえた。だが、それはむしろ平太に安心感を抱かせた。

 平太は鼾の部屋を無視し、他の部屋のドアを開ける。

 一つ目は外れ。奥さんの部屋のようだ。ここからも鼾が聞こえ「よしよし、よく寝てるな」と平太は少し、頬を緩めた。

 老婆がいるのはやはり、ベランダがある部屋のようだった。

 ドアを開けると部屋の真ん中に敷かれた布団が真っ先に目についた。

 眠っているようだ。と、同時に死んでいるかとも平太は思った。夏だというのに布団を首まですっぽり被せ、口は半開き。こけた頬。閉められたカーテンの間から入る月と外灯の光は、まるでそれをミイラかのように見せたのだ。


 そして平太は良かった、とも思った。この様だ。いつ死んでも、それほどおかしな話ではないだろう。

 平太はゆっくりと近づき、そしてしゃがんだ。

 

 ――すまないなぁすまないなぁ。


 ふと、念仏のように頭に浮かんだ。次いで少し涙ぐむ。躊躇いはあった。が、伸ばす手はゆっくりと、ゆっくりと首に……。

 

 と、その時であった。


 平太はハッと目を見開き、後ろに振り返った。何かの気配を感じたのだ。

 鼾は聞こえている。いや、聞こえすぎている。音を立てないよう、ギリギリのところまで閉めたはずのドアが今は開いていた。そしてそこにいたのは


「あなたぁ」


「お、お前……ばっ! なにして! 馬鹿!」


「しぃー、だって、ほら包丁忘れて行ったじゃない。私、届けに――」


「ばかっ! ばかばかばか! ぼけ! そんなもの使ったら自然死に見せれないだろうがばか!」


「しぃー、何よもう、失礼ね」


「ふぅー、あ、おい、どこ行くんだ」


「どこって帰るのよ」


「いや、手伝えよぉ!」


「しぃー! もううるさいわよぉ、起きちゃ、あ、あ、あ、あ」


 再び布団の方を向いた平太が悲鳴を上げなかったのは、そこになにがあるのか妻の反応から想像がついていたからか、それとも針が振り切れたように、恐怖がそれをただの息として吐き出させたのか。平太にはわからなかったが、平太が目にしたそれは口をぽっかりと開け、まるで悪霊が生者の魂を吸い込むように平太から悲鳴ごと命を奪おうとしているようだった。

 平太は口を閉じ息を呑み、老婆の首をギュッと掴んだ。


「あ、あなた……」


「ばかっ! 見てないで手を、ババアの手を抑えろっ」


 平太は声を殺し、妻に指示を出す。老婆は網にかかった魚のようにバタバタと暴れた。


「早く、早くそんな細い首へし折っちゃってよっ」


「ばかばかばか! それじゃ包丁を使わない意味がないだろうがっ」


 妻が老婆の両腕を抑え、平太は老婆を倒し、馬乗りになる。

 片方の手は首に。もう片方で鼻と口を塞ごうとするが上手くいかない。手に涎が付き、かなりの不快感を抱いたが、そうも言ってられなかった。


「お、おいっ、お前、片手でババアの両手首を抑えろよっ。それで、空いた片手で鼻を塞げっ」


「無理よっ、すごい力だわっ」


「お前が非力なんだよっ」


「いいから早く殺して! 殺してよこんなの!」


「ああ、わかってるよ! くそっ!」


 平太は老婆の口の中に手を突っ込み、喉を塞いだ。そして、これで悲鳴は上げられないだろうと判断し、首にかけていた手で今度は鼻を塞いだ。

 今日一日で時間が長く感じられたのは何度目だろうか。だが、大して経過していないことは平太にはわかっていた。

 これも、そう。老婆は最後、ビクンビクンと三度ほど反り返り、そして動きを止めた。

 見開かれた目、その眼球は平太と妻、それぞれに向いていた。

 平太はズポッと腕を老婆の口から引き抜くと、それを自分の服で拭き、息を吐いた。酒の匂いはせず、ただただ臭かった。


 どちらからともなく、もう帰ろう、と二人は部屋を出る。

 家に戻ると、二人は黙ったまま寝支度を始めた。

 そして泥のように眠った。長すぎる一日だった、と。


 翌日、かなり寝坊したことも外にパトカーが停まっていたことも何ら不思議なことではなかった。

 隣の老婆が死んだ件だろう。洗面所でうがいをしつつ、平太はあれは全て夢だったのではと、ぼんやりとそう思った。

 だが、洗面所に駆け込んできた寝癖混じりの頭をした妻の慌てた様子に現実に立ち返った。


「あ、あ、あ、あ、あなた、そ、そと」


「あ……ああ、知ってるよ。パトカーだろ? まあ、大丈夫だろう。

一応事件性がないか調べに来ただけで、それもすぐ終わるさ。

うちには来ないだろうし、ああ、ははは。なんなら隣の夫婦が介護疲れとかで殺したとでもなってるかも――」


「ち、ちち、ちが、違うのよぉ! ああもう、なんでなんで、あなたのせいよぉ、もぉ、だから嫌なのよぉ、ボケた老人はぁぁあぁぁ!」


 平太が泣き崩れる妻を押しのけ、玄関のドアをそっと開けるとそこには、よく曲がった小さな背中があった。

 警官相手に喋り続けるそれは平太にびっしりとキノコを生やした枯れ木を思わせた。



「うちの平太ったらねぇ昔から運動できなくてピーピー泣いてねぇ。

そうそうイジメられて帰ってきたこともあったんですよぉ。

でもね、肉まんとあんまんを食べるとケロッと機嫌を直してねぇ。

でもそれでまた太っちゃってねぇ、うふふふ、え? あ、そうそうですからねぇ、うちに来た知らない男をやっつけた時はびっくりしましたよぉ。

包丁でね、ざくざく! あ、でもうふふ、やっぱり下手というかねぇ変な動きであははははは! そうそう中学生の時にね、運動会でダンスしたんですけどね、平太だけ変な動きであっはっはっはっは!

ああ、でも夜ね、お隣の柵を乗り越えた時はね、中々、おっと思う動きだったんですよぉ。

あの子も頑張ったんですねぇ、ああ頑張ったと言えば高校生の頃、初めて彼女をうちに連れて来た時ね、あの子ったらうまくできなかったのかしらねぇ、頑張ったんだろうけどうふふふ、まあしょうがないわよねぇ、そうそうあの子ったらパンツが染みだらけでねぇ、ああ、あとね、え? そうなのよぉ、お嫁さんともね、喧嘩ばかりでそうそう昨日もグラスがね、割れた音であたし目を覚ましちゃってね。隣の部屋だからそうよく聞こえてねぇ。

ああでも駄目ね、あの嫁は。自分が責められそうになるとその前にしおらしく謝ったり、逆に平太を責めたりするんですよぉ! そのくせね! 自分も悪いくせに平太だけが悪いみたいな態度でね! あたし、あたまきちゃってね!

責めると言えばね、あたしのことも責めてくるんですよぉ、もうほんと嫌よねぇ。

あたしがせっかく親切な薬屋のお兄さんから、いいお薬を買ったのに勝手に返品しようとしたりしてねぇ。

きっと遺産が減るのが嫌なんだわ。でも平太も平太よね。ああそう、平太と言えば、あの子ね――」

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