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織田信長の行動記録  作者: 楠乃小玉
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切腹と弱者救済

切腹には自決と詰め腹と差腹の三種類があった。

人間は腹を切っても死にません。

しかも、腹には神経が集中しており、切るとものすごく痛い。

より楽に死ぬためには口に刀を咥えて建物から飛び降りるか、

喉を切って死ぬか。

切腹という荒業ができない女子供は死ぬとき、喉を切って死にます。

本気ですぐ死ぬためには肝臓や腎臓の場所を突いて、しかも捻じらねばなりません。

何人も人を殺している戦国時代の武士はそれを知り抜いていました。

それでも、どうしてより過酷な方法で切腹してはてたのか。


実は、戦国時代の自害は、介錯がいない場所では喉を突いたり、刀を加えて建物から

飛び降りることもありました。

文献いよりますと、戦国時代も後期、柴田勝家は腹を十文字に切り裂いて、

内臓を自分で引きずり出して死んでいます。

織田信孝もおなじような死に方をしています。


この傾向は、織田信長の時代に確立します。

織田信長の時代、

切腹には三種類ありました。

敵に追い詰められて、敵につかまって生き恥をさらさぬよう自害する

自決。

何か問題が起こって責任を取る形での詰め腹。

これは現在でも責任をとって会社を辞めるとき、詰め腹を切らせると言いますね。


もう一つが差腹さしばらです。

これは自分の要望を叶えてもらうために切腹してはてることです。

城兵の命を助けるために切腹した高松城の清水宗治、三木城の別所長治などがこれです。

これは、自分の命と引き換えに、条件を飲ませるわけですから、

相手が切腹したあとに相手方がこの約束を反故にすると、その武将は信用を失い、

のちの謀反や裏切り、後ろ討ちなど身内から見捨てられるリスクがあるので、

約束を守るしかありません。

織田信長が秋山信友が開城するとき、自分は切腹せずに口約束で妻や城兵を助けると

約束をしましたが、こういう場合、助命を無視しても、当時の道徳観念では、身内を守るために

切腹しなかった秋山が生き恥をさらしたことになり、織田信長は悪いとみなされません。


城兵を置き去りにして逃げてしまった荒木村重もそうです。


こういう風に切腹によって相手に何らかの大きな要求を通すことになるので、

切腹という作法は、どんどんエスカレートしていきます。

簡単に死んで、要求を通されてしまっては、とんでもない要求を簡単にされてしまうことになるからです。

この要求の中には、父親を不法に殺された子供が、自分が切腹するかわりに、

自分の父を殺した奴を切腹にしてほしい。

というような要求も含まれていました。

織田信長は、治安の向上のため、この要求を呑んでいました。

この結果、イジメをして恨みを買ったものは、たとえ武芸が強くても、

弱い者がヤケクソになって切腹してしまうと、信長によって殺されてしまうリスクが発生する。

よって、信長の支配下では、織田信長の提唱した武士道が瞬く間に広まっていきました。

卑怯なことはしない。弱い者イジメはしない。

そうしないと、恨みを買って、イジメられた側が差腹をしてしまい、

自分が殺されてしまうからです。

よって、武士は弱い者に優しく、イジメをしないという道徳律を守るようになりました。

日本人が他の民族よりも心が美しかったからではなく、織田信長の構築したシステムの中で、

日本人の道徳心は向上していったのです。

そのウラには、道徳や正義に従わない者は徹底的に殺す!という織田信長の強い意思があったのです。

織田信長のシステム構築を見ていくと、人間に対する溢れんばかりの優しさと慈悲とは

裏腹に、人間の良心に頼らない、きわめてドライなシステム構築によって人間を

コントロールし、それに逆らう者には恐怖を与えるという方法で、乱れに乱れた日本の治安を

回復した信長の姿があります。

その一つが差腹でした。ですから、簡単に死なれてしまったのでは、どんどん報復が発生するので、

どんどん切腹の作法もむつかしくなっていきました。


しかし、これは織田信長という強力なカリスマがあってこそ成立した方法論であり、

このシステムを継承した江戸幕府においては、

徳島藩で何の落ち度もない武士が、その武士をねたんだ武士が切腹したことで、

無実のまま切腹させられる事件が起こり、徳島藩では差腹が禁止になります。

そして、なにより、最大の出来事は赤穂浪士の討ち入りです。

江戸時代初期、それまで、正当にイジメに対する報復で行われていた差腹が、

妬みなどによって、無実な者が切腹させられる事態がいくつも発生し、

あげくは、差腹のシステムをソフトランディングで緩やかに廃止しようとしていた

徳川幕府が、浅野内匠頭が切腹したにも関わらず、吉良上野介を切腹させなかったことで、

赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたことで、本格的に差腹が禁止になっていきます。


差腹が禁止になることによって、切腹はただの死刑の作法ということになり、

そんなハードルが高い死に方ではなく、

江戸時代中期には、実際に短刀で自分の腹を切るのではなく扇子や木刀で

腹を切る真似をさせて、介錯人に首を切らせる方法が一般化していきます。


赤穂浪士の討ち入りにおいても、差腹の形式を嫌った幕府役人が大石ら上士数名以外の

赤穂浪士たちには木刀や扇子を持たせ、短刀による切腹をさせなかったことはあまり知られていません。

こうして、切腹という形式は差腹の消滅とともに消えていくこととなります。

自殺のやり方のハードルがどんどん上がっていったのは、差腹による要求が簡単にできないようにするための抑止力であった。

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[気になる点] https://ncode.syosetu.com/n7653fa/42/ >刀を加えて建物から飛び降りることもありました。 は >刀を咥えて建物から飛び降りることもありました。 の …
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