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織田信長の行動記録  作者: 楠乃小玉
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織田信長の組織構造

織田信長は既存の日本社会の社会構造である年功序列を否定するような組織作りをしていた。

織田信長は能力主義者ではなく、あくまでも多彩な人材を集めた。


織田信長に関する状況証拠を探っていくと、

独特の組織体系が浮かび上がってきます。

それは、新人重用システムです。

織田信長は新参者の中で多彩な人材を5人ほど抜擢し、その人物を

自分のそばにおいて、いろいろと情報収集をさせていました。

意見も聞きました。


本来、日本の社会は年功序列であり、信長のような組織構築はありえないものでした。

織田信長はそれを、合理的組織であると考えてやっていたようですが、

既存の譜代の家臣からは、自分たちが軽んじられたと感じた部分が多かったようです。

そのような事から、林秀貞の謀反が発生することになります。


一番最初は事務方では佐久間信盛、村井貞勝、島田秀満、織田秀敏、赤川景弘が重用され、

軍事部門では、池田勝三郎、 織田造酒丞 川口宗吉 平野甚右衛門 佐久間盛重

が重用されています。

世間的にはあまり知られていませんが、

一番最初の黒母衣衆筆頭は平野です。


しかし、池田勝三郎が目にかけていた小者が織田造酒丞配下の者の家に盗みに入り、

諍いが起こったことからこの組織は解体していきます。


池田勝三郎は信長の乳母兄弟であり、本来であれば、その配下が無法をはたらいても、

他の家臣は泣き寝入りするところですが、織田造酒丞は武功により織田家から

織田の名を拝領した織田岸蔵坊の子孫であり、プライドがあります。

また織田造酒丞が信長から重用されていた根拠として、

息子に織田信長の「長」という字を拝領しています。

織田造酒丞はその拝領した名前に一時加えることは恐れ多いと考え、

子供の名前を織田長にします。

それほど、キズナが強い関係だったので、相手が信長の乳母兄弟の家臣でも

かまわず対立したのです。

むしろ、寵愛の奪い合いをした形になります。

ゆえに、信長は自分で焼けただれた鉄を握って、火起請をして解決するまでに至ったのです。


その後、信長はより若い、岩室長門守、加藤弥三郎、佐脇藤八、長谷川橋介、山口飛騨守を

重用するようになります。

こうした人事が、のちの人に「信長は実力主義で、無能な家臣はすぐに切る」

という誤解を与えたのですが、

信長は、決して能力主義者ではありません。

信長自身が能力主義を否定する発言をしています。

「組織に貢献してくれるのは


優秀な者よりも


能力は並の上だが、


忠実な者の方だ。」

「生まれながらに才能のある者は、


それを頼んで鍛錬を怠る、自惚れる。


しかし、


生まれつきの才能がない者は、


何とか技術を身につけようと


日々努力する。


心構えがまるで違う。


これが大事だ。」


再三にわたって能力主義を否定しています。


信長はこの若い5人を選ぶにあたって、能力よりも多彩な人材を登用しています。


この五人は、のちに岩室長門守が死に、佐脇藤八が片手を失うに至り、次世代に交代させられていきます。


そこで出てきたのが木下藤吉郎、森可成、丹羽長秀、明智光秀、柴田勝家などです。


このように年功序列ではなく、常に新参者を5人ほどのプロジェクトとして身近に置き、

新しい情報を収集しようとするのが信長の組織作りです。


このやり方は現代においても極めて異例であり、

当時の人たちが信長の意図を理解しかねたのも当然のことです。

このことが、織田信長が寛容な統治をしたにも関わらず、多くの裏切りを招いた

原因であります。

林秀貞の謀反を招き、平野甚右衛門は不行状を重ねたあげく、本願寺に寝返ります。


加藤弥三郎、佐脇藤八、長谷川橋介、山口飛騨守らは、直接織田信長に歯向かうことができず、

引き続き土木分野で重用されていた赤川景弘に恨みを向けて、切り殺し、

出奔しています。


これらのトラブルから、信長は次世代の木下藤吉郎、森可成、丹羽長秀、明智光秀、柴田勝家は、

自分の側近から遠ざけるさい、木下藤吉郎には、筑前守、明智光秀には日向守など、

将来、新しい地域の中間管理職としての地位を保証し、家臣が不安を感じないよう

配慮しています。


その藤吉郎世代の次に出てくるのが、


万見仙千代、蒲生氏郷、堀久太郎、長谷川秀一、森蘭丸などです。





なぜ、新参者が古参の家臣より重用されたとわかるかというと、

万見仙千代に対する柴田勝家や木下藤吉郎の書状が残っているからです。

柴田や木下は、万見に対して、「どうか信長様によしなに」と

上司に対して使うような言葉遣いをして、迎合しています。

このように、あきらかに新参者であるにも関わらず、古参よりも

立場が上であったことがわかっています。


このような新参者を5人ほどのチームにして自分のそばにおき、

常に新しい情報を収集するというやり方は、本当に奇抜であり、

世界でもほかにやっている組織はあまりないのではないかと思います。


極めて斬新な組織形態であり、現代に信長がいたとしても

「無茶苦茶な事をやっている」

と見なされたのではないかと思います。

よって、理解できなので、

現代人は

「織田信長は能力主義者で、無能なものは容赦なく切り捨てたのだ」

と自分の常識の範囲内で解釈して納得しているのです。

しかし、実際には無能なものでも織田信長は切り捨てていません。

山口飛騨守の親戚筋にあたる山口重勝は凡庸な人物であったが、

改易されていない。

無能であっても忠実なものは信長は追放していないのです。

また佐脇藤八の兄である前田利家、長谷川橋介の兄の子である長谷川秀一も重用されている。

また森蘭丸は森可成の子供です。

岩室長門守の息子の小重蔵も手厚く保護された記録が残っています。

唯一、加藤弥三郎の一門から重用された人物が出ていませんが、

これは、兄の図書が謀反を起こした織田信勝と連絡を取り合っている書状が

複数現存しており、織田信勝と二股をかけていたことが信長の不興をかったものと思われます。






今回のポイント


織田信長は日本の既存のシステムである年功序列を無視して、

新参者を五人ほどのチームとするプロジェクトを組み、組織の中心に据えて

つねに新しい情報を収集していた。


織田信長は能力主義者ではなく、勤勉な者は無能な者であっても使い続けた。

また、自身が能力主義を否定する発言を何度もしている。

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