Wikipediaの伊賀衆の記述
私がウィキペディアに記述した歴史的記述の最後の一つが現存していたことを確認した記念に。
かなり前になりますが、伊賀衆の項目でウイキペディアの伊賀流の項目で、
織田信長が伊賀の乱で伊賀衆をほとんど大量殺戮したというウソが書いてあったので
修正しました。
私がウィキペディアでソースを添付して修正した項目はほとんど削除されて、
跡形もなく改変されてしまっているものがほとんどですが、
この項目は珍しく残っているものです。
「参考伊賀紀」(伊陽平定志著、安政4年(1857年)筆)より抜粋する。
天正9年4月、上柘植の福地宗隆、河合村の耳須弥次郎の2人が安土城の信長の所に訪れ、伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た(柘植氏は天正7年9月に棟梁の柘植保重を伊賀衆に殺害されており、以前より遺恨があった)。『信長公記』『多聞院日記』には9月3日に攻撃開始との記述があるが、『伊乱記』では9月27日に6か所から攻撃を開始したとされる。伊勢地口からは織田信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口からは蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光。『多聞院日記』の記述では総勢1万余とされている。伊賀衆といっても、柘植氏などは信長方に就いており、甲賀衆の多羅尾光俊は永禄11年の段階で織田信長に忠誠を誓っている(参考資料:『信楽町史』『多羅尾の歴史物語』『甲賀郡誌』)。また、多羅尾光俊は、天正2年1月、信長の側近である福富秀勝、毛利長秀とともに多聞城番手を勤めているので、近臣として非常に信頼されていたことがうかがえる。
伊賀に攻め込んだ織田軍は、進軍した先の村人は攻撃しなかったため、かえって、順回中の耳須弥次郎を、長田村の住士の家奴与助と小田村の庶民庄八によって襲撃され、殺害されてしまう。比自山城を攻撃したのは筒井順慶と蒲生氏郷、堀秀政の軍勢で、城兵の将は、百田藤兵衛、向井氏、小沢智仙、住吉市平、福喜多将監、町井清兵衛、森四郎左衛門、村田勘四郎、加藤熊之助、富岡氏、吉田左近とされている。筒井、蒲生の軍は朝屋丸を守る福喜多将監を攻め、風呂谷で合戦をする。
比自山の伊賀勢は「終日の戦に多勢をうたせて甚だ疲れ、今夜は前後も知らず臥らめとこそ存候へ。催し長岡山に夜討ちせば順慶が首を得むこと掌にあり」として筒井順慶の陣地に夜襲をかけるが、織田方に味方していた伊賀衆の菊川清九郎に気づかれ、成功しなかった。このため、滝川一益や丹羽長秀などの軍勢が今後合流することを懸念して、夜陰に紛れて城を棄て、城兵は逃亡した。織田軍が比自山城に攻め込むと、誰一人いない状況であり、蒲生氏郷や堀秀政は悔しがり、比自山城や近隣の諸堂をことごとく焼き払った。(私はことごとくとか書いてませんが、たぶんあとで文書が付けくわれられています)
比自山城が落城すると、織田信雄の軍は南伊賀の拠点、柏原城の周辺に集結する。進軍にあたって、民衆の皆殺しなどの掃討作戦をしなかったため、織田軍が撤退したあと、北伊賀では土豪が決起して、織田の守備隊が守る忍田城を攻め、国制の裁判人たちを殺害した。伊賀勢は柏原城に立てこもり、天正9年10月8日卯刻より戦闘を開始する。力攻めをするが、犠牲が大きいとの判断から兵糧攻めに切り替える。織田軍が農民たちを掃討しないのを見た伊賀勢は、城兵3人を城から抜け出させ、農民を集めて松明を持たせ、背後から織田軍の陣を驚かす作戦をとったが、丹羽長秀に見破られて作戦は失敗する。
10月25日になって、奈良の大倉五郎次という申楽太夫が柏原城に来て、和睦の仲介に入り、惣名代として滝野吉政が28日早朝に信雄に会って、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けた。『信長公記』ではこの停戦時期を9月11日としている。『多聞院日記』では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、日程のずれはあるが、当時の伝聞を集めた記録として信頼性は高い。
この部分が私が書いた部分です。
ウィキペディアの天草の乱も
宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ) 単行本 – 2010/2/11
神田 千里 (著)
のソースをページ数まで添付してもすべて消されました。
いずれ、この伊賀流の項目も消されたら、私がウィキペディアに書いた記述は全滅になります。
現在はウィキペディア書き込み禁止になっているので、
今後ウィキペディアに新しい記事を書くことはないです。
伊賀の乱の終結は一方的虐殺ではなく講和で解決しました。