多様な価値観の受け入れの先にあったもの
多様な価値観を許容すると無頼や無法が発生する。
今の人の印象からしたら考えられないでしょうが、
織田信長はかなり家臣たちからなめられていました。
最初の頃の印象は良家のお人よしのお坊ちゃんという心象を受けていたようです。
それによって発生するのが信長公記にエピソードがある鉄火起請のようなトラブルです。
池田恒興の家臣が盗みを働き、織田信長の乳母兄弟の池田恒興の権威を傘にきて
しらばっくれようとした。
信長はこの家臣を切り殺すさい、問答無用に切り殺すのではなく、
当時の裁判の法令に従い、自分が真っ赤に焼けただれた鉄の棒をにぎって
運び、その上で切り殺します。
尾張には平野甚右衛門、筑紫川崎や鎌田五左衛門などの有能な武者がいましたが、
信長の優しさのために増長して、信長の命令を度々無視していました。
彼らのバサラ風の価値観も許容しながらも、これらの無法行為は
社会全体の風紀を乱すものであり、
織田信長は法令厳守とともに、厳罰主義を行使します。
人間は人間の情や思いやりだけで動くものではなく、
多様な価値観をもった人間が混在すれば必ず争いを起こす。
そうした状況の社会の中では法令で厳しく拘束し、
その法令を破った者はたとえ有能であっても追放する。
そうした厳罰主義を施行しないかぎり、多様な価値観の共有はなしえない。
そうした信長の実体験が「天下布武」武力によって日本を統治するという
考え方にもつながっています。
現代では、織田信長がどうしてそこまで厳罰にこだわったか、理解できず、
これは織田信長の残忍性に起因すると考える人が多いですが、
実際には織田信長の寛容さに増長して風紀を乱す者が多数発生したために
厳罰によって統制するしかなかったという現実があります。
そうした実体験からも織田信長は能力主義よりも
人間的な誠実さを珍重しました。
そうした信長の発想が彼の武辺道という哲学を生み、それが武士道という思想につながっていきます。
世の中は善意だけではうごかない。
善意に基づいた社会を構成しようとすると、
必ず、その善意を悪用した無法者やフリーライダーが発生する。
そうした無法者やフリーライダーを抑止するためには
厳罰主義が必要になってくる。
選択肢は多様性の排除か、法令順守の厳罰主義しかなくなってくる。
織田信長は厳罰主義を選んだ。
その思想が「天下布武」の交付につながってくる。




