淑女教育
その日から、私はイングリスト殿下と同じ部屋で淑女教育を受けることになった。
文字の読み書きは最低限教わっていたけれど、正妃になるための教育は私の想像をはるかに超える量。
特に歩き方、姿勢、お辞儀、言葉遣い、刺繍や調度品の価値、お部屋の飾りつけセンス、ダンスは想像もつかないほど——きつい。
勉強するよりも大変!
でも、執務室でお仕事をなさるイングリスト様に見られながらだと思うと、身が引き締まります。
「素晴らしい。エーテル様は覚えが大変お早いです。これならば王妃様主催のお茶会に間に合うかもしれません」
「王妃様のお茶会、ですか?」
「ええ、三ヶ月に一度大規模なお茶会が開かれるんですよ。大貴族たちの交流の場であり、これからはローズレッグ様の婚約者の座が競われるようになるでしょう」
「ローズレッグ様の体調はよろしいのですか?」
「よくはございませんが、エーテル様がイングリスト様のお側にいれば体調が回復されるのではないか、と魔術師様の見立てです」
魔術師様……確かエルネス様とおっしゃるのよね。
唯一イングリスト様の祝福に対抗できる魔力をお持ちの方。
貴族学園でイングリスト様の同級生で、現在は側近と相談役も務めておられる。
本職は宮廷魔術師筆頭という、城の魔術師の中では一番上のお立場の方だそう。
穏やかでたおやかな方だったけど、イングリスト様もお優しい方だし、お二人が並んでいるとゆったりした時間が流れていて私もまったりした気持ちになる。
あの方がローズレッグ殿下の体調が回復するとおっしゃるのなら、きっとローズレッグ殿下は大丈夫ね。
それよりも、私だ。
三ヶ月に一度の、王妃様のお茶会だなんて!
「エーテル様がこのままお勉強を続ければ、お茶会でのお披露目には問題ないと思いますよ。そのように不安そうなお顔をされないで。背を正して!」
「は、はいっ」
「俯かずに前を向き、口角を上げすぎず優しく穏やかに、余裕と気品を持って微笑むのです。笑っていれば、大概のことは流せます」
「は……はいっ」
「お返事も吃ることなく一言で」
「は、いっ」
「お返事の方はもう少し練習が必要ですね」
「……はい」
人への対応態度。
これが一番難しいかもしれない。
人と接してきたことがほとんどないもの。
「マーチア夫人、エーテル嬢にあまりきつくしないであげてください」
「まあ、イングリスト殿下。エーテル様にできないことは、わたくし申しておりません。エーテル様は今まで淑女教育を受けてこなかった分、伸び代があるのです。この調子でどんどん学び吸収し、成長していってほしいのです。エーテル様は日に日に淑女としてご立派になってくださいますから、わたくしも教え甲斐があって楽しいのですよ」
「マーチア夫人……あ、ありがとうございます! 私、頑張りますっ」
お母様以外で、こんなふうに言ってもらえるの嬉しい。
イングリスト殿下は私たちを見て少し安堵したように微笑むと、「一休みしませんか?」と椅子から立ち上がった。
はっ! お茶の作法の練習ね! 了解です!
イングリスト殿下の言葉に、すぐさまお部屋の近くにいたメイドたちがお茶を用意する。
軽食やお菓子がテーブルに置かれ、紅茶が差し出された。
「今日は残念ながら、天気が悪いので執務室の中で我慢してくださいね」
「い、いえ、大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます……」
しかしやはりイングリスト殿下の顔を直視はできない。
なぜだろう。
俯いてはいけない、顔はあげて、と言われているのに。
声を聞いているだけで、頭の中が痺れて真っ白になってしまう。
見つめられていると体が勝手に震えて、熱くなる。
「エーテル嬢、本当にありがとうございます」
「え? な、なにが、でしょうか?」
「あなたがこうして側にいてくれるので、最近執務がとてもやりやすくなっています。今までは周囲の者の幸運を吸い取ってしまうので、別邸で一人、兄の分と合わせて職務を行っていたんです。それがもう、大変で」
大変そう。
お兄様の分のお仕事までされていたのなら、量も多いだろうに。
部下の方に接触は最低限にしてもらうため、書類を大量に持ってきてもらったり終わった書類をお城へ持って行ってもらったり。
行き来はそれはもう、大変だっただろう。
「私も覚えがあります……実家から、五日に一度食糧やお手紙が送られてくるのですが、不幸がいつも邪魔をして、木箱を落っことしてしまっても大丈夫な硬いパンや芋やカボチャのような砕けにくいもの、日持ちする乾燥豆ばかりになってしまうんです。新鮮で水気の多い食べ物は、不思議なことに翌日には腐ってしまったり、鳥や鼠が食べてしまうし……」
「それは大変だね。独りで暮らしていたのかい?」
「はい。呪いに巻き込みたくありませんでしたから……」
実家の侍女たちは、王宮にもついてきてくれて、王太子妃の侍女としての教育を受けてくれている。
そこまで大切に思ってくれる侍女たちと、そして家族を……私なりに守りたかった。
「イングリスト殿下もきっと同じですよね」
「……っ!」
「でも、本当にまさか私の呪いが、王子様のお役に立つなんて。今でも信じられません」
お茶を一口飲む。
ソーサーに戻す時にカツン、と音が出てしまった。
あああああ、やってしまった!
「も、申し訳ありませんっ」
「公的な場ではないから大丈夫ですよ」
「っ!」
そう言って、ソーサーに添えた手にイングリスト殿下の手が重ねられる。
大きな、男の人の、手。
お父様ではない、男の人の——。
「あ、あ、あ、あ、あ、あああぁぁぁぁあの」
「無理を言っているのは自分の方なのに……あなたは自分の心に寄り添ってくださる。本当に素晴らしい女性に出会えたことを、心から感謝します。ありがとうございます、エーテル嬢」
「っっっっっっ」
「イングリスト殿下との触れ合いにも、少しずつ慣れるようになさってくださいね、エーテル様」
「〜〜〜〜〜!」
それは「はい」とは言えません、マーチア夫人!