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織田信長の行動記録  作者: 楠乃小玉
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織田信長はすべてにおいて懐疑的

信長の成功につながった性格とはどんな性格なのか?

織田信長は占いを信じず、地球は丸いということを理解していたことは有名ですが、

この現象を現在のバイアスで見てはなりません。

当時、占いは大陸からもたらされた最先端の科学であり、それを信じないことは

時代遅れ、迷信にとらわれた頑強なバカと見なされていたということです。

占いが迷信であるというのは、現代における価値観であり、

現代人が信じている科学もすべてにおいて正解、万能ではないのです。

織田信長が常に主張していたことは、「諸行無常」

現代人は、この言葉を古臭い仏教用語のように思っていますが、

織田信長はこの言葉を非常にポジティブにとらえていました。


すべての事は変転する。ずっと同じではない。

だから、常に、すべての事は常に正しいことではない。

そういう概念を織田信長は持っていました。

宣教師から聞いた言葉も、すべて信じるのではなく、

宣教師に何度も質問し、整合性があるか確認して、信じるのではなく、

正しいと理解するのが信長です。


誰が言うことでも、頭から否定せず、質問し、整合性を確認します。


無辺と名乗る僧が尾張で子供の生まれない女性をだまして金を取っていたことを知った

信長は、頭ごなしに罰を与えるのではなく、数多くの質問をしました。

その中で無辺が「自分は無敵だ、何をしても死なない」

と主張するので、「では火あぶりにしよう」と実験をしようとします。

あわてて無辺がそれが嘘だと白状すると、頭をまだらに刈って追放します。

しかし、その後、女性をだまして犯していたことが分かり、追っ手を差し向けて

殺します。

宣教師から黒人の弥助を献上された時も、本当にその肌が黒いのか、

洗わせたりして検証しています。


質問し、検証し、確かめる。


信長は、それを家臣にも求めます。


分からないことがあれば、自分に質問するよう要求しています。


信長は問答無用の独裁者ではないのです。


常に部下から献策を求め、よって、木下藤吉郎のような人物の伸びしろがあったのです。


また織田信長は多角的に人の意見を聞くだけではなく、

自分自身でも、もう一度検証して再考します。


織田信長は、一度決定したことでも、一度決断したあと、

もう一度検討しなおして再考します。


清州から犬山に首都を遷都する決断をしながら、小牧に変更したり、

長宗我部と同盟を組むことを破棄して三好と同盟したり、


佐久間信盛への折檻状で信長が最も激怒していた点がその点です。


再三にわたり、質問するように教えてきたのに、なぜ質問してこないのか。

なぜ、問題を解決しようとせず、先延ばしするのか。

なぜ、自分の頭で考えて行動しないのか。


気を付けるポイントは、織田信長が戦っている時、佐久間信盛は茶会を開き、

遊んで、浪費しているのです。

しかし、そのことは責めていない。


信長が問題視していることは、

信長が浅井朝倉攻めのとき、織田が朝倉軍を攻めたときに朝倉軍がどう行動するのか

信長が解説し、そのとき、どのような行動をとるべきか解説したにも関わらず、

家臣たちが動かず、信長が説教していた時、

佐久間信盛が「我々ほど立派な家臣団は他におりませんぞ」

と抗弁したことにも、非常に怒っています。


信長は、常に最悪の状況、通常通りいく状況、うまくいった状況の3点を

用意し、いろいろと状況が変化しても対応できるよう用意しています。


しかし、佐久間信盛は、織田信長が常に何度も言っているにも関わらず、

予断と偏見に基づいて、信長の指示を何度も無視したり、反省せずに反抗したりしました。


織田信長は実力主義者であると思われてきて、失敗は絶対許さないと

小説などでは書かれています。

しかし、佐久間信盛の折檻状にも書かれているように、

野田信長は戦に負けて失敗しても罰していません。

失敗は誰にでもある。そのことは罰しない。

しかし、バイアスを排除し、計画して着実に実行するプロセスをないがしろにする行為は、

織田家自体を滅ぼす行為である。

だから、予断と偏見にとらわれ、学習せず、上司の意見も聞かず、何も自主的に

問題を解決する行動をとらずに問題を先延ばしにする人間は、たとえ、古参の家臣であっても

ゆるすことはできない。

と信長は折檻状で語っています。


この折檻状を現代日本人は「ひどい!」「信長は非道だ!人情がない!」

と言って激高し、嫌悪感をあらわにする人が多いです。


それは、現代日本人の多くが予断と偏見にとらわれ「どうせ世の中そんなもんだろ」

「どうせ、そんなことがあるわけがない」

などと偏見を持ち、何か問題があると、それを見て見ぬふりをして

問題を先送りすることに慣れてしまっているからです。

だから、そんな、自分たちにとって「当たり前でありまったく罪でもないこと」に

信長が激怒し、佐久間信盛を追放したことに、多くの日本人は「織田信長は酷い人だ、

非情な人だ」と考えるのです。


織田信長は部下に関して非情に寛容でしたが、

朝倉攻めの時のように部下が「どうせ、信長様の言うように簡単に朝倉軍が撤退するわけがない」

という予断と偏見により、部下たちが動かなかったこと。

本願寺は強大だが大軍で包囲していれば、積極的に何か工作をしなくても

何とかなるだとろうと佐久間信盛が考えた、予断と偏見、

そうしたバイアスをもって行動したことに劇尾しているのです。


また、敦盛の「人五十年、下天の内にくらぶれば滅せぬもののあるべきか」を家臣の前で

何度も繰り返し、この世に変化しないものはない、強い者も必ず滅びるものだ、

絶対自信過剰になるな、いくら勝っても、順調にいっても、絶対自信過剰になるな。

と常々戒めているのです。


信長は桶狭間の大勝のことを「たまたま勝った」と言っている。

これを、「ああ、何もしないでも偶然勝ったんだ」ととらえるのは間違いで、

信長は桶狭間の前に非常に多くの砦を桶狭間近隣に建設し、

村木砦をはじめ、三河の城を細かく攻略し、細かいテストや予行演習を

再三にわたって行って状況を把握しようとしてるのです。

信長は心配性で、何度も細かいテストを繰り返し、細かく

布石を打ったうえで対応しているのです。

織田信長は桶狭間の評定で、ダラダラしていて、家臣から「知恵の鏡も曇った」

と言われているのですが、そうしていられるのは、

それ以前に、もうすでに、細かく対策を積み重ねているからです。


現代日本人は何か問題があらわになってから合われて対策しようとしますが、

それでは遅いのです。

問題が起こる状況を想定し、それを予防するために、予断と偏見、

バイアスを排除して対策する。その対策は、現実に合致しているか、

何度も細かいテストを繰り返して確認する。


そうした作業の積み重ねによって、信長は勝利をつかんできた。

信長は、自分を「すごい人間」だなんて全然思っていないのです。

だから桶狭間も「偶然に勝った」と思っているし、

佐久間信盛のように「どうせ勝てる」と将来を甘く見積もっている家臣は、

たとえ古参の家臣であっても、追放するしかなかったのです。

一時の感情で追放したのではなく「追放するしかなかった」のです。

織田信長は家臣に優しかったが、唯一、

家臣に激怒したのは

予断と偏見に基づいて予測可能だった行動を起こさなかったこと。

主な事例としては、朝倉攻めで家臣が動かなかったこと、佐久間信盛が石山本願寺

包囲作戦で打開策を講じず、また分からないのであれば、質問をしなかったこと。


バイアスを排除するために、信長は常に知識と情報を集め常に勉強していた。

家臣にもわからないことがあれば質問するように要請していた。


それを無視する家臣は古参でも追放するしかなかった。


なぜ、信長がそんな行動をとったかといえば、そうしなければ、

予断と偏見を排除する努力を怠れば、これだけ強大になった織田家でも

簡単に崩壊し滅亡する危険性があると考えていたから。


信長は、自分の知識の整合性を確認するために、知識を定期的に

家臣に開示した、その場が茶会であり、よって茶会は織田家臣団によって

大きなウエートを占めることとなった。

特に、木下藤吉郎は茶会を開くことができるアイテムである茶器に非常にこだわった。

実務主義者である藤吉郎は芸術には関心はなく、あくまでも実務的な意味でそれを求めた。



信長の成功のプロセス。

徹底的にバイアスを排除する。


冷静に予断と偏見を排除するために、

情報を多角的に収集し、細かくテストして、現実と合致しているか

何度も確認する。


リスクを回避するために、一度考えて結論を出したあと、期間を置いて、

もう一度決断を考えなおす。



今回のまとめ。


バイアスを排除せよ。


バイアスを排除するためには知識と情報を集めよ。

その情報が歪曲していないことを確認するために、

その知識を隣人に開示して確認する。


傲慢と自信過剰こそ織田信長は恐れた。

よって桶狭間の戦いも周到な用意によって勝ち得たにも関わらず

「偶然勝てた」と考えており、二度と同じ戦法は取らなかった。


織田信長は寛大であったが、

唯一、予断と偏見によって家臣が動かなった時には激怒した。

それは、バイアスを放置すれば、織田家のような強大な組織でも、

簡単に崩壊すると考え、決して楽観視していなかった。

だから佐久間信盛追放は一時の感情論ではなく、

そうするしかなかった決断であった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 以下誤記と思われます >野田信長は戦に負けて失敗しても罰していません。 織田信長は~ >そうしたバイアスをもって行動したことに劇尾~ そうしたバイアスをもって行動したことに激怒~
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