毒とあの子と
この世界には、「毒」を持った人間がいる。
生まれつき皮膚の体細胞に毒を分泌する器官を持っている人、
それが「毒持ち」だ。
毒持ちの皮膚に触れれば、長さ、五マイクロメートル、幅、一マイクロメートルの皮膚に生えた極小の針から分泌される猛毒によって、五分以内に死に至る。
そう。毒持ちは、いわば、生まれながらの殺人鬼。
厄介なのは、本人にその気がなくても、誤って殺してしまう可能性があること。
だから、その正体を絶対に悟られないよう、これまで生きてきた。中学生で親元を離れて一人暮らしし、手袋やマフラーで皮膚を覆い、季節を問わず長袖の服を着て、常に細心の注意を払って生活してきた。
全ては平穏な、普通の生活を送るために。そうやって生きてきたのだ。
――ずっとずっと、長い間。
授業が終わった。私は荷物をまとめて席を立つ。よれてしまった手袋をつけ直し、マフラーを巻き直して顔を覆う。
「ねーこの間のニュースさ、ホントなのかな?」
「えーあの毒人間の話?」
クラスメイトの話が、耳に入ってくる。
「何ー、あんたまだあんな噂信じてるの? あんなの絶対都市伝説だって。それより、今はあの爆弾魔の話でしょ?」
「まあ、そうだけどさー。でも、もしかしたらあたしたちの周りにもいるかもしんないよ? 毒人間」
「いたら、ちょっと面白いかもねー。まあでも、ぶっちゃけ危険でしょ。だって、間違ってでも、触ったら――」
ガタン! と、イスが音を立てる。間違えてカバンをぶつけてしまった。クラスの視線が全てこちらに向き、ヒソヒソとした話し声が教室を包んだ。私は急いでカバンを背負って教室を飛び出した。ただ帰ろうとしただけなのに、なんであんなドジをしてしまうんだろう。とにかく、あまり目立たないようにしなければならない。私が毒持ちだということが、バレてしまわないように。とくに、あの事件があったここ最近は。
数週間前、ある廃屋で火事があった。どうやら、そこはごみ置き場になっているらしく、ごみに火が付いたのが原因だったという。中からは、一人の女性の焼死体が見つかった。行方不明になっていたことから、その近くの町に住んでいた女性の死体だという事が判明した。
だが問題は、このニュースで報道された街の人からの話だった。女性についての話を聞くと、町の人々はこんなことを言ったという。なんでも、この女性に触れた人間は死んでしまう。だからみんな、女性のことを恐れていたと。
そう、この女性、じつは毒持ちだったのだ。最初は町の人々の戯言だと思われていた。だが、このことのせいで、毒持ちについて調べ始めるものが現れ、この世界には生まれながらに体に毒を持った人間がいる、という話が世間に流出してしまったのだ。
気づくと、いつの間にか広場のような場所に来てしまっていた。噴水があり、数人の子どもが遊んでいる。私は手近なベンチに腰かけると、カバンを下ろした。しだいに日が暮れ出し、最後まで残っていた母と子が、手をつないで帰っていった。
「ねえ」
「うわっ」
不意に後ろから声が降ってきた。驚いてベンチから立ち上がる。恐る恐る後ろを振り返ると、そこには金髪のツインテールの少女が立っていた。制服を見るに、同じ高校の子だろう。私は、落ち着いてベンチに座り直した。
「えっと、何か用?」
少女が特に何の疑問もなさげに口にした「その言葉」に、私は耳を疑った。
「あのさ、あなた、『毒持ち』だよね?」
一瞬、思考が停止した。だか、徐々に頭が現状を理解し始め、恐怖の波が襲ってくる。
「え、な……んで……?」
「いや、もしかしたらそうかなって思っただけなんだけど、当たってた?」
顔から血の気がさっと引いていった。相手は同じ学校の子だ。知られれば、あっという間に噂になり、普通の生活を送れなくなるだろう。絶対絶命である。いやそんなこと考えてる場合じゃない。とにかく、何か言わなくては。そう思った矢先、ふいに少女の手が頭に伸びてきた。
「っ! 触らないでっ」
反射的に、少女の手を払ってしまった。
「……」
だめだ。今のは完璧に不自然だ。自分から、毒持ちだと言っているようなものではないか。少女が口を開く。ああ、もう、だめだ。私はぎゅっと目をつぶった。
「んーわたし、別に誰にも言ったりしないよ?」
――え? 今少女は何と言った? 誰にも言わない、と言ったのか?
「あ、ただし条件があるけどね」
……やっぱり、そううまくはいかないか。でも、条件? 条件って、どんな? 少女が私を見てニヤリと笑う。まさか、お金か。それとも、バラされたくなかったら、言うこと聞け、とかかもしれない。私はおずおずと少女の顔を見た。
「あなた、どうせ暇なんでしょ? だったらさ、わたしの話し相手になってよ」
少女は笑ってそう言った。
「話し、相手?」
予想していなかった答えに、頭が混乱する。
「そう。わたし、未来っていうんだけれど、あなたは?」
「あ……あ、明日香」
「明日香さんだね? じゃーわたし用事あるから、また明日ここでね!」
そう言い放つと、未来は風のように去っていってしまった。……なんというか、うん。
――開いた口がふさがらないって、こういうこというんだな。
私はベンチにもたれていた。清々しいくらいに空が青い。バタバタと足音が聞こえてきて、視界に明るい笑顔が飛びこんできた。
「おーよかった! ちゃんといた!」
未来は意外そうに笑みを浮かべた。大きめの手さげカバンを持っている。なんか中から、プラスチックみたいな四角いものがのぞいているが、何に使うのだろうか。身体を起こすと、自然とため息がこぼれる。
「はあ……だって、もし来なかったら、言いふらすんでしょ? だったら来るしかないかと思って」
「別にいいじゃん。無理なことを押し付けられるよりも、この方がずっと楽でしょ? 明日香さんにとっては」
そう。だからこそ余計に解せないのだ。なぜこの子はもっと有意義な条件を出さなかったのだろう。それが疑問だった。
「でも、私なんかと話してて未来は楽しいの? 友達とかもいっぱいそうだし、彼氏とかも、いそうだけど。他の人と遊んだりしたほうが、ずっと楽しいんじゃ……」
「いーの。だから、これはただの興味本意なんだってば。毒持ちの人がどんな人なのかっていう、わたしのただの興味本意! だから、明日香さんは、何も気にしなくていーの!」
強引に押し切られてしまった。まあ、私が不利益を被ることはないので、いいのだが。
「というわけで、質問タイムね!」
「はい?」
どうやら本当に私に興味があるだけらしい。変わった子だ。
「ずっと思ってたんだけどさ。明日香さんって、なんでいつも手袋つけてマフラー巻いてるの? 暑いじゃん」
「えっ?」
「まさかとは思うけど、毒持ちだからじゃないよね?」
いや、毒持ちだからなんだけど。そんな風に言われたら、はっきりそうだとは言いにくい。しどろもどろに私は答える。
「だって皮膚に触られたら終わりなんだよ? だったら、できるだけ隠しておかないとと思って……」
それを聞いた未来はあからさまに呆れ顔をした。
「あのねえ、人に素手で触ったり、触られたりすることなんて、そうそうないから。どんだけガード固いの、っていうか気にし過ぎでしょ」
「でも、それでもし万が一のことがあったら……」
「はあ、もう何言ってんの? 毒持ちだからってそんなことしてたら、周りから浮くだけだからね! 今後は外すように!」
未来がぴしゃりと言い放つ。私はしぶしぶ手袋を外して、マフラーを外しにかかる。でも、これがないと安心できないんだよな。
「……やっぱり、マフラーだけはつけててもいい?」
「だめ」
「じゃ、制服は長袖でも……」
「夏に長袖なんて変」
「うう……じゃあ、せめてハイソックスは履いててもいい?」
「……」
ていうか、なんで私はこの子の言う通りにしているのだろう。威圧が怖いせいもあると思うけど。私は未来の顔を見た。
「ああ、もういいよ……明日香さんがそうしたいなら、そのままで……」
未来はベンチでうな垂れた。ちょっと申し訳ないが、なんとか心の安心は手に入れられた。軽くガッツポーズをする。
「なんか未来、お母さんみたいだね」
「明日香さんがへタレすぎるからでしょーが。はあ……もっとしっかりした人だと思ってたのに……。まあ、暇つぶしだし、これくらいの方が気を使わなくていいけど」
ふと、未来は時計を見て、慌てて立ち上がった。
「今日わたし寄るところあったんだった。じゃ、もう帰るね」
カバンを持つと、未来は駆けていき、少し行ったところで振り返った。頭の上で二つに束ねた金色の髪が一緒に揺れる。
「じゃあ、明日もちゃんと来てね、明日香さん!」
未来は再び駆け出した。全く本当に変わった子だな。興味本位でも、暇つぶしでも、未来は私を気にかけてくれた。それが、ちょっと嬉しかったりもした。
*side未来
「おかえりなさい。今日は遅かったのね、未来」
家に帰ると、ソファに座ったお母さんがわたしを迎えた。
「うん、ちょっと用事があって。今ご飯作るからね」
荷物をおろし、エプロンをつけて台所に立つ。お母さんがこちらを見ているのが、背中越しにでもわかる。言いたいことは、何となく予想が付いた。
「頼んでたの、ちゃんと買ってきてくれた?」
「うん、なんとか」
「そう、よかったわ。私、機械に関しては全然わかんないのよね。学校も、上手くいってる? 友達とも仲良くやれてる? 勉強は?」
「うん、大丈夫だよ。昨日、クラスの子とカラオケ行ってきたし。あと、これ。この間のテストの結果ね」
机の上に、期末テストの用紙を置き、台所に戻る。冷蔵庫には卵が数個と、にんじん、玉ねぎ、冷凍ご飯。ケチャップもあるし、今日はオムライスでいいかな。そばにあった小型のテレビをつけると、ニュースがやっていた。
「連日世間を騒がせている、M市の爆弾魔。現在、新たなニュースが飛び込んで参りました。先ほど、午後四時ごろ、S駅のホームの壁に時限型の爆弾が取り付けられているのが発見されました。幸い、爆弾は爆発物処理班によって取り外されましたが、今月に入って五回目の爆弾魔の犯行となり、犯人の足取りはいまだわかっていません。爆弾の位置は、全てM市の南西エリアに分布しており――」
ニュースキャスターはずっとしゃべり続けている。こう事件が多いとテレビ局は大変だよね、と勝手に思う。
「M市の爆弾事件、最近ずいぶん騒がれてるのね。まあ、全部『未遂』なんだけど」
フライパンに卵を敷いて、ご飯をのせる。丁度爆弾ぐらいの大きさになった。そのまま、うまいこと皿にのせる。
「お母さんご飯できたよ」
テレビを切り、オムライスの乗った皿を二つ、テーブルに持っていく。お母さんが椅子について、私が食べる様子を見ている。言っても、意味のないことだとわかってはいたけど、一応聞いてみた。
「食べないと冷めちゃうよ」
「いいのよ、今はあまりお腹すいてないから。あとでゆっくり食べるわ。それより、さっきの事件。あれだけ騒がれてるんだから、早く帰ってきなさいね。余計なことには首を突っ込まずに、普通の子と仲良くなって、うまくやっていくのよ」
わたしは、お母さんの言う通りにしなければならないのだ。やるべきことを、やらなければならないのだ。ふと、脳裏に明日香さんの顔が浮かんだ。別に、ちょっと利用してるだけだけど――――。あの公園なら、市の北東だし、いいよね。
「やっほー、明日香さ……ん?」
いつも通り噴水公園のベンチに行くと、明日香さんがベンチで項垂れていた。いつもの内面の頼りなさが、全身からあふれ出ている。
「……どしたの? 明日香さん?」
「みっ、未来……」
明日香さんはばっと顔をあげてわたしを見つめた。目がちょっとだけ潤んでいる。ま、まさか――。
「い、いじめられたの⁉ あ、もしかして、悪口言われたとか⁉」
「わ、私、小学生じゃない……」
そんな泣きそうな顔で言われても説得力ないよ、明日香さん。ちょっとふざけ過ぎたかもしれないけど。
「で、ホントにどうしたの?」
「あ、あのね、来週に調理実習があるんだよ……」
調理実習? ことはそんなに深刻だとは思えないけど、明日香さんは世界の終りのような顔をしている。単純に料理が出来ないとかかな。
「手袋したまま参加するわけにはいかないし、だからって参加しないわけにはいかないんだよ。……どうしよう、未来?」
明日香さんは再び項垂れる。それを見て、わたしはため息を吐いた。
「はあ……なんで、手袋外して参加するっていう選択肢はないわけ?」
「え、だって……私、毒持ちだし……」
「明日香さんが行動できないのは、明日香さんがやろうと思ってないからでしょうが。 何でもかんでも毒持ちのせいにしないで」
明日香さんに向けて、ぴしゃりと言い放つ。
「一回でいいから、頑張ってみればいいじゃん。応援してあげるから!」
正直、明日香さんがどうなろうが勝手だけど、このままずっとうじうじしているのは、なんか気に食わない。明日香さんはしばらくうなった後、うん、と言って顔をあげた。
「……わかったよ。私、今回はちゃんと参加してみる」
そう言って明日香さんは、少し笑った。あ、明日香さんってこんな風に笑うんだなと、なぜかちょっとうれしくなっている自分がいた。
「本当は、これ使って参加しようと思ってたんだけど……」
明日香さんはカバンから、透明なビニールのようなものを取り出した。
「え? 何これ?」
「すごく薄手の透明な手袋。いざという時の為に使おうと思って買っておいてあるの」
思わずため息が出る。
「ああ、もう、どんだけ心配なの⁉ 没収っ!」
「あっ!」
わたしは明日香さんからそれを取り上げて、カバンの中にしまった。
「こんなんじゃ全然だめだなー。今度普通のかっこうで、どこか出かける練習でもしたほうがいいね、絶対」
「そ、そんなあ……」
「あ、そういえば、明日香さんってどこに住んでるの? M市内?」
「ううん、市外だよ」
「そっか、じゃあ、大丈夫だね。――市内は最近爆弾事件で大変だから。あ、今日はわたしもう帰るね。爆弾魔とかいるから、早めに帰るんだよ!」
「うん、じゃあね」
手を振る明日香さんに、私も手を振りかえす。あんな言葉だけでやる気を出すなんて、明日香さんはホントに単純だな。あの手袋は、まあ、わたしが持っておこう。そしたら、都合のいい時に、明日香さんに触れられるだろうし。
*side明日香
いつもとは違う夏服を着て、マフラーも手袋もつけず、学校に向かう。今日はこれで頑張ると決めたんだ。まあそもそも料理をそんなにしないので、毒持ちどうこうの話以前に、かなり足手まといだったりするのだが。それでも、やる。そう思いながら、不格好ながらにも、野菜を切っていた。
「なんか今日はあの人調子乗ってるよね。いきなり夏服とか着てきて」
「それな。迷惑だからしゃしゃり出るなっての」
そんな声が聞こえた。近くで手伝ってくれていた子が、「気にしなくていいよ」と声をかけてくれた。別にすぐにどうにかなるなんて思っていない。今日はこんなところでへこたれている場合ではないのだ。せっかく、未来が応援してくれたのだから。
でも、それは偶然だった。
「きゃっ……」
近くにいた女の子が、不意に足を滑らせたのだ。女の子はそのまま私に向かって倒れて来る。反射的な出来事だった。
――バンッ! ガタンッ!
私は彼女の体を突き飛ばしていた。頭が真っ白になった。
「うう、い、痛い……」
「何⁉ どうしたの?」
みんなが集まって来た。
「あいつが、怪我させたんだよ。何も突き飛ばすことはなかっただろうに」
「なんかこいつに恨みでもあるのかよ?」
「あ、いや、ちが……」
違うんだ。こんなつもりじゃなかった。怪我させようなんて、少しも思っていなかったのに。ただいつもの癖で体が反応してしまったんだ。未来の時みたいに、また繰り返してしまった。
「ねえ、前から思ってたんだけど、明日香ちゃんってさあ……」
クラスの一人がそう口を開いた。次の瞬間、恐怖の波が私を襲った。
「 っ! 違う! 私は毒持ちなんかじゃないっ!」
とっさにそう答えて、はっとした。クラスがしんと静まりかえる。
「……は? 毒持ち?」
「毒持ちってまさか、ニュースでやってた、あの毒人間のこと⁉」
「え、何、明日香ちゃん、毒人間なの……⁉」
なんてことを言ってしまったんだ、私は。何か言い訳をしなければ。そう思って口を動かしても、言葉は出てこない。みんなが私から遠ざかって行く。さっきまで普通に話しかけてくれていた子も、怯えた目をしてこちらを見ていた。
「向こう行けよ」
不意にそんな声が響いた。そうだそうだと、そこからどんどん声が重なっていって、大きな雑音になった。そこにいる全ての人が、私を化け物を見るような目で見ていた。
――私は教室を飛び出していた。結局、私には無理なのだろうか。普通の生活を送ることなんて。どうしよう、未来に合わせる顔がない。
*side未来
思っていたよりも、お母さんに頼まれていたことは順調に進んでいた。それがいいことなのか、悪いことなのか。もう少し時間がかかってもよかったのに。今のところ何か問題があるわけではないのだから、せめて、明日香さんと出かけるまでは、と思う。
公園にやってきた時、明日香さんはいつものようにベンチに座ってた。今日も気楽に話せる人がいることにちょっとだけ安心する。だが、そこにいた明日香さんの様子は明らかにおかしかった。
わたしはなにかを察した。それはとても良くないことだと直感した。明日香さんはゆっくりわたしの顔を見た。そして、一番言って欲しくなかった言葉を、その口から言った。
「ごめん……未来、私……毒持ちだって、ばれちゃった」
――なにかがプツリと切れる音がした。なんで、なんで、なんで、なんで。その言葉ばかりが頭の中を巡った。なんでそんなこと言うの? こんなのってないよ。このまま忘れられると、解放されると思ってたのに。そんなこと言われたら、わたしは、わたしは――。
普通の子と過ごしなさいって言ったわよね、未来?
お母さんのそんな声が聞こえた。
*side明日香
しばし静寂が辺りを包んだ。未来は大きく息を吸うと私にこう言い放った。
「……なんでばれちゃうの? バカじゃないの?」
今まで見たことも無いような表情で、未来はそう言った。
「何? 慰めてもらえるとでも思ってたわけ? 馬鹿なこと思わないでよ。こんなのただの暇つぶしだって、最初に言ったでしょ?」
今までの時間が嘘みたいに、未来の声は冷たかった。
「ねえ、もう帰ってよ。あんたとなんか一緒にいたくない。わたしまで毒持ちだって疑われるじゃんか」
未来の顔に、一緒に過ごしたあの頃の面影はなかった。さっきのクラスメイトたちと同じような目。それだけがただそこにあった。
「帰ってよ、ほら」
そう言って投げつけられたのは、あの時没収された透明な手袋だった。もう、持っている意味もないってことか。
「そうだね……ごめん。迷惑だったよね。……じゃあ、私もう行くから」
私は投げつけられた手袋を、ぎゅっと握りしめてベンチから立った。
「――じゃあね」
ゆっくりと歩いて公園から出る。でもそのうちに早足になって、最後には駆け出していた。走って走って、胸が苦しくなって息が切れても、走り続けた。やがて、足が動かなくなった。そのまま地面に崩れ落ちると、頬を涙が伝っていた。
信じてたとか、裏切られたとか、そういう問題じゃない。だって最初から、未来にそんな気はなかったのだから。私が勝手に勘違いしただけなのだから。だから、こんな風に泣くのはおかしい。おかしいけど、でも――私は未来がいてくれたら、それでよかったのだ。あんなにも、私に対して接してくれた人は、初めてだったから。
我儘でも、私は、あの子と一緒にいたかった。
一緒に、いたかった。
とりあえず、こんなところで泣いてたらみっともない。家に帰ろう。そう思って立って歩こうとしたら、何かにつまずいてしまった。どうやら紐のようなものに突っかかったらしい。足元を見ると、どうやら何かの導線のようだった。道脇の花壇に続いており、プラスチックの四角いブロックのようなものに繋がっていた。なんか、まるで爆弾みたいだな。でも、なんだかこれには見覚えがある気がする。そういえばあの時、未来も、同じようなものを持っていた気が――――。
M市の爆弾魔――。不意にその単語が私の頭をよぎった。
*side未来
明日香さんが行ってしまった後も、わたしは、そのまま公園のベンチに座っていた。爆弾を仕掛けたのはM市の北東。もちろん、ここも範囲に入ってるし、少し前まで、わたしとお母さんが住んでいた地域でもある。今はもう、あんなところ引っ越してしまったが。最近ニュースになっていた、爆弾事件。不発弾を南西に設置しておいたのは、人々の意識をそっちに向けるためだ。
「全く、ようやく覚悟を決める気になったのね。でも、未来が私のこと、償ってくれる気になったのは、とってもうれしいわ」
隣でお母さんはそう呟いた。
数週間前、殺されたはずの、わたしのお母さんは。
わたしのお母さんは毒持ちだった。
そして、数週間前の火事で焼き殺された。
毒持ちだからという理由で。
危険だから、怖いから、恐ろしいからという理由で。
この世界は、助けてくれなかったんだ。
誰も助けてくれなかったんだ。
私のことも。
お母さんのことも。
だから復讐する。それだけだ。
「そうね。私を苦しめた人々には、同じように苦しんでもらわないといけないものね」
この人は、お母さんが死んだ数日後に現れた。
お母さんはもう死んでいる。そんなことわかってる。
これが幻影だなんてことは、とっくの昔に知っている。でも――。
「忘れられないのでしょう? だってあなたは、最後の最後で、私を見殺しにしたのだから!」
――そう。
わたしは、ためらってしまった。
一番掴まないといけなった、お母さんの手を掴むことを。
お母さんは、毒持ちだったから。
お母さんの手に触れて、あの燃えさかる家から助けることを、わたしは――。
「だから、償ってくれるのよね? 未来」
お母さんは、そういって笑った。
明日香さんは市外に住んでいるらしいし、もう家についているだろう。
だから、もう、いいや。もう、終らせよう。
こんな苦しい責任も幻影も、早く消してしまおう。
このスイッチを押して爆弾を起動すれば、復讐もできるし、わたしも死ぬ。
それで全て終わりなのだ。
バイバイ、お母さんを苦しめた人たち。
バイバイ、わたし。
バイバイ、明日香さん――――。
不意に体に衝撃が走って、スイッチを手放してしまった。
夜に紛れそうな長い黒髪、それがふわりと視界の端に映った。
気付いたとき、わたしは明日香さんに首元を抑えらえて、押し倒されていた。
――明日香さんは素手だった。
「……明日香さん、何で?」
「未来が悪いことしようとしてるなら、止めないとって、思って――たとえ」
明日香さんは今にも泣きそうな顔をして、ただ叫んだ。
「たとえ――未来を殺してしまっても!」
この人がどこまでわかっているのか知らない。
が、今こういう状況にあるってことは、たぶんわたしの企みに気付いたんだろうな。
「ホント、なんでこういうことだけ鋭いのかな、明日香さんは。おかげで失敗しちゃうじゃん」
そう言ってわたしは明日香さんの顔を見た。
怒ったような、でも泣きそうな、そんな顔をしていた。
その後ろに真っ暗な夜空がひろがっていた。
喉元には、震える明日香さんの手がある。
――つまり、そういうことだ。
もう少ししたら、体中に毒が回って、わたしは死ぬ。
「あのね、明日香さん……」
震える明日香さんの手を握る。つるつるしたような変な感触だった。
「わたし、ずっと悪夢を見ていた。悪夢だって、わかってたけど、でも、覚めることはできなかった。そうやって自分を追い込んで、こんな馬鹿みたいなことまでしようとしちゃった」
明日香さんは顔を伏せて、話を聞いてくれている。
さっきまでわたしを責めたてていたはずのお母さんの幻影は、もうどこにもいなかった。
「ホントはこんなことしたくなかったんだ。ずっと、苦しかったから。自分の償いを果たすことが。明日香さんに声をかけたのは、ただ単に好き勝手言える気楽な人が、欲しかったから。
でもホントは、こうなることを、望んでたのかもしれない。
明日香さんが、わたしを止めてくれること。
わたしを――殺してくれること」
そしてそれは今、現実になっている。
私は明日香さんの腕の中で眠ることができる。
「未来、そんなこと、望んでたんだね……」
明日香さんがうつむいたままつぶやく。
「じゃあ、本当に良かった――」
明日香さんが顔をあげる。
――その顔は、涙など一滴もなく、ただまっすぐだった。
一瞬、思考が停止する。
「――未来を殺さずに済んで」
そう言いながら、明日香さんは左手からあの極薄の手袋を外した。
「――騙したの?」
頭に浮かんだ言葉は、そのまま口から出た。
「先に私を騙したのは、未来だよ。まさか、噂の爆弾魔だったなんて……」
なるほど、だから騙し返したってことかな。
そんなことも隠して、平気な顔して毎日会ってたことに、怒っているのか。
明日香さんがこんなことする人だったなんて、思ってなかった。
私の読みも甘かったってことか。
「わたしのお母さんはね、数週間前のあの火事で殺された毒持ちだったの――」
さっきまであんなに満ち足りていたのに。
行き場のない怒りが、心を埋め尽くしていた。
もう、やけくそだった。
「わたしはっ! お母さんを殺されたの! 復讐して何が悪いのよっ!」
――パシンっ!
と、乾いた音が響いた。
明日香さんの右手が、わたしの頬を打っていた。
「誰かを殺していい理由なんて、あるわけないでしょう⁉」
それは、わたしが初めて聞いた明日香さんの叫びだった。
「未来が、人殺しになっちゃうかもしれないって、知った時、私が……どんな気持ちだったか……!!」
明日香さんは今度こそ本当に泣き出してしまった。
ああ、そっか。
わたしは勘違いをしていた。
明日香さんは、こういう人だった。
ただひたすらにまっすぐで、そのくせ不器用で、純粋な人。
「もう――絶対にこんなことしないで」
明日香さんは涙目になりながら、私の肩に手を置いた。
ただ、利用していただけ――だったはずなのに。
なんで、わたしは今、こんなにも安心して泣きそうなんだろう。
ああ、そうか。今さらわかった。
わたしは、明日香さんと一緒に居たかったんだ。
明日香さんが、大事だったんだ。
「うん、もう、しないよ。絶対にしない」
「そっか。じゃあ、このことは誰にも言わないでおくね」
明日香さんは安心したように顔をあげると、涙を拭って笑った。
「未来が過去に何をしちゃったかは知らないけれど、でも、こんな道じゃなくて、もっとほかに償い方ってあると思う。未来が罪を感じているなら、もっと正しい方法で償っていこう? 私も、未来に付き合うから」
ただ、誰かにそう言ってほしかった。誰かにとめてほしかった。
ホントは、こうやって、優しい言葉で。
その答えをくれた明日香さんが、わたしを見下ろしている。
「ごめん、ごめんね、明日香さん……。突き放したりして、いろんなこと黙ってたりして、ホントにごめんね……」
明日香さんは泣きだすわたしの体を、優しくさすった。
その体温は、とても温かい。
「うん、いいよ。でも、あとでちゃんと話してね。全部のこと。最後まで、ちゃんと聞いてるから」
ふけきった夜の空の下、明日香さんは、そう呟いた。
人間、自分を理解してくれるたった一人の味方の存在だけで、生きていけるんだ。
希望が一つでも残っているなら、破滅や死を選ぶ必要なんてないんだ。
――今なら確かに、そう思える。