織田信長の価値観、今川義元の価値観
織田信長の行動原理は必ずしも、現代の合理主義を先取りしたものではない。
織田信長の価値観といえば、先進的で現代の人道主義や合理主義的考え方を先取りして
織田信長は行動していたんだという解釈がなされることがよくありますが、
実際は、当時の価値観によって行動していました。
人道主義に関しては、
山中の猿の話が有名です。
この話の中で、村人が障碍者の事を「あいつの先祖は悪い事をしたから、因果応報で
障碍者として生まれてきたのだ」と説明して放置している様子がうかがえます。
これに対して織田信長は村人に高級な絹の反物を渡し「これを売って、あのものの家を
建ててやり、残ったお金を生活費として養ってやってほしい」とお願いします。
これは、現代の人道主義に比類されるもののように思られがちですが、
実際には神道の考え方に基づいた行動です。
神道の考えでは神の恩恵は、神の前ではすべての人を平等に照らすものであるという
考え方があります。
これは、つまり、氏神様の元では村民はみんな平等であり、相互扶助しなければならないという
考え方です。
これは、現在の人道主義と同等のものと思われがちですが、
実際には自分の氏子はどのような者であってもみな救わなければならないという考え方です。
転じて、自分の村の者、同じ所領の内の者は平等にあつかわなければならない。平等に
守らなければならないという同族思想です。
ウラを返せば、自分たちの村の者、自分たちの身内でない者は見捨ててもいいということです。
織田信長は身内に対しては非常に優しく、謀反を起こされても何度も許していますが、
外的に対しては、極めて冷酷に処断しています。容赦はしません。
このように現代人から見れば、極めて不可解で、統一性がないと思われがちな行動も、
実際は神道の価値観によって矛盾のない行動なのです。
これに対して今川義元は京の五山で学問を習得したエリートであり、
極めて仏教的価値観をもっていたようです。
その考えの根本にあるものは仏の慈悲と因果応報です。
これは、現代の実力主義の考え方と間違って解釈されがちです。
自分の門閥でもない松平元康を庇護し、熱心に学問を教えて育てました。
また、自分とまったく関係ない伊勢の商人が伊勢の国人衆から排斥されたのを怒り、
「けしからぬ伊勢の国人どもを討伐したい」と自分にとって何の利益にもならないのに、
軍を動かそうとした形跡がある文書が残っています。
しかし、貧困によって年貢を納めず逃散した農民に対しては、
討伐するよ家臣に命令を出しています。
これの矛盾した行動に見えますが、
これは愚かな者、無能な者、才覚のない者は、前世で悪いことをしたから
そのようなみじめな状況に陥っており、見捨ててしまえばいい。
他国の者であっても、有能な人材は、尊び、登用しなければならない。
という考え方です。
このような事情から木下藤吉郎は他国である今川領で一時働くことができました。
これに対して、有能な山本勘助を今川義元忌避して仕官させていません。
この行動は一見、矛盾しているしているように見えますが、
当時の価値観からして身体に障害がある山本勘助は「前世で悪い事をした因果応報でそうなっている」
と今川義元が考えて、仕官させなかったとしたら理屈が通ります。
それに対して、武田信玄は、本物の合理主義者であったように思われます。
これと反対なのが織田信長の行動です。
織田信長は有能な部下だけを雇い、登用したかのようにおもわれがちですが、
実際は無能な家臣も多く雇い、維持しています。
身代が大きくなって大量に有能な家臣が仕官しているにも関わらず、
古参の家臣を使い続けたり、親しくしていた者の身内を登用したり。
前田利家は、織田信長がかわいがっていた佐脇藤八の兄であり、長谷川秀一は
長谷川橋介の兄の子です。なお、長谷川橋介の兄、
長谷川与次は天正6年に行われた茶会で重臣たちと同等の扱いを受けています。
加藤弥三郎の妹の夫は佐久間信辰であり、佐久間信盛の弟である。
また、山口飛騨守の一族であると類推される山口重勝は凡庸な人物であったが、
信長から登用されつづけている。
無能であるというだけの理由で信長が解雇することはない。
怠惰や反抗など不誠実と思われる行動があったときに解雇しています。
小説などでは、石山本願寺や一向宗は旧社会の時代遅れの勢力と描写されがちですが、
実際には能力主義、一向宗に入信さえすれば、能力があれば氏、素性がどうであろうとも
関係なく商売ができ、出世ができた。
この価値観は現代合理主義ではなく、因果応報という仏教思想に裏打ちされたものであり、
当時の若者たちからもてはやされましたが、
半面、社会的弱者、能力のない者は容赦なく搾取される構造を作りました。
そういう意味では加賀の享禄・天文の乱のように地元主義を貫こうとした人々は、
容赦なく悪のレッテルを張られ、皆殺しにされました。
外国から渡ってきた陰陽五行、下剋上などの価値観が受け入れられたのも
こうした仏教的思想の背景があったからです。
この仏教思想は一向宗の「大阪並み」の掛け声とともに全国に蔓延することになります。
これは、国などという枠組みを取り壊して、能力のあるものはだれでも自由に売買ができる
世の中を作ろう。という思想であり、その反面、無能な人間は搾取されてもかまわない。
そういう弱い人間というのは前世で悪いことをしたから弱い人間に生まれてきたんだ。
という発想のものと、障碍者などは打ち捨てられていました。
よって、現在の福祉政策や人道主義とはまったく違うものでした。
これにたいして、織田信長の崇敬した神道の思想は身内保護主義であり、
だからこそ、身内に対して関税はかけてはならない。という神道を追及した考えから
国内の関所は廃止しますが、外国に対しては関所をたて、関税を取っていました。
ですから、織田信長の国内における関所の撤廃は現代の自由主義、グローバリズムの
思想とは違うものでした。
その反面、領地内の者であれば、障碍者も保護しました。
しかし、自分に逆らう者は徹底的に叩きのめしました。それは、織田信長の
領民保護主義の考え方からすれば、思想的に整合性のとれたものでした。
よって、これらの対立する二つの思想は、
現代の合理主義や人道主義とはまったくちがう、当時の価値観を基準にした行動原理であったのです。
当時、仏教的因果応報の考え方から国という枠組みを解体しようとする勢力が日本には
拡大していました。
そのスローガンが「大阪並み」であり、それに対して神道的価値観によって、
領民保護を掲げたのが織田信長です。
織田信長は神道思想における領民保護政策によって、領民の相互信頼を熟成して
団結心を向上させました。また貨幣は信用の取引であると考え、貨幣経済を成立するためには
信用の醸成が必要で、それを可能にするものは武力であると考えていました。
その思想こそ「天下布武」なのです。つまり「天下布武」は日本に信用経済を武力によって流布させる。
という意図がありました。
 




