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織田信長の行動記録  作者: 楠乃小玉
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土木と建築

土木と建築はまったく違うものである。

現代人は土木と建築を一緒に考えてしまいがちですが、

戦国時代において、土木と建築はまったく違うものでした。

織田信長は土木に熱心で、道橋奉行を作りました。

建築は普請奉行ですね。

こちらは徳川幕府が作った役職ですね。

織田信長の政権は土木に力を入れており、徳川時代はどちらかといえば建築に

力を入れていました。


徳川時代のシステムでは担当部署の奉行は一人ですが、

織田信長は、道橋奉行を坂井文助、岡八右衛門・山口太郎兵衛・河野藤蔵の4人任命しているんですね。

これは、津島衆や熱田衆の土木の専門家を集めて、それぞれの得意分野を

話し合って分業せよという意味で、談合の走りなんですね。

コストは高くつくが、それぞれの専門分野を生かし、強固なものが作れる。

堤などは安全が第一ですから、コストは二の次に考えて、

織田信長はシステムを構築していたのです。


これに対して、徳川幕府はコストを重視し、当初、入札制を導入しましたが、

安い業者に依頼したところ、手抜き工事などをして、堤が決壊するなど

被害が出たため、指名入札や談合など織田信長が作ったシステムが温存されました。


織田信長が戦国時代に作ったシステムとは、

談合や村社会、相互監視、炎上など、現代人から見れば古臭く忌むべきものと

思われがちなシステムばかりです。

これらはすべて、天才が現れなくても、能力がほどほどであれば社会が運営していける

システムであり、信長は自分がいなくなったあとのことも考えて、

善良な凡人が寄り集まっていても、社会が維持できるシステムを構築したのです。

信長が目指した社会は「争いのない社会」お互い争いあって、能力を磨くよりも

能力はほどほどであっても、、誠実な人が利益を得る社会を目指しました。

それは出世の象徴である飛龍や、戦いの神である摩利支天を崇拝せず、

平和の象徴である麒麟を珍重したことからもうかがえます。

また、本人も直筆で「極めて能力の高い人物よりも、能力はそそこそでも誠実な人間を登用する」

と言っています。

そして、その思想に裏打ちされたのが「天道思想」です。

この考え方は、人が見ていなくてもおてんとうさまが見ているので、だれも見ていなくても

手抜きをしてはならない。という考え方です。


この織田信長の思想は江戸の庶民に受け継がれます。

江戸の庶民の中でも、ファッションリーダーにあたる存在が八丁堀の同心でした。

彼らは士族ではなく、卒族という分類でした。


それは、戦国時代、消耗品である雑兵は加世者と呼ばれる臨時雇用の傭兵が使われていたのを

終身雇用の正規社員として雇った人々でした。

それは、小牧城の発掘調査で雑兵を居住させる兵舎が発見されたことで分かりました。

この雑兵、当時は御徒者と呼ばれた人たちですが、

織田信長の息子、織田信雄の陣営が崩壊し、大量に徳川に流れ込み、

これを徳川幕府は江戸の治安維持のために使ったのです。

それが同心です。

彼らは元々、織田家の雑兵で、織田信長の作ったシステムの中で動いており、

織田信長の作った文化の中で生活していました。

その行動様式に農民や工人など庶民は憧れ、模倣したのです。

それが粋の世界です。


その精神構造は

「宵越しの金は持たない」

「火事と喧嘩は江戸の華」

などであり、浪費文化を中心としたものでした。

徳川幕府は、この織田の精神文化が蔓延することで、また織田家待望論が

出てくることを恐れて、何度も緊縮政策をとり、贅沢や散財が悪であるという

プロパガンダを流布しました。


徳川幕府の緊縮賛美は、織田信長の亡霊に対する恐怖感が根底にあったのです。


それでも、庶民は幕府に隠れて「いぶし銀」など工夫をしながら消費文化を維持しました。


この火事と喧嘩を面白がる文化は、

村社会の中で相互監視して、悪い事をする奴がいないか監視して、

たとえ、エライ人、能力がある人、エリートであっても、ズルいことをしていたら、

文字通り、庶民が集団で騒いで、最終的に織田信長の許可を得て、本当に

炎上させる。

それが、現代の炎上という日本人の精神文化の根底にあるものです。

戦国時代、治安は地に落ち、悪い事をし放題だった状況から、

織田信長は人の善意ではなく、密告を「祭り」というイベントにしたことで、

相互管理における庶民に対する報酬としたのです。


その延長線上に比叡山焼き討ちがあります。


比叡山焼き討ちは、発掘調査の結果、寺院や伽藍などはほとんど焼けていないことが

分かっています。

重点的に焼かれたのは坂本の町です。

比叡山など寺院勢力は主たる収入を金貸しや米貸しに頼っており、

坂本には比叡山配下の商人たちの蔵がありました。

そこにた大量の証文があったわけです。

それを焼き討ちして灰にするのですから、末端の比叡山に借金をしている雑兵たちのテンションは

MAXにあがります。

そうやって、日頃とりすましているエリートを庶民が集団で血祭にあげる文化が形成されました。

信長が作った文化やシステムは談合や炎上など現代人から見たら眉を顰めるような

古臭く、廃棄してしまうべきシステムに思えますが、織田信長は、それを争いのない社会を

作るために構築したのです。当時としては極めて斬新な発想でした。


しかし、それを、そのまま、本当の事を描いてしまっては、

現代の庶民の読者は「これのどこが斬新なの?ふるくさ!」って思うので、

娯楽作家である堺屋太一氏や司馬遼太郎氏は織田信長の本が発売された当時、

最新流行であった、新自由主義を織田信長が発見したのだ!というウソを書いたのです。

それが、その昭和の当時の最先端でしたからね。しかし、

そんな昭和時代の最先端を戦国時代の織田信長は考えつくはずはないのです。

織田信長は当時としては最先端の発想を思いついたのですが、

それが行使され、定着した世の中では、それは当たり前の事であり、

古臭いものなのです。

だから、その当時として、最先端であった新自由主義、グローバリズム、解放政策などを

織田信長が開発したことにしたのです。

実際は、織田信長はそんなものは開発していません。

楽市楽座も、六角氏、今川氏真、斎藤龍興などがやっていたのを、廃止すると、

そのシステムに慣れていた民衆が混乱するので、これまで通りの慣習を継続することを

容認したにすぎません。

安土も六角のシステムを継承しただけです。


それを、まるで信長が発明したかのように現代の小説家が偽造したのです。


実際は、楽市楽座は、一向宗が細川勝元との闘争に勝って手にいれたもので、

当時は「大阪並み」と呼ばれてもてはやされた流行のやり方でした。

織田家はむしろ、座を守る神社勢力であり、こうした本願寺のやり方と敵対し、

神社、つまり既得権益の保護につとめました。

関の刀剣、瀬戸の茶器製造なども保護し、

天目茶碗の製造は瀬戸だけに許可するなど、

多くの産業を守るための規制政策を行使しました。

産業保護こそ信長のとった政策です。

神社勢力としてはそれが当然であり、そうした保護主義政策をとっていなければ、

津島衆や熱田衆など神社勢力が信長を支援するはずもなく、

今川義元配下の松平清康が猿投神社を焼き討ちにして座を解放し、大量の一向宗の移民を

受け入れるなど、神社勢力から見たら恐怖でしかない政策を今川方がとっていたので、

織田の国人衆も、圧倒的物量を誇る今川に対して、降参することなく、

死に物狂いで立ち向かったのです。

もし、そうした政治的背景がなければ、尾張の国人衆は次々と今川に寝返っていたでしょう。

武田崩壊時にはそういう事態が発生しました。

こした政治的背景なしに、歴史を語ることはできません。

織田信長は土木に力を入れ、

産業保護政策をとっていた。

それは、当時の神社勢力にとって利益であった。

そのため、神社勢力は死に物狂いで織田信長を支持したのだ。

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