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織田信長の行動記録  作者: 楠乃小玉
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織田信長と明智光秀の関係性

織田信長と明智光秀の関係性

小説やドラマなどでは、明智光秀が必死で比叡山焼き討ちを止めようとして、

信長の怒りを買うシーンがあるは、かれを書いた人たちは一時資料を見ていない。


なぜなら、織田信長が比叡山において皆殺し作戦を取った証拠として残っている

資料は和田家文書だからである。


これは、明智光秀が(和田秀純に送った文書である。


御折紙拝閲せしめ候、

  当城(宇佐山城)へ入らるゝの由尤に候、

  誠に今度城内の働き、古今有間敷(あるまじ)き儀に候、

  八木方ニあひ(逢い)候てかんるい(感涙)をなかし(流し)候、

  両人覚悟を以って大慶面目を施す迄に候、

  加勢の儀是れまた両人好き次第に入れ置くべく候、

  鉄炮の筒幷(ならびに)玉薬のこと、勿論入れ置くべく候、

  

  今度の様躰、皆々両人をうたか(疑)い候て、後巻なとも遅々の由候、

  是非なき次第に候、

  人質を出だし候上にて物うたか(疑)いを仕り候へハ、報果次第に候、

  石監・恩上ハ罷り上り候時も、うたかいの事をハやめられ候への由、

  再三申し()り候つる、

  案のごとく別儀なく候て、我等申し候通りあ(逢)い候て、一入(ひとし

  お)満足し候、


  次でをさな(幼)きものゝ事、(おのおの)登城の次に同道候て上せら

  るべく候、

  其の間八木は此の方に逗留たるべく候、

  弓矢八幡日本国大小神祇我々うたかい申すにあらす候、

  皆々くちくちに何歟と申し候間、其のくちをふさ(塞)きたく候、

  是非とも両人へハ恩掌(賞)の地を遣わすべく候、

  望みの事きかれ候て越さるべく候、

  

  仰木の事は是非ともなてきりに仕りべく候、

  (やが)て本意たるべく候、


  又只今朽木左兵衛尉殿、向より越さら候、

  昨日志村の城[ ]ひしころし(干殺)にさせられ候由に候、

  雨やミ次第、長光寺へ御越し候て惣

  恐々謹言、


     九月二日        明十兵(明智十兵衛)

                     光秀(花押)

     和源(和田秀純)殿


これによると、比叡山攻めにおいて、皆殺しを指示したのが

明智光秀であることがわかる。

この第一次資料を読んでいれば、明智光秀が比叡山での皆殺し作戦に反対したなどとは

かけない。


むしろ、比叡山攻略戦のさなか、佐久間信盛などが織田信長に皆殺しをやめさせるよう

諫言したのは、明智光秀の部隊がその場で僧侶の虐殺を始めたからである。

もし、事前に評定で信長が比叡山焼き討ちでのなで斬りを指示していたとすれば、

その評定で佐久間信盛は反対していたはずである。


しかも、現存する文書だけで分からない事も、発掘調査によってわかるようになってきている。

比叡山および坂本における調査によると、重点的に焼けているのは坂本の寺内町であり、

比叡山の寺院はほとんど焼き討ちにあっていない。


つまり、徹底的に焼き討ちとなで斬りを行ったのは飴地光秀らの部隊などで、

全体が焼き討ちを行ったのではないことが近年の発掘調査で分かってきている。


この比叡山攻略戦でもっとも積極的に僧侶を殺した温床として明智光秀は坂本領という

織田家内でも破格の恩賞をもらうことになる。


小説の中では誠実で実直に描かれる明智光秀であるが、

古文書を見ると、再三にわたって比叡山の寺領を横領している。

その姿勢は丹波に行っても変わらず、何度も信長に丹波の寺院から

明智光秀の横領をやめさせてほしいとの苦情の書状が信長に出されている。

織田信長は明智光秀を信頼して京都奉行職に就かせているが、

明智光秀は寺領を横領し、そのあまりのひどさに正親町天皇が勅使を出すことに

なったほどだ。

これらのために、織田信長と明智光秀の関係が著しく崩れたものと思われる。


織田信長と明智光秀の関係が決定的に悪化したのは、

明智光秀の家臣の斎藤利三が勝手に長宗我部側の使者として

羽柴秀吉に接触していることであると思われる。

この点に関しては「だれが信長を殺したのか」桐野 作人 (著)

に詳細な書状の分析が掲載されているので、ぜひお読みいただきたい。


桐野 作人 氏は極めて詳細に歴史文書を収集し、解読しておられる方で、

歴史家として極めて高く評価できる人物である。


明智光秀は小説で描かれるように寺院を崇敬しておらず、

むしろ、、織田軍の中で積極的に比叡山焼き討ちや僧の虐殺を行っていた。

信長から尊王家だと思われて京都奉行を任されると寺領を大量に横領し、

天皇から信長に勅使が二度も出されることになった。

尊王家なら天皇の勅使が一度下った時点で横領をやめるはずである。

織田信長と明智光秀の関係が決定的に悪化したのは明智光秀が長宗我部に肩入れしすぎたから。

結果、織田信長が長宗我部を警戒し、長宗我部攻めが決定した。

詳しくは桐野 作人 先生の著書を参照してください。

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[気になる点] >飴地光秀らの部隊などで、 は >明智光秀らの部隊などで、 の 誤りかと思いました。勘違いだったらすみません。
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