涙の理由
「まだ寝てるの。さっさと顔洗ってくれないと時間被るんだけど」
声、聞き覚えのある懐かしい声。
その声に導かれるようにオレは目を覚ます。
平穏な朝。妹がオレを起こし身支度の催促をする。親父がそのやり取りを苦笑いで見つめる。そんな平穏な朝。
何度も繰り返しているはずなのに、何気ない日常のはずなのに………オレの頭には靄がかかったように何か肝心な物がぼかされいるような違和感に襲われる。
「寝ぼけてるの?早くしてよ、間に合わなくなるんだけど」
アツコがオレに言う。
母さんが死んでから3年、オレは日々母さんに似てくる妹に頭が上がらなくなっていた。親父も同じだ。
でもそれは決して嫌な感情ではなく、真っすぐと強く成長していく妹を誇りたくなる気持ちと、母の死を乗り越え始めた妹への僅かな焦燥感が入り混じった思いだった。
「どうした?」
オレは何か言いたげにジッとオレの顔を見るアツコに問いかけた。
そうだ、小さい頃からアツコは本当に言いたいことがある時は、何も言わずジッと人を見つめる癖があったんだった。なぜ忘れていたんだろう、いまアツコはきっとオレに大事なことを言おうとしているんだ。
しっかりと向き合わなければ、兄として、リーダーとして。
「あのさ………ううん、なんでもない。気持ち悪いから見つめないでくれる」
「なんだよ、何でもないならいい。じゃあ、行ってくる」
どうしてだ、口が考えとは違う言葉を勝手に喋りだす。アツコはオレの言葉を聞くと少し押し黙り、すぐに笑顔で「はいはい、早く行かないと間に合わないよ」と言った。
高校に着くと、懐かしい顔ぶれがオレを出迎えた。
………懐かしい?
オレは何を言ってるんだ、毎日会ってるクラスメイトじゃないか。
いつもと同じ風景、同じ授業、同じ時間、何度も繰り返し見た光景。あの日から数百回は繰り返した日常。別に何もおかしなことはない。これでいいんだ。
不意に強烈な睡魔に襲われ目を瞑ると、妹の声が聞こえてきた。
アツコ、どうしてオレの高校にいるんだ?中学はどうした??
「なに言ってるの?寝る前から寝ぼけてるの??」
アツコはそう言いながら無理やり笑顔を作った。鈍感なオレでも分かるような、苦し気な笑顔だった。
「どうすればいいと思う、お兄ちゃん」
弱々しい声。寂しそうな声。苛立った声。すべての感情が入り混じった声。アツコはそれだけを言って口を閉ざし、オレをじっと見つめる。
そう、アツコはいじめられている友達を助けたいと言った。
オレに何回もそう言った。
そして怖いと言った。
どうしよう、どうすればいい?とオレの目を見ながら、何回も繰り返し繰り返し。
助けるべきだ、というべきだろうか。
それともオレが助けてやる、というべきなのだろうか。
けれど、妹には妹の世界がある。一人の人間として自立している。妹は強くなったんだ、母が死んだあの日から。オレなんかよりもずっと。
オレがそんな妹の世界に土足で踏み入ることをしていいのか?オレが無遠慮に割って入ることで妹の立場を悪くしてしまうんじゃないか?
オレはたった一人の妹を、アツコを守りたい。もう誰かを失うのは嫌だ。
オレの口がゆっくりと開く。オレはその様子を後ろから見つめている。
アツコの顔色が変わり、下を向き、唇を噛む。何かを言おうとし、ジッとオレに視線を向け、そして視線を逸らし、自らに抗うように呟いた。
「そんなの間違ってる」と。
オレが最後に見たアツコは泣いていた。その涙の理由がオレには分からなかった。




