織田信長の性格
今回は、織田信長の性格に言及してみよう
小説などでは、織田信長の性格は積極的で、ポジティブで、自信満々で、
無神経で、自慢ばっかりしているように描かれることがありますが、
そういう小説を書いている人は、たぶん、信長が実際に自分で書いた書簡など
一次資料を見ていないのでしょう。
「信長文書の研究」という本が出ており、口語訳で読むことができるので、
それすら読んでないということは、怠慢でしかありません。
実際の織田信長の性格は、繊細で、神経質で、心配性で、かなりネガティブです。
織田信長の性格を表すエピソードとして安土の女房衆虐殺事件というものがありますが、
実際、ここで「成敗」されたとされる人間ですが、
そこで「成敗」されたとされる尼は、実はその寺の記録でその後も存命が確認されています。
実際「成敗された」と書かれているのに、その後も生きているのです。
これはつまり、「成敗」とは殺すことではなく、処罰するという意味であったようです。
通常、戦国時代は家臣に反意があるとき、後の裏切りや恨みを受けないように、
その場で「成敗」して殺します。
しかし、織田信長は罰しても殺さないことが非常に多くあります。
これは戦国時代ではありえないことです。
実際、明智光秀を殴りつけ、斎藤利三も殺そうとするも部下に命乞いされると
許しています。自分を殺そうとした弟でさえ一度は許し、謀反を起こした兄も許しています。
これは戦国時代ではありえないことです。
江戸時代になって、織田信長が悪逆非道に描かれるようになったのは、
幕府の重役に明智氏の人材が多用されたからです。
大奥をつかさどる春日局は謀反人斎藤利三の娘ですし政治をつかさどった
天海も明智の一族であったといわれています。
結果的に織田から政権を簒奪した形になった徳川家の元では、
織田が悪訳とされる必然性があったのでしょう。
信長は足利義昭にも非常に気をつかっており、知り合いの公家にも
義昭が自分の意図を理解してくれるだろうかと心配する書簡を送っている。
織田信長は心配性で、事前に最悪の事態を想定し、少しずつ状況を改善しようと試みている。
それだけ神経質だとストレスもたまりがちで、
彼はストレスを発散するために、馬で森に分け入って、盛んに野駆けしている。
そのほかには銭の旗をかかげて、それをよく眺めていた。
またイライラを収めるために、刀のツバに銭の浮彫を彫り込んだものとつかっており、
それを指で数えて、ストラスを押さえていたようである。
織田信長は苦境を前にした時、少しずつ、小刻みに改善していく性格で、
そのため、今川義元に対する防御陣も、大きな要塞を一つ作るのではなく、
小さな砦を大量に作って対応する方策を取った。
また、もっとも特質すべき性格は、常に「死」を考えていたことだ。
彼は平家物語の諸行無常を好み、「世の中は常に変化してゆく、常に同じであり続けることはない。
すべて
この世に生を受けたもので滅せぬ者はないのだ」
と常々言っており、人間は死ぬからこそ、現在ある生の一時を無駄にしてはならない。
と常々言っていた。
「死」というとネガティブで目をそらしたいことだが、信長は常々
「人間は必ず死ぬのだ。だから生を全うしなければならない」
と言い、漫然と時間を過ごすことはなかった。
また、書を読み、忍者に情報を探らせ、とにかく、情報を集めさせた。
織田信長の知識量が極めて豊富であるのは、安土城建設のさい、信長自身が
指示して作らされた壁の蒔絵の模様が非常に多彩な日本や中国の古典に由来するものであった
ことがわかっているからだ。
そこから織田信長が非常に膨大な数の書籍を読んでいたことがわかる。
今回のまとめ
小説などでは非常に積極的な性格に描かれるが、実際は非常にネガティブな性格であり、
心配性だった。またストレスをよく溜めるため、それを発散する行動もとっていた。
1、ストレスがたまると森を散策する。
2、ストレスがたまると銭を書いた旗を眺めたり、銭を数えたりした。
3、問題解決は小刻みに刻んで、少しずつ解決していった。
一気に大きなことをするのではなく、
最終目標を定めて、それに向けて、小さい事からコツコツとこなしていった。
4、生きる動機付け、ヤル気を出すために常に「死」について意識していた。
人間は必ず死ぬのだから、今の時間を無駄にしてはならないとよく発言し、
平家物語の所業無常という言葉を尊び、その題材の舞をよく踏んだ。
5、この世の中に変わらぬものはない、として、常に新しい情報を集め、
非常に多くの書を読んで知識を蓄積していた。