六天魔王の意味
六天魔王って悪魔ではなく、実際は仏教の神様です。
織田信長がなぜ六天魔王と自分を重ね合わせたのか。
これは、織田信長の軍隊の基盤が津島衆であったことに起因します。
津島衆は南朝方の残党であり、
南朝の祖である後醍醐天皇は立川流密教を信奉し、六天魔王を崇敬していました。
また、信長は彼ら南朝方の民衆に自分自身が天人に扮して、
劇を見せて自分を天人と信じ込ませるようなプロパガンダも熱心にやっていました。
織田信長と織田信勝が戦った時、織田信長が一喝すると、信勝側の兵士たちが
ひるんで逃げてしまったので数において圧倒的であった信勝側が崩れて
負ける原因になったことが信長公記に書いていましたが、
事前に民衆に対して熱心に刷り込みを行っていたことが原因と思われます。
この六天魔王、現代人が効くと悪魔のように思うかもしれませんが、
実際は仏教に帰依した神様です。
阿修羅も最初悪神であったものが仏教に帰依して善神となったように
六天魔王も仏教に帰依した神様です。
薬師如来もヤクシーという夜叉に由来しています。
この六天魔王という神様は
人の喜びを自分の喜びと感じることができる神様と言われており、
織田信長はそのような政治を心がけていたことがわかります。
ちなみに、浅井、朝倉の骸骨を漆塗りにして披露したという記述がありますが、
この骸骨供養は立川流密教の死者に対する供養のやり方で、
死者を侮辱するものではなく、供養を目的としたものです。
織田信長が六天魔王を好んだ原因として、
信長が人生を謳歌することを民に推奨したことがあります。
織田信長は猛烈社員のような人物を決して好んではおらず、
自分が出陣する時、道端で農民が寝ていたのを見た家臣が咎めようとすると
「農民が昼寝していられるような世を作るのが我の願いである」として
そのまま寝かしておいたという逸話があります。
また佐久間信盛の折檻状において、織田信長が出陣中、佐久間信盛はさかんに茶会などを
開いていますが、その事を叱責してはいませんでした。
織田信長の子供たちもよく茶の湯などをして遊んでいましたが、
それは咎めず、ただ、長男信忠が他の子供たちと同じように遊んでいるのを見とがめた時は、
「お前は織田家を背負って立つ者なのだから、楽しみ方の方向性を間違ってはならない」と
叱責したという逸話が残っています。
つまり、人生を楽しみ、自分が学ぶにしても楽しみながら熱心に学ぶことが大切であると
教えているのです。
楽しみ、熱中する。
よく、
日本人は仕事をまるで遊びのように思っているという
たとえをされることがありますが、
仕事を苦役ではなく、遊びと取られて、熱心に探究し続けるという仕事のスタイルは、
織田信長のやり方にルーツがあります。
織田信長というと、実力主義や自由主義だと現代では喧伝されていますが、
実際は、相見互い、もたれあい、相互扶助、村社会、仕事は遊び、職人気質など、
日本の泥臭い、古臭いといわれている文化や方法論こそ、織田信長が
開発して日本に根づかせたものです。
仕事をするにしても努力するにしても、
必死に思い詰めるのではなく、遊び感覚で探究していく姿勢。
それこそ人生を発展させていく姿勢であると信長は考えていました。




