「革新」とは何か?
改革とは何か?
織田信長は戦国時代のあった状況を革新し改革していきました。
では、「改革」とは何でしょう。
それは、現状に手を加えることです。
戦国時代とは室町幕府が崩壊し、完全に行政がコントロール能力を喪失し、
フリーフォール状況に陥ったということです。
それは、完全な自由競争の世界。
力が強い者、能力があるものが利益を得る。
弱い者ははく奪される。
それが正義とされる時代。
富めるものはどんどん富んでゆき、
貧しいものはどんどん貧しくなってゆく。
飢えれば他人から奪う。
生産しない。
道を作るという行為も、共同の利益のために私財を投入するということで、
愚かな事と考えられ、敵から攻め込まれないためという理由付けもあり、
積極的道路の建設はなされませんでした。
そうした政府、行政機関のコントロールが効かない世界では、
大金持ちになったものは身を守るためにどんどん蓄財し、
消費しなくなります。
個人が贅沢したからといって、その消費量はかぎられています。
そして、保身のために緊縮することが美徳とされる風潮になっていたので、
益々需要が縮小する。
行政による財政支出がない状況では、どんどん需要が縮小していく傾向にあり、
製造業は弱体していきます。
かわって、蓄財した富はデフレーションによって価値があがるので、
金を持っている者の勢力が増大する。
当時、古来より神社は物品の製造販売を支配しており、座によって販売を独占していました。
それに対して、物品の製造販売ができない寺院は荘園で採れた米を売って金を作り、
その金や米を貸して、利子をとって利殖していました。
寺院は、神社に物品販売を独占されていたからこそ、
金貸しのほかに、演劇、芝居、賭博など、物品を販売しない商売を
寺内町で行い、収益を得ていました。
人材派遣もそのうちの一つです。
ルイスフロイスの見分録によると売春も行われていたようです。
しかし、治安の整った社会では、製造業を独占する神社が圧倒的な力をもっていました。
しかし、デフレがスパイラルとなって推進し、製造業が弱体化し、金をもっている者が
力をもってくると、比叡山や本願寺など寺院勢力が強大な力をもってきます。
これがもし、強烈なインフレ状況であったなら、戦国時代に武装して力をもっていたのは
比叡山や一向宗ではなく、神社勢力であったでしょう。
そして、この中でも一向宗は武力をもって寺内町を拡大し、
細川勝元との闘争に勝利することによって、物品販売と徳政令免除の特権を得ます。
そして、それは元々大阪の本願寺の寺内町の中だけの話であったのが
「大阪並み」と言って武力をもって日本各地の神社を焼き討ちし、
その座を破壊して、物品販売をはじめました。
これが楽市楽座の始まりです。
楽市楽座は元々寺院勢力がはじめたものです。
松平清康も猿投神社を焼き討ちにして大量の一向宗徒を領内に流入させています。
これは、自由競争の結果であり、
自由競争によって強い者はどんどん強く、弱いものはどんどん弱くなっていきます。
そして、それが道徳的に正義であるという考え方が仏教勢力に蔓延していました。
デフレ状況の中ではお金を使わない、緊縮する。そのことによって、より蓄財が増大し、
価値があがる。
仏教の内部において、質素倹約を美徳とする概念はここに発生しました。
そして、大金持ちが緊縮すればするほど、世の中はまたデフレになり、
金の価値があがり、大金持ちの一向宗の勢力が増大します。
織田信長は、この状況に手を入れたのです。
つまり「改革」です。
これは、大金持ちから金を取って、庶民にばらまく。
この行為は、織田信長を支援していた熱田衆、津島衆の富豪にも行われました。
熱田、津島の富豪としては、自分たちは信長に味方してきたのに、
何で何の勝ちもない貧民に、自分たちの富をばらまくんだ!という
怒りもあったと思います。
おそらく、その信長への怒りを沈静化するために平手政秀は奔走し、
信長を赦免してもらうために切腹したのではないかと私は推察しています。
小説などでは織田信長の傍若無人をいさめるためと言われていますが、
実際に当時の発給文書を見てみますと、織田信長はとても礼儀正しく、
行政もきっちりしています。
織田信長文書の研究の編纂者 奥野高廣氏も「当時の文書を見ていると青年期の織田信長はうつけとはいえない」と記述しておられます。
織田信長は勢力を増しても、一貫して大金持ちから「矢銭」の名目で金を取り、
それを豪勢に庶民にばらまいています。
織田信長が京都で何度も馬ぞろえをしたのも、景気対策です。
天皇を威圧する意味でやったという説を唱える方もいらっしゃいますが、
文章で天皇も馬ぞろえを歓迎しておられます。
経済という感覚でみると、京都での馬ぞろえも安土での左義長も
すべて庶民に金をばらまくための行為であることがわかります。
改革とは自然にしていれば落ちていく状況を金を投入して修正すること。
労力をかけて修正することです。
それが、「改革」です。
しかし、庶民は楽が好きです。
何もしないで、そのまま落ちていき、そのために庶民はゆでガエルとなって死んでいくのに、
現状にあまんじ、何もせず、動かずにいたい。
そして、その現状から目をそらすために、
実際にはフリーフォールである「自由競争」を「改革だ!自由競争が改革なんだ!」と
叫んで、自分で自分をだましているのです。
自由競争とは責任の放棄であり、放棄です。
それをすれば、最初から余力をもっている金持ちが勝ち、貧乏人が負けます。
実際に「改革」をするということは、現状を修正することであり、
支出もともないます。痛みもともなう。だから、
道を作ったり、堤を作ったりして労力と支出を伴う行為や
自分の富を取られ、貧民に配ったりする行為は「改革」ではなく
「うつけ」「バカな行為」「保守反動」だと言って叫び、反対します。
現代小説で、織田信長が行った改革が、まるで「自由競争を推進した」かのように
描かれているのは、色々な要因がありますが、一つの理由が、
庶民が現状を「改革」したくなく現実から目をそらし、公共に支出することをいやがって、
けちって、楽なフリーフォール、自由競争こそ、責任の放棄こそ、放置こそ
「改革だ!」と叫びたい現実逃避を「改革」であるとしたほうが、
庶民も納得し、本も売れるというビジネス上の出版社の利益の問題もあったため、
現実に信長が行った道路建設や堤の建設、金持ちから金と取り上げ、庶民にばらまく、
といった行為は全部隠蔽され、
自由主義競争をやり、弱肉強食で生き残った者だけを優遇したかのようなウソが
小説として流布することになったのです。
織田信長は「盆山」を好みました。
これは、ルイスフロイスが「織田信長は自分を神とし、その偶像をボンサンとなずけて、家来に崇拝させた」と書いていますが、それは、彼の勝手な思い込みであり、
ボンサン、つまり盆山とは、石の盆栽の事です。
石を長年水にさらし、つるつるにして盆の上にかざる。
莫大な年月がかかる、とても手間がかかるものです。
それは、大名くらいにしかできない贅沢なので、織田信長のほかに、徳川家康、伊達政宗などが
盆山を持っていました。
この盆山、のちの盆栽の理念こそ、現状で放置していたら伸び放題になる木の枝、やゴツゴツで
岩原の荒い原石を磨いてつるつるにするなど、人の手で自然状態のものを修正する
つまり「改革」の精神があったのです。
織田信長がやろうとしたことは、室町幕府のような幕府行政を復活させ、
大金持ちから金を取り上げ、庶民にばらまいたり、道を作ったり、堤を補修したりすることでした。
このため、堺衆や本願寺、比叡山など大金持ちが怒って信長に反旗をひるがえしたのです。
現代人は、行政の放棄、自由競争こそ改革だと思っているが、
それは、ただの責任放棄であり、それをやることによって、どんどん社会は荒廃し、争いが激化し、
最終的には殺し合いまでいく。
それが戦国時代である。
その殺し合いの世界に終止符を打とうと考えたのが織田信長であり、
そのために織田信長が行った「改革」とは
大金持ちから金を取り上げ、その金で道路を作ったり堤を補修したり、貧乏人にばらまくことだった。
現在、ただの責任放棄、放置、世の中を荒廃させる自由競争こそ
「改革」であり、
規制をかけて国内弱者を保護したり、福祉を充実させる、本来の「改革」
が守旧派だの害悪だの言われているのは、
怠惰な庶民が望んだ責任放棄を「改革」と言ってやることによって庶民のご機嫌をとり、
出版物が売れるようにしたい出版社や新聞社などの意図によるものである。




