平手政秀が切腹した理由
なぜ、平手政秀は切腹しなければならなかったのか。
状況証拠から類推して平手が死ななければならなかった理由は、
織田信長の経済政策にあります。
信長は金持ちから金を徴収して庶民にばらまく。
富の均衡化を図る政策をとっていました。
これは、後に勢力を拡大しても変わらず、
日本でもっとも富をため込んでいる本願寺にも盛んに矢銭を要求し、
堺衆にも金を要求しています。
こうして金持ちに金を要求したことによって、
信長はその商人たちと金融でつながっている大名たちを敵に回していくことになります。
そして集めた金で力が強いものには相撲大会、商才がある者たちには祭りや馬ぞろえで
、一般の庶民にはただでばらまくのではなく仕事を与えたり、相撲大会で優勝することで、
努力して富を手に入れる喜びを教えます。
老人や子供には祭りの時に日頃味わえない高級品である茶をふるまったりします。
ただ、唯一、自分で動けない障碍者に対しては、無償で住む家と生活費を提供していました。
そうした信長の行為は、当時の常識で考えれば、我々エリートの金をゴミクズみたいな卑民に
与えるなど許しがたい!
と、上流階級の人間は屈辱に感じるのです。
おそらく、熱田、津島の港を支配し、商人たちの支持を得て政権を維持していた信長が
金持ちから金を取り上げて、庶民に金をばらまく政策を取ったことによって、
商人たちは不満を持っていたにちがいありあません。
事実、熱田で最も織田信長を支援していた熱田加藤家の加藤図書、加藤弥三郎の兄ですが、
この人は、内密に信長に反抗する織田信勝に内密に武器を売っています。
これらの事から熱田加藤家は信長が天下を支配する状況になっても一国の主にはなれなかった
可能性が強いです。
信長はなぜ、このような政策を取ったかといえば、正義感とか善意というよりも、
先に述べた、自国民の信頼関係の構築のためにそれらの政策を取ったと思われます。
金を産出する甲斐や駿河と違って、尾張は穀倉地帯であっても、
金を算出しない。
よって、金属主義、金本位制経済では、甲斐や駿河に経済的優位性を取られてしまう。
経済的属国となって、せっせと米を上納する状況を回避するため、
貨幣とは貸し借りの概念であり、物質ではない、という経済観念を啓蒙しようとしたのです。
その信頼の担保には武力がいるため、天下布武のスローガンをかかげたのです。
しかし、その事を家臣や商人たちに説明しても、おそらく、理解したものはいないでしょう。
そこで、それを理解している平手政秀は必至になって商人たちを説得しますが、
説得しきれず、先の加藤家のように信勝に肩入れする者が出てきてしまいます。
この状況に至って、このままでは極めて正しい行動をとっている織田信長が
滅ぼされ、信勝が家督をとり、織田家は衰退して滅亡してしまうと思った平出政秀は、
織田信長に対してというより、むしろ商人たちに
「こんな事になってしまったのは、すべて私の責任。信長様に責任はない。どうか
これからも信長様を支えてほしい」
という意図で切腹したものと思われます。
信長をかばい、商人たちの離反を防ぎ、平手家の中でも信長に反感を持っている者たちを
説き伏せるために切腹した。
だからこそ、信長は平手政秀に感謝したのです。
おそらく「信長様は間違っています、行状をあらためなさい」
的な事を書いて切腹していたら「うっさいんじゃボケ」と信長は思っていたでしょう。
しかし、信長は後々まで
「あの時、平手が切腹してくれたからこそ、今の自分がある」と言っています。
「切腹したから今の自分がある」
というのが非常に重要なポイントです。
各種の資料に平手が切腹しても信長の行状は変わらなかったと書かれており、
経済政策も平手切腹のあとも変わっていません。
ということは、状況証拠からして、平手切腹によって変わったのは、
信長に反意をもっていた、熱田や津島の商人たちであったと思われます。
織田信長が金持ちから金を取り上げ、貧乏人にばらまき、
富の均衡化をはかろうとしたため、
金持ちが信長に反感を持ち、平手は今まで信長を支援してきた金持ちの商人たちと
信長の板挟みになり、
自分が責任を取って死ぬ代わりに、今後も信長様を支援してくださいと商人たちに
アピールして死んだ。
だからこそ、信長は平手に感謝し続けた。




